作品

少し前に学生さんから作品と言うと陶酔系の自己満足感があり違和感があると言うようなことを言われた。

作品をどのように定義づけるのかによって、この言葉は確かにそうですね。と言う回答にもなるし、そんなこともないよ。と言う回答にもなります。

例えばサッカーを継続的に行ってきた人がプロのサッカー選手に対して自己満足だけでサッカーを行っていると言うことは言わないと思います。それは、自分自身が努力をしてきた量からプロサッカー選手になった人がどれだけの才能を持ち、そして、努力を重ねてきたかを推測できるからです。多分、ここで重要なことはその事柄に対するリスペクトなのだと思います。

建築の場合、建築に対するリスペクトがあると作品と言う言葉に対して私は違和感を持ちません。一級建築士になるための勉強時間はそれほどでもありませんが、建築の設計が出来るようになるためには学生時代から合わせて膨大な時間を必要とします。そして、その膨大な時間の積み重ねが建築の中には流れています。師匠から弟子への知識のバトンタッチや施工技術の積み重ねなど様々な場所で時間の積み重ねが行われてきています。それはドブ川のようにチョロチョロとした流れではなくインダス川のような大きな流れです。

ちょっとしたアイデアを形にして作品だ!と主張している人もいるかもしれません。そこに誤解の原因があるように感じるところでもあります。しかし、建築を作るスタート地点は降って湧いてきたアイデアからスタートするかもしれませんが、その想いを建築物として構成するのは先述した様々な時間の積み重ねが必要となります。もちろん、降って湧いてくるアイデアをそもそも作り出すための時間の積み重ねや才能も必要になります。

自分が関わっている仕事や研究を深く知ると他の分野の仕事なども簡単には否定出来ないようになるのではないかと思います。ハッとするようなアイデアではなくても実はよくよく観察してみるとこんなにも深かったのかと思うこともしばしばあります。否定は簡単ですが、肯定することには造詣が必要になります。何事にも時間が必要ということなのかもしれません。

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