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連載|創業は赤いリンゴの時代②

前回に引き続き、おじいちゃん(富男/とみおさん)にぼく(努)がしい茸の創業時期について教えてもらったお話です。戦後のひもじさから抜け出すために始めたしい茸。何とか作ることができた初めてのしい茸は、真っ黒で市場で取り扱ってもらえませんでした。そんな時に親戚のおじさんに自分で売ることの面白さを教えられ、しい茸の楽しさに気が付いた当時18歳のおじいちゃん。今回はその後についてです。

富男さん

■土地の特徴と時代の流れが追い風に!?

努  しい茸が売れるようになって、それからどのようにして、組合ができるほど大きくなったんですか?

富男  あまりに面白いほど売れるんで、嬉しくて嬉しくてついつい友達には喋ってしまったんよ(笑)そしたら友達も「ワシもする」ゆうて、この村でもね一人か二人か友達でしい茸をつくる集団ができたんや。そういう集団がこのエリアにあっとういう間に10ほどできてしまったんや。あっちもこっちも。

努  すごいですね!

富男 そんでそれを、全部組合をつくるぞって言うことで、一つにまとめてしまったんや。

そう言うこと。

そしたら売る量がだんだん大きくなってきてね。大阪中央青果(大阪市中央卸売市場の青果部門)、そこでないとさばけない量になってもうたんや…(笑)一時期は、大阪市場のしい茸の値段に大きな影響を与えるレベルになったんよ。ライバルはと言えば奈良県などそういう強力な産地と競合するほどになったんよ。

努  すごいですね。兵庫県の中の一大産地になったんですね。

富男 販売伸ばすのと同時に、栽培の技術を自分流に確立していったんよ。そやから、その頃はワシら町単位でつくられる組合やったけんど、県単位の兵庫県しいたけ連合会という大きな組織と対等にやりあえたと思っとる。何でやっていったらな、市場(大阪市中央卸売市場)が味方についてくれたからや。

 それでも市場は何でわざわざ小さな町単位の組合の味方になってくれたんですか?

富男 そりゃ、ワシら「こうや!」と決めたらその通り走るもん。その代わりやるのであれば、よっぽど勉強してからやないといかん。まだワシも30歳やったし。若いもん。馬力あるやん。結局、信頼やと思うわ。やり方やな。いつの時代も同じと思うわ。まずはお客さんが味方になってくれることが大切やってことや。これは豊富秀吉のときから同じってことじゃい。今も変わらんと思うわ。

努  「お客さんが欲しいと思うもの」を作る。現在では売り場が市場から小売へと変化したものの、大切なことは変わらないということですね。

富男 あとは、しい茸のブランドもね、大切やったと思うわ。

努  ブランドですか?

富男 うん。農協もね、当時二つあってね奥は六瀬村、向こうは中谷やったんやけんど、普通やったらそれぞれの農協の名前でしい茸を出してたと思うんや。しかし、先取りして「猪名川しい茸」っちゅう名前で売っていたんよ。それは、今の町になる(昭和30年六瀬村と中谷村の合併によって猪名川町が誕生)随分前のことや。別々のブランドにせずに、その時から「猪名川しい茸」でやっていたから市場でも認識してもらえたんやと思うわ。そやけど、その時代は面白かったで(笑)

  なるほど。。。産地を大きく捉えていたんですね。

富男 そうや。産地と言えばね、その時代の追い風やったんが、ガソリンやプロパンガスの登場や。ガソリンが出てくる前はこの辺りのバスはみな木炭車やったよ。バスの後ろにこんな釜があってね、炭をもやして走らせとったんよ。でも木炭車はキッツイ坂は登られへんねん。下手するとバックしよんねん(笑)昔はそんな時代。そこに、ガソリンやプロパンガスがでてきたやろ。それから、炭やら薪やらがさっぱり売れへんようになったんよ。この地区は、昔から炭の産地やったやろ、それが売れへんようになって、困り果てていたんや。そんな時にしい茸が売れるっちゅう話になって、その木がみんなしい茸の栽培に転向してきたわけ。

  炭焼きの木があったから、大きな産地に成長できたというわけですね。

富男 そうや。ちょうどその時には、ワシらすでに大阪中央市場に下ろし始めておったんでみんなしい茸栽培を始めたんよ。毎年毎年、組合の取扱量は増えていった。タイミングも良かったんよ、まぁひとつの運やな(笑)


■100円のしい茸が10円のピンチも…

努  しい茸で成功されたと思うのですが、実際は苦労もあったのではないでしょうか?

富男 苦労した言うたら…、大阪中央市場の相場がどーんって下がったことかな。生しい茸の値段で本当は100円で売りたい品物が、10円まで下がってしまったことがあったんや。

  それは大変ですね。。それでどうされたんですか?

富男 せっかく作ってくれた組合員のみんなに対して申し訳なくて、困り果てたんや。それで、腹をくくって「よっしゃ全部買うわい」と仲買人に伝えたんよ。

努  おじいちゃんが全部買ったんですか!?すごく勇気のいる事だと思いますが…

富男 おう、買うって伝えた。多少の後悔しながら寝ていたら、明け方仲買人から電話がかかってきた。「お前言うた通り全部買いました」って。ほんで、次の売り物が入ってくるので、場所に置いとけんさかいに、引き取ってくれっちゅうこと。勢いで言うてしまったが、もう遅いがな。そりゃしゃあないということで、仲買人にどうしようか相談したところ、とりあえず外部の冷蔵庫を借りようかということになったんよ。そいで、冷蔵庫を借りることになって、いったん冷蔵庫にしい茸を移して、一晩待ったんよ。

努  とりあえず、何とかなったんですね。結局そのしい茸の値は戻ったんですか?

富男 10円で買ったしい茸は、翌朝ワシの読み通り50円に戻ったわけや。そして「よし、今出してくれ」と言うことでお願いしたんや。

努  すごい!良かったですね。

富男 いやそれがやな、大阪中央の仲買人が言いよるねん「お前、ここで昨日買ったしい茸ってみんな全部知っとるぞ、だからここでは売れん」って。

 えー、それで結局どうなったんですか?

富男 今から思うとあたり前やけど、それで他の市場をあたることしたんよ。当時、大阪中央を含め8社に出していたので、他の市場で何とか買ってもらえることになったんや。結局、一晩で売り切れて何とかなったんや。それで助けてくれた仲買人と一杯やって、それで全て消えて無くなった。だから、日頃からの関係が重要だってことをまざまざと感じたわけや。みんなよう助けてくれたよ。こんな感じ。な、なかなか面白い時代を歩いてきたやろ。

■継続。でも一人ではできない!

努  ありがとうございました。最後におじいちゃんの大切にされていることを教えていただけないでしょうか?

富男 ワシのずっと考えているテーマは「継続」なんよ。

努  なんで継続なんですか?

富男 それはねぇ、、なかなか奥が深いんよ。でもこの土地はほんま可能性が溢れていると思っているんよ。ええとこやと思っている。だからこの地を大事にしていってほしいと思うんよ。それでも、「継続」するには、協力者がおらなあかん。昨年、長年能勢町で原木を切って手配してくれていた水越(みずこし)さんが亡くなったんよ。水越さんは能勢町の地元で顔がきいて、彼が動いてくれたから、ワシが仕事させてもらえたと思っとる。水越さんとワシが動けば、いろんなことが出来た。最高のコンビやったんや。

努  そうだったんですね。それは寂しかったですね。

富男 本当に寂しいよ。ぽっかりと穴があいたような感じ。だから思うんよ。協力者は大切。一人になったらあかんよ。何にもできん。だから、協力者を大切にして共にこの地を「継続」して発展させていってほしいと思ってるんよ。それが願い。ほんまそれだけ。

今回、おじいちゃんにしい茸の創業について教えてもらいましたが、知るほどにおじいちゃんのこの土地に対する想いは、本当に深いものがあると感じました。今の時代、自分の出身の土地に対してこれほどの想いを持つことはなかなかできないと思います。土地を軸にして、地元の繁栄を考えていく。でも、それは一人ではできない。だから仲間が大切。これが原点。

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