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2021年 16冊目「鬼子の歌 偏愛音楽的日本近代史」

片山杜秀さん著です。
正確には、松岡正剛塾の課題図書で分厚くて(言い訳1)、納期が無くて(言い訳2)、斜め読みしました。
今度著者の片山杜秀さんが来て下さるので、そのための課題です。
先日松岡さんが片山さんの本をいくつか挙げたので、これが課題本になるのではと佐藤優さんとの平成史を買ったのですが外れました。

松岡正剛塾で学んだ速読術に従い、表紙を外し、帯を外し、手触りを感じ、帯を読みます。


新聞、雑誌が絶賛しています。
・帯にある絶賛の声
芸術は政治から自由だと思っているのはその時代だけである。彼らの生きた時代が彼らの音楽にこれほど深く浸透しているとは、との思いを禁じ得ない。読み応えのある傑作評論である。毎日新聞3/24

幅広い好奇心と博覧強記でなる著者にしか著せない本であろう。14名の日本人クラシック作曲家たちの名曲にまつわる論考が収められた大著だが一気に読ませる。朝日新聞3/2

奇書、である。正直私はここでとりあげられる作品の半分も聴いたことはない。しかし本書を読んでいるうちに、これらが自分の大好きな曲であったかのような気になってきた。批評の究極のマジックである。 共同通信

まず対象とする作品、作家への「愛」がある。そこから時代の精神、また、対象となる当人達でさえ「そういう事なのか……」と恐らくは唸らせてしまうであろう眼力の鋭さに読者は圧倒されてしまう。週刊文春4/4号

・帯にある概要
「クラシック音楽」で読む日本の近現代100年。近現代を生きた音楽家の作品を辿りながら、この国の歩みに迫り、暴き、吠える。鬼才の本気に刮目せよ! ある時は西洋列強に文明国と認められるため。ある時は戦時中の国民を奮闘させるため。きわめて政治的で社会的で実用的な面がある「音楽」。政治思想史家にして音楽評論家である著者が、14の名曲から近現代史を解説する。

これだけで、凄い本だと分かります。
・なぜ鬼子の歌か
タイトルがなぜ「鬼子の歌」なのか。前口上にあります。
クラシック音楽以外の芸術であれば西洋の技術を学んでも日本風が成立し、評価される。例えば絵画、文学などをイメージすると分かりやすい。ところがクラシック音楽は、日本風である必要がない。だから、東京藝術大学音楽学部の前身には、長く作曲科が作られなかった。音楽の創作が社会的に待望されないのに作曲してしまう、だから鬼子。しかし、日本人が作ったオペラや交響曲にも近代文学や近代美術にひけをとらない蓄積があるとして、本書では以下の14人の作曲家と作品を取り上げている。

観点が面白い。つまりもっと評価されても良いはずの弱者を再評価しようというまなざしがあるのです。

第1章では、私は(もちろん)存じ上げないが、「日本の西洋クラシック音楽がついに生み出した天才。早期教育の本格的成果。20歳前後から名声をほしいままにしました」三善晃さんを取上げています。高校までに音楽を独習し、東大文学部に進学。21歳にして日本を代表するクラシック音楽作曲家となった早熟の天才です。彼が作曲したアニメ主題歌『赤毛のアン』を取上げています。この音楽は、恐ろしいまでの高揚感をもたらす「魔術的なすし詰め」なのだそうです。その後、話はどんどん難しくなっていくのです。支倉常長を主人公とするオペラ『遠い帆』を自分の不毛なフランス留学と帰るべき「日本」を持たなかった自身に重ね、松本清張の『砂の器』、『波の塔』、『点と線』などのネーミングと三善の曲名『霧の果実』、『黒の星座』などとの類似を指摘するのです。どちらも不可能性が刻印されているそうなのです。

そして、三善さんは、生者と死者、彼岸と此岸、東洋と西洋が引き裂かれるしかない「宙吊り」状態を積極的に肯定する作曲家、と結論しています。
まさにAIDAを肯定する作曲家という事です。
ここかなりボリュームありました。

第2章は、伊福部昭さんの『ゴジラ』です。戦時中に科学研究員として徴用された伊福部が木製飛行機の研究中に放射線被曝したこと、また次兄は蛍光塗料の研究中、放射線障害で倒れ、亡くなったという事実を紹介しています。伊福部さんとゴジラに類似点があるということです。「ゴジラのテーマ」は「シ」の音階を連呼する七音音階だといいます。日本の伝統的な五音階を戦後、素直に使えなくなった「伊福部の屈折や怨念もまた込められているでしょう」という伝記的事実と音楽を重ね合わせた分析なのです。残念なことに七音音階も五音音階も分からないので、ちんぷんかんぷんなのですが、凄い事のようです。

こんな感じであと12人が続きます。それぞれの章を十分に味わうためには相当な歴史と音楽に関する知識が要求される作品ですね。
もう一度ゆっくり読みたい本ですね。

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