金色の月
中学三年の冬、魯迅の『故郷』を読んだ。そのときは内容が良く分からなかった。ただ何となく暗くて陰鬱な物語だと思った。
昨年、十数年ぶりに同じ本を読んだ。確かに暗くて陰鬱だった。けれども最後、主人公たちが故郷に別れを告げるシーンは、それまで持っていた印象と全く異なったイメージで私の眼前に開けてきた。
――まどろみかけた私の目に、海辺の広い緑の砂地が浮かんでくる。その上の紺碧の空には、金色の丸い月が懸かっている。思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。――
そうか、この金色の月は、将来への希望の比喩だったのか。
そうか、「私」(=魯迅)は新しい世代への希望を見出し、それを後押ししようと決意したのか。
十数年前には分からなかった記述が、深く、実感を伴って感じられた。
勉強することは、そのようなものではないだろうか。その時点では正しいかどうだか分からない。分かったような、分からなかったような。不安や困惑を感じ、自分自身を責め、陰鬱な気持ちになる。けれども、「そうか、あのときのあの学習事項はこういう意味だったのか」と、分かる時が来る。
その瞬間の感動と喜びを得るため、諸君は今苦しみの中にある。苦しみは歓喜と表裏一体なのだ。歓喜の瞬間のため―それは受験に成功した瞬間だけではないのだ―苦しみ悩み抜いてほしい。
願わくは、私たち教師・講師が「魯迅」であらんことを。
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