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「走ることについて語るときに僕の語ること(村上春樹)」からランニングとの向き合い方を考える-3/4

作家の村上春樹さんはランナーであり、ランニングについての本を書いています。ランナーなら誰しも感じたことがある感情を文章で表現されています。響くフレーズを引用させて頂き、自分の考えも添えて書きたいと思います。

何度かに分けて書いており、こちらは3回目の記事です。今回はウルトラマラソン編です。

前回(1回目・2回目)はこちら

はじめに:この本と私

私は走り初めて3年ほど経った時に、偶然この本に出会いました。当時はマラソンを初心者でしたが共感することが多かったです。その後フルマラソンで夢だったサブスリーを達成して、燃え尽き、また走り始めたという私のランニング遍歴の中で、5-6回読み直しました。

その度に新しい発見があり、モチベーションをくれ、時にはランナーの迷い・悩みにも寄り添う文章に助けられました。今思えば、自分自身のランニングに対する考え方に大きく影響を与えた内容でした。

先日久々に読んでみて、やはり良い本だと思ったので、私に響いた箇所を引用させて頂き、自分の考えも添えて書きたいと思います。

走り始めたばかりの方、レースに興味のある方、レース熟練者の方、広くランナー全般に通じる感情や視点があると思います。それは、走ることの本質、良いところだけでなく醜く苦しいところも表現されていると思います。

今回はウルトラマラソン編です。
ウルトラマラソンをご存じない方もいらっしゃると思うのでかんたんに説明します。

■ウルトラマラソンとは

ウルトラ(超)マラソンは「マラソンを超えた距離」のことです。マラソン=フルマラソン=42.195km、以上の距離のレースを総称しています。

そのため、50kmでも80kmでも120kmでもウルトラマラソンなのですが、キリの良い100kmのイメージが強く、実際に100kmのレースが多いと思います。

ランナーとの会話の中で「今度ウルトラ走るんだ」と聞いたら「100km走るんですね」と言ってあげると話が盛り上がると思います。

このウルトラマラソン(サロマ湖ウルトラマラソン)編は好きな言葉が多いパートです。

100kmのインパクトが強いですが、100kmは1つの比喩であって「極めて長い距離(超長距離)を走る体験」を書かれている箇所だと思います。

超長距離を走ることで感じることの苦痛・心身の変化、そして終わった後の気持ち、が印象的に鮮明にかかれています。

私も100kmは数回走ったことがあります。私自身、村上さんも過去に走ったサロマ湖ウルトラに出たときは、事前にこの本を再読してイメージを作ってから臨みました。「機械になる機械になる・・・」と唱えながら終盤は走りました。"機械"の意味は後ほど本文とともにご紹介します。

■100kmを1日で走る

あなたは100キロを一日のうちに走り通したことがあるだろうか? 世間の圧倒的多数の人は(あるいは正気を保っている人は、というべきか)、おそらくそのような経験をお持ちにならないはずだ。普通の健常な市民はまずそんな無謀なことはやらない。僕は一度だけある。

私自身も走り始めた頃5km, 10kmで頑張っていた頃は、フルマラソン(42km)も「全く想像できない距離」でした。それを超えた100kmマラソンというのは存在すら知りませんでした。

それが、自分が走れる距離が増えるに連れハーフマラソン(21km)、フルマラソン(42km)が現実的な挑戦対象になり、フルマラソンを数回走ったときには、ウルトラ(100km)に興味が出てきていました。

自分のレベルが少しずつ上がれば、見えてくる目標も少しずつ広がっていく、という段階を具体的に感じられました。

ウルトラの例は極端ですが、少し走れるようになるごとに、次の目標や視界が開けていくのは、ランニングの良いところだと思います。

私が始めてのレース(9km)に出た時のきっかけ・気持ちを書いた記事です。まだレースに出たことがない人のご参考になれば。

■100kmの意味

100キロを一人で走りきるという行為にどれほどの一般的な意味があるのか、僕にはわからない。しかしそれは、「日常性を大きく逸脱してはいるが、基本的には人の道に反していない行為」の常として、おそらくある種とくべつな認識を、あなたの意識にもたらすことになる。

100kmは一見長い距離ですが、人が十分に走り(歩き)切れる距離でもあります。しかも1日で。普通の人間の可能性のギリギリに置かれたチャレンジングな目標、それが100kmという距離だと思います。

■ウルトラマラソン専用シューズ

ニューバランスのウルトラ・マラソン専用シューズ(信じていただきたい。そんなものがこの世界にはちゃんと存在するのだ)

走ってない方々からすると「100km専用シューズ」はとてもニッチ(マニアック)なシューズだと思いますが、速く走る・長く走るなどの目的に応じてそれぞれのシューズはつくられています。ウルトラ専用はクッションとサポートがしっかりしたものかと思います。

2020年の今、ウルトラマラソン用を謳うシューズは店頭で多く見られます。一方で、村上さんがウルトラマラソン(サロマ湖ウルトラマラソン)を走ったのは1996年です。この頃に既にウルトラ専用シューズがあったんですね。24年前からウルトラマラソンに目をつけていたニューバランスはすごい。

■未知の体験

身体のいろんな部分が順番に痛くなっていった。右の腿がひとしきり痛み、それが右の膝に移り、左の太腿に移り……という具合に、ひととおりの身体の部分が入れ替わり立ち替わり、立ち上がってそれぞれの痛みを声高に訴えた。悲鳴を上げ、苦情を申し立て、窮状を訴え、警告を発した。彼らにとっても、100キロを走るなんていうのは未知の体験だし、みんなそれぞれに言い分はあるのだ。

走っている最中の描写です。100kmのレースの為に、100kmのトレーニングをする人は極めて少ないと思います。そんなに時間がとれないし、エイドや給水所などのサポート無しで100km走るのは大変な為。(フルマラソンでも練習で42km走る人は稀)

多くの人にとってレース本番ではこれまで走ったことのない未知の距離を経験します。「未知の領域に入ったときに自分の体がどう反応するか」は本人もわかりません。

けれど必ず何か反応は起きるので、それらをどうなだめすかし対峙していくか、がレース運びや完走可否につながります。

まさに、メンタルで体をコントロールする、という事だと思います。

■機械になる

「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。前に進むだけだ」  そう自分に言い聞かせた。

私自身もウルトラマラソン走ったときに唱えていた言葉です。80km前後が心身共にとてもきつい時で、そこでこれを唱えてひたすら脚を前に出していました。

極度に疲労している中で「右脚首がおかしい」とか「暑い」とか考えると、頭の中が一気に不安でいっぱいになります。気持ちが切れると体は動かなくなります。それを防ぐためにとにかく無心で無感情になる、を最終盤は心がけていました。

疲労していると気持ちをポジティブに持っていくことは難しいので、せめてネガティブにならないように無感情になっていた、という方が近いかもしれません。

■自分のルール

どんなに走るスピードが落ちたとしても、歩くわけにはいかない。それがルールだ。もし自分で決めたルールを一度でも破ったら、この先更にたくさんのルールを破ることになるだろうし、そうなったら、このレースを完走することはおそらくむずかしくなる。

この本で特に好きな箇所の1つです。

自分のルールに従うことは苦しい局面で自分を支え鼓舞します。

終わった時に心から「よかった」と思えるのは自分のルールに最後まで従えた時です。

長いレースではそのルールを何にするかが大事です。苦しくなると、複雑な言葉や付け焼き刃の言葉は思い出せません。

自分が最低限成し遂げたい事をできるだけシンプルに言語化して、覚えてスタートすると良いと思います。

私はレース前にはルールを手に書いて、苦しい局面でそれを見ています。ウルトラマラソンの時は「Slow but Steady(遅くとも動き続ける)」でした。

■疲弊を受け入れる

一時は沸き立っていた筋肉の革命会議も、今ある状態についていちいち苦情を申し立てることをあきらめたようだった。もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった。彼らはその疲弊を、歴史的必然として革命的成果として、ただ黙して受容していた。(中略)変な話だけれど、最後のころには肉体的な苦痛だけではなく、自分が誰であるとか、今何をしているだとか、そんなことさえ念頭からおおむね消えてしまっていた。

ウルトラマラソンのような超長距離レースで極度の疲労を超えると、無感覚になる時があります。

体も心も何も感じなくなる。とても疲れているけれど、その状態が当たり前になり、自動操縦で動いているかのような。

何も考えてなくても体が動くという、不思議な体験です。

■ゴールへ

僕のまわりで多くの人々が、ただ黙々とゴールに向かって歩を運んでいた。そんな中にあって、僕はとても静かな幸福感を抱くことができた。

100kmは制限時間が14-17時間という長時間のレースです。

5時間走ってもまだ半分行っていない、60km走ってもまだフルマラソン1回分残っている、という気が遠くなる長さ。

その長い時間を走り続けてのゴール直前、95kmを過ぎたあたりからは「本当に終わってしまうんだ」という感覚になります。

機械のように無感情に動かしていた体にも、最後には感情が戻ってきます。

ウルトラマラソンのラスト数キロは特に鮮明にその光景が記憶に焼き付きます。

周りのランナーとの一体感、ゴール周辺の歓声、少し遠くに見えるゴールゲート、ゴール続く最後の曲がり角、ゴールラインを踏んだときの足の感覚、夕日の中で座り込んで水を飲んでいる時の達成感。

私のサロマ湖ウルトラマラソンは数年前ですが、これらの光景は鮮明に今も覚えています。極限状態の脳は、その体験を覚え残す為に、最後に何かをしっかり記憶させようとするのかもしれません。

■リスキーなものを引き受け、乗り越える

リスキーなものを進んで引き受け、それをなんとか乗り越えていくだけの力が、自分の中にもまだあったんだ」という個人的な喜びであり、安堵だった。喜びよりは安堵感の方が、むしろ強かったかもしれない。体の中で堅く締まっていた結び目のようなものが、だんだんほどけていくのが感じられる。そんなものが自分の中に存在したことすら気づかなかったのだ。

「リスクを引き受ける」「乗り越える」「安堵感」の3つはウルトラマラソンに限らず、多くのレースに共通するものだと思います。

ランニングだけでなく、他のスポーツ、ひいては仕事や生活に於いてもかもしれません。

この3つを経験し続けることが、人生を豊かにしていく・意義のあるものにしていく上で大切なことだ、というのが村上さんの言外のメッセージだと感じました。

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他にもご紹介したい言葉がこの本にはあるので、また別の記事で書かせて頂きます。


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