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空白の3週間


 みなさまお久しぶりです。ご無沙汰してます。私がこの記事を書くのを急にやめてから約3週間が経過しています。この3週間というのは私にとって非常に大きく、人生において最も苦しんだ時間かもしれません。だからこそ、私はここにその気持ちを記そうかと思います。整理をつけるためでもあります。現在はタイのバンコクにいます。



 人間に唯一平等に与えられるのは「時間」だ。そして人間が行き着く先は必ず「死」という決まったところに着地する。これは誰しもがわかってることだろう。同時にこのことはいとも簡単に人間の脳から消え去ってしまうものでもある。

私はジョージアのゴリという町にいた。のどかな風景の中で強い風を浴びながら、この大地の上に確かにいることを感じていた。
あれは虫の知らせだったのだろうか。数日前に一緒にいた旅人が事故にあう夢を見たという。もちろん私のことではなかったのだが、私の中でその事実はずっとモヤモヤと頭の中を徘徊していた。まるでメリーゴーランドのようにゆっくりとそして何度も私の頭の中にその事実を突きつけてきた。
いつもの私ならきっとそんなことは2日も経ってしまえば忘れてしまうことだった。しかし、なぜか今回に限り、その話は一向に私の頭から消えることはなかった。

よし。ここからまた新たな道を拓き、世界を切り取ろうとしていた時の話であった。朝何度もかかる電話の音で目が覚めた。いつもはマナーモードの私の携帯が、大音量で響き渡る。これも神のお告げとでもいうのだろうか。私は電話先の相手が弟だとわかると、突然に嫌な予感がした。

「もしもし。」その声だけで全てを察した。
私ができる返答は「わかった」しかなかった。覚悟はしていた。現状も知っていた。でもどこかで期待していた。きっと大丈夫と。それは結局自分の中で無理矢理に作り上げた身勝手な空想だったのかもしれない。
確かにその時はやってきてしまった。私は遠く離れた地で同じ空に向かって顔をあげることしかできなかった。
私の中で何かが崩れた気がした。「死」に対する悲しみ、やりきれない思いと同時に、今ここで1つの物語が終わってしまうような感覚が生まれた。それは私にとって恐怖という形で襲いかかってきた。プツンと何かが切れる感覚。自分の中で目標としてたことに立ち向かっていた日々が急に夢のように淡く儚いものに思えてきた。現実という悪魔に引きずり込まれそうだった。

覚悟はしていたはずだった。でもそれは幻想だったみたいだ。今目の前に起こっていること、見えているもの、聞こえているもの、感じている匂い、気温、その全てが幻に見えてしまう。いや、見えていた。私の中では確実に幻に見えていた。

急に体が重くなった。何もしたくなくなった。昨日までの元気がどこかへ消え去ってしまった。この現状が理解できない。私はなぜか起きていた身体をまた横にし目を閉じてみた。何も変わらないことを知っているはずなのに。

すぐに航空券をとった。それしかできなかった。何をやってもうまくいかない。日中は頭を抱えボーッと空を見てるのが精一杯だった。全ての行程を変更し、私は日本に帰る決断をした。

そこからの行動に意味はなかった。その時はあったのかもしれないが、今振り返ってみても事細かに思い出すことができない。何がしたかった訳ではなく、何もしたくなかったというのが正しいだろう。しかし、何もしないというのは今起きていることを認めてしまうような気がして怖かった。だから意味もなく私はフラフラしていたのかもしれない。

2019年6月12日の話である。私はどこかでこの言葉を書き記していた。この日のことを私は生涯忘れることはないだろう。それほどまでに大きな出来事だった。

 急に景色が暗くなって見えたのも、身体が怠くなったのも、知らぬ間に目の前が見えなくなっていたのも忘れることのない事実だ。空港までの道のりは私にその現実を突きつけるような時間であった。ひたすらに伸びる一本道の脇に見える景色が走馬灯のように目まぐるしく私の視界から消えていく。

飛行機の中は寝れたもんじゃなかった。20時間越えのフライトも私は対して記憶に残っていない。いつの間にか成田空港に着いていた。私は一時帰国したのである。

 空港の外に出て感じる日本の匂い。どこからでも聞こえる日本語。安心感と呼ぶのだろうか。ただ、安心感とは違う何かも感じていた。しかしその言葉を私は未だに知らない。家に帰るまでの道のりは日本に帰って来たことを感じるには充分過ぎる時間だった。

 帰宅したのも束の間、私は現実を受け入れなくてはならなかった。受け入れたくはない、決して見たくはない事実を。そしてその姿を見た瞬間に何かが完全に崩れた音がした。今思えば、ジョージアにいた時の幻に見えていた世界がこの事実さえも同じように幻に見せていたのだろう。この時のショックはあまりに大きかった。

 そこからの数日間はバタバタしていた。バタバタしていた方がなぜか楽だった気がする。時折やって来る一息つく瞬間が嫌だった。深く押し込めたはずの感情が急に膨張し溢れ出て来てしまう。この記事を書いている今この瞬間もその感情は完全に消し去ることはできていない。この感情を「悲しみ」なんていう言葉一つでは表現できないと思った。私の心の中で複雑に混じり合い、混じり合ったと思ったら急に分解し、また新たな何かがやって来る。そしてまた勝手に複雑に混じり合い、私を混乱という地獄の様な場所に突き落とす。何度夢だったら良いのにと思ったことだろう。しかし、そんな思いも届かず、何度寝ても起きたときに目の前の世界は何1つ変わることなく私の前に存在していた。

 同時に私はこれからのことを急に考えなくてはならなかった。望んだ様な結末ではなかったが、帰国してしまった今、選択肢が生まれてしまった。このまま、日本に残って何か新たな生活を始めるか、また世界のどこかに飛んでいくか。大きなところはこの2つだった。正直私は悩んでしまった。「旅に満足したか?」そう聞かれると「決して満足はしていない」そう答えるだろう。行きたい場所も、見ていない物もまだまだ山ほどある。何より自分の中で何かを達成したという充実感が圧倒的に欠けていた。何かを「得る」とか「手に入れる」「成長」こんな綺麗事は何年経っても綺麗事でしかない。海外に出たところで自分自身が何か変わらなくてはどこにいたってそんなものは生まれない。いや、むしろ海外に出たところで変わらないと言った方が正しいのかもしれない。所詮は「道楽」に過ぎないのだ。だからこそ、自分の中だけで良い「充実感」が欲しかった。これは「成長した」とか「価値観が変わった」とかそんなものは含まれていない。むしろそんなものはいらない。
「やりきった」「楽しかった」「何も成長しなかったけど行きたい場所にいけた」こう言った圧倒的な充実感が欲しかった。残念ながらその時の私の手元にはそう言った感覚はなかった。
 同時に私の中で何かが途切れていることも理解していた。これを「緊張の糸」とでもいうのだろう。だからこそすごく悩んでいた。私は航空券を調べても「決済」のボタンを押せずにいた。

何度も私に問いかける2人の「自分」

「諦めて良いのか?何のために今まで頑張って来た?」そう問いかける自分と「もう良いんじゃないか。日本で新たな生活を始めてまた頑張ればいい」そう問いかける自分。どちらも私自身で間違いないのに、張本人の私が全く決断できないもどかしさ。日本での時間が増えていくにつれその決断力は鈍いものになっていく。

 私はとにかく悩んだ。きっとまた外に出れば何か新しいものに出会える。ただ同時にこの完全に切れた糸は修復できるのだろうか。前と同じ気持ちで前に進めるだろうか。そんな不安がよぎる。
日本に残れば何をする?今自分自身に何かがしたいという明確なものはあるのか?
正直どちらを選んでもうまくいく気がしなかった。ニートでもやろうか。冗談抜きでそんなことも思った。

 自分の中でタイムリミットは決めていた25日。何でかはわからない。長くいればいるだけ決められないだろうと気がついていたのかもしれない。こうやってリミットを決めると時間のスピードはとてつもなく加速していく。あっという間に1日が終わる。1秒の速さが倍以上に感じる。リミットに近づくにつれ私は不安ばかりが大きくなっていった。

 どうしたら良いのだろうか。夜通し悩んだ日も多かった。変なプライドが邪魔をし、私は帰国していることを友人などにほとんど伝えていなかった。そのため相談もできない。
 私はまるで神に祈るかの様に自分の中で答えが出るのを待った。

待っても待っても出ない答えに時に苛立ち、自分を宥め、また待った。焦らなくて良い。そう無理やり言い聞かせた。

その時は突然にやって来た気がする。いつの事だろうか。忘れてしまった。ある時亡くなった祖父のレンズを使って写真を撮ってた時のことである。撮った写真を見返していてまだ、見ていない景色がたくさんあることを改めて実感した。そして私の帰りを心待ちにしていた祖父だったらなんていうだろうかふと思った。
 反対していた祖父も出発の日には「頑張れ」と言っていたことが急に鮮明に思い出された。そうだ。こんな中途半端で終わらせちゃいけない。そう思った。思えば祖父も旅行が好きでカメラが好きだった。半世紀ほど前から写真を取り続けていた。旅行の際には自分はほとんど映らない写真やビデオを撮っていた。今の今まで気がつくことはなかったが、確かに私の中には祖父の血は流れている。
 馬鹿なのだろうか。私は祖父に背中を押されている気がした。不安の方が大きい。それは今この瞬間も何も変わっちゃいない。しかし、不思議にも心の中では答えが出ていた。
「やりたい」が「やるしかない」そんな風に変化した気がする。こんな気持ちで出る必要なんてない。そう思う人もたくさんいるだろう。でも私は出なくてはならないのだ。「やらなくてはいけない」のだ。これは誰のためでもない。自分自身のためにだ。もし、私があの日写真を撮りに出掛けなかったら人生は大きく変わっていたかもしれない。いや変わっても良いのだ。ただ、きっと後悔してしまっただろう。それは数日後かもしれない、数ヶ月後かもしれない、もしかしたら数十年後かもしれない。それだけは嫌だった。祖父はそのことを改めて教えてくれたのだと思う。こんなドラマや映画の様な話なんてきっと誰も信じないだろう。それで良い。
 あんなに反対していた祖父がどんな気持ちで私を送り出したのか、自分の体調が悪くてもいつも気にかけていたという。もしかしたら旅行が好きだった祖父にとってはそれは夢だったのかもしれない。

 私はずっと押せなかった「決済」のボタンを押せた。1歩前に出れたかと言われれば決してそんな前進できたわけではない。飛行機が飛び立つその瞬間まで、最初に出発した日とは全く違う恐れを感じていた。バンコクに着いてからも観光に行く気なんて起きず、ひたすら歩く毎日を過ごしている。ぼーっとしていると言われればそうなのかもしれない。意味がないと言われればそうかもしれない。
 でも私は自分のために決めたのだ。やり切ると。やるしかないのだ。

大きな目的なんてそもそもない。好奇心だけで飛び出して来た様なものだ。最初は毎日ワクワクした。いろんなことに興味が湧いた。まさに異世界に来た様な気分だった。しかしいつの日かそれが日常になって来た。ただ楽しいって気持ちだけではなくなった。面倒なこともある。楽したくなる時もある。慣れというのは時に恐ろしく人をダメにしてしまう。それでもやり遂げることにした。そう。それでもだ。


バンコクは雨季だ。毎日雨が降っている。まるで涙の様に。しかしいつの日か晴れる日が来るだろう。私もまたこの空と同じ様にいつの日か晴れる日を待ちわびている。


これより旅を再開する。