見出し画像

奄美大島

 潮風がみちびくままに眠りについて、潮のつづきで目がさめた。

 寝る前、消し忘れた音楽のように、いつまでも止まない波音がやさしかった。

 こんなにも感情が矛盾するポジティブな起床があったかなあ。

 ずっと聴いていたい波音と、早く起きて海と太陽を身体で感じたいという欲が夢うつつの中、交錯した。

 結果、後者が勝った。

 まず、部屋から外を眺めた。道路を挟んだ向こう側がもう海で、波の泡がうごめいていた。
遠浅のエメラルドグリーンにサンゴが隆起してできた岩が転がっていて、波風に晒されて削られた形は重力に反して持ちこたえていた。
ネイビーブルーの水平線から登った朝日はもう自分の目線の少し上に位置していて、降る春の日ざしで部屋の窓や僕や畳や布団やタンスを暖かくした。
少し開けていた窓から潮風が網戸の隙間を縫って入りこんでくる。ふわっと潮の香りが顔にまとわりついた。

 絶景だなあ。

 こうして仮の宿とはいえ窓の額縁から眺める美しい景色は、自分の所有物であるかのような優越感に浸れる最高の贅沢で、これを絶景というのだとこのとき初めて気がついた。

 この宿を選んでよかった。

 奄美大島での滞在先に悩んでいたのはフライトの一週間前で、東京の自宅から google map を何度も開き候補に上がっていた市街地のゲストハウスとこの市街地から離れたいかにも不便そうなゲストハウス、最後までどちらにするか悩んだが、せっかく東京から離れて非日常を味わうなら何もないところの方がかえって好都合だろうと、最終的にこのゲストハウスに決めた。

 奄美空港に到着したのは昨日の昼過ぎで、そこからしまバスという一時間に一本のペースで走っているローカルバスに乗って宿まで行った。

 バスの運転手さんに「このバスは笠利の方まで行きますか?」と質問すると「行きますよ、ゲストハウスですか?」と訊ねられた。
独特なイントネーションと、しまバスの制服なのだろうか、大島紬を思わせる風合いの開襟シャツ、それに運転手さんの時間に侵されない朗らかな雰囲気が相まって奄美に来たのだと実感した。
思えばこのときから非日常の世界へと急速に歩みを進めることになる。
 
 僕は「あ、はい」と戸惑いながら答えた。
ゲストハウスは笠利地方に一つしかないのだろうか?
まあ、とにかく"用"というバス停で降りればいいのだ。
車内には僕と運転手さんの二人で、静かにバスは出発した。
僕は何か物珍しいものはないかと窓の外を眺めた。
「どちらから来られました?」
 しばらくすると運転手さんが話しかけてきた。
「東京から来ました」
「そうですか、東京ですか、ここは何もなくてびっくりでしょう」
僕は少し答えに困って
「海が見たくて来たんですよ、きれいな海が」
その僕が発した答えに僕自身が疑問を感じた。
本当だろうか? たしかに美しい海が見たい。それはそうだ。
でも本当に海が見たくてきたのだろうか?
「そうですか、奄美を楽しんでください」
「はい、ありがとうございます」
 僕は会釈して運転手さんの気づかいに感謝した。そしてそれ以上互いに話すことはなかった。

 しばらくしてバスは用という地域に入った。
さきほどより強く潮の香りがしてきたかと思うと、もう海が目と鼻の先までせまっていて早く砂浜まで行って海を感じるのが待ち遠しいといったように窓から外を眺めてみたが窓越しの海はまだ遠かった。
 そろそろ目的のバス停に近づく頃、バスが一軒家の前にゆっくりと停まった。運転手さんが僕の方に振り向いて「着きましたよ」と言った。
僕が戸惑っていると「ここですよ」と運転手さんはバスの扉の方を指差して言った。
その一軒家の塀に看板が掛けてあった。
なるほど、ゲストハウスの前に停まってくれたのか。
「ありがとうございます」
僕は会釈をしてバスを降りようとした。
「この道路を渡ったらもう海ですよ」
運転手さんは誇りを内包するやさしげな微笑で反対側を指し示した。
道中、バスの窓から見えた海はエメラルドグリーンからネイビーブルーへのグラデーションが広がっていたが、この植木と建物の間からほっそりと見える海はずっと向こうまで水色だった。

                                                                                 つづく

 


 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?