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R182 礎6月号

委員長挨拶

本部例会にて青年会長様は「私が夢を持てるようになれたのは今の青年会のおかげであります」と力強く語られました。そして会活動のなかで「自らの夢に向かっている人が、自らが学んだことを惜しみなく話してくださることで、やりたいことが見え」さらに「自主的に動き、毎日楽しんで本気でおたすけに動いている人が増えれば、結果として若年層の育成につながっていく」と語られました。
「夢」とは、将来実現させたい願望のことです。夢を持つことは素晴らしいことです。夢が人を惹きつける魅力にもなるでしょう。しかし、やみくもに夢を持つことは良いとはいえません。それは夢には大きな落とし穴があるからです。
 夢を持つという反面には、現状に対して不満を持つという副作用があるからです。そして不満という気持ちを強めれば、不満と感じることを引き寄せることになり、さらに不満をつのらせることになってしまいます。
 そこで夢を持つうえで二つの点が大事だと思います。一つ目は、日常に喜びをみつけるということ。二つ目はその夢が人をたすけることに繋がっているのかをたえず確認することです。
 繰り返しになりますが、夢を持つことは素晴らしいことです。しかし、その夢が自己中心的な願いであれば、当然、神様のはたらきを得ることは難しくなります。
 神様からお与えいただく日常のなかに喜びと感じられる心の眼を養い、当たり前と感じている日常の見方を変えることによって、自分が変わり世界も変わるのです。
 そして人をたすける夢を描けば、神の不思議なおはたらきをみせていただくことができ、前人未踏の喜び溢れる世界が拓かれると私は信じています。
 お道の人らしい夢、それはにちにちを楽しんで歩ませていただくなかにある。にちにちを大切に、そして先を楽しみに一歩一歩と進んでいきたいと思う、今日この頃であります。


礎教理勉強会

「かしもの・かりもの」の教理と「子の夜泣き」

『おふでさき』第三号に、
人のものかりたるならばりかいるで はやくへんさいれゑをゆうなり
子のよなきをもふ心ハちがうでな こがなくでな神のくときや
はや/\と神がしらしてやるほどに いかな事でもしかときゝわけ
をや/\の心ちがいのないよふに はやくしやんをするがよいぞや
しんぢつに人をたすける心なら 神のくときハなにもないぞや
めへ/\にいまさいよくばよき事と をもふ心ハみなちがうでな
てがけからいかなをふみちとふりても すゑのほそみちみゑてないから
にんけんハあざないものであるからに すゑのみちすじさらにわからん
いまの事なにもゆうでハないほどに さきのをふくハんみちがみへるで
いまのみちいかなみちでもなけくなよ さきのほんみちたのしゆでいよ
しんぢつにたすけ一ぢよの心なら なにゆハいでもしかとうけとる
口さきのついしよはかりハいらんもの しんの心にまことあるなら
たん/\となに事にてもこのよふわ 神のからだやしやんしてみよ
にんけんハみな/\神のかしものや なんとをもふてつこているやら
(『おふでさき』3号28~41)
 上記の『おふでさき』は「かしもの・かりもの」の教理が語られる最初の段落です。
「かしもの・かりもの」の教理は「教の台」と教えられる通り、教祖に教えられた教理の台であります。その最初は「子の夜泣き」ということが一つの話題として展開されます。
 教祖のひながたを省みると、人々が寄り来るようになった始まりは「をびや許し」でした。二代真柱様は「をびや神様として、まず近在近郷に及んでいった。をびやから進んだという事柄にも、私は一つの意義を認めたいのであります。言い換えますと、をびやないしはお産ということは、新しい生命の出発であります。元であります。かような元なる事柄から、まず教えの例を示されてきているということも、それは偶然でなくて、ここにも何らかの思召があったものと感じるのであります。」(『第十六回教義講習会第一次講習会録抜粋』165頁)
 このように教祖によってつけられた陽気ぐらしの道は「をびや許し」によって拡がり始めた。この新しい命が生み出されるところから始められたという点に、大きな意味があると二代真柱様は仰せられています。
『おふでさき』における「かしもの・かりもの」の教理の展開が、命の始まりである子供の時代に繋がる「子の夜泣き」を一つの話題として教理が展開していくことに、また深い意味が込められているように感じられます。
 今回はここまで、次回から「子の夜泣き」について詳しくみつめていきたいと思います。


ひのきしん隊ポスター


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