適度な正の値a

 生徒諸君はテストや入試勉強に追われ、忙しい日々を送っていることと思います。そのような時期であるからこそ、勉強だけではなく、家庭や学校での勉強以外の時間を大切にしてほしいと思います。私はと言えば、高校1年生のとき、朝読書で『バカの壁』(養老孟司、新潮新書)を読んだときのショックを未だに忘れることができずにいます。

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 「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。イギリスのBBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた時のことです。(中略)男子学生と女子学生とで、はっきりと異なる反応が出たのです。
 ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子学生は皆一様に「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばかりだ」という答え。同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違いが出てきたのです。 これは一体どういうことなのでしょうか。(中略)
 その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちたくない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。 つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断してしまっている。ここに壁が存在しています。(中略)
 知りたくないことに耳をかさない人間に話が通じないということは、日常でよく目にすることです。これをそのまま広げていった先に、戦争、テロ、民族間・宗教間の紛争があります。例えばイスラム原理主義者とアメリカの対立というのも、規模こそ大きいものの、まったく同じ延長線上にあると考えていい。
 これを脳の面から説明してみましょう。脳への入力、出力という面からです。(中略) この入力をx,出力をyとします。するとy=axという一次方程式のモデルが考えられます。何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数をかけて出てきた結果、反応がyというモデルです。 このaという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも呼べばよいのでしょうか、人によって、またその入力によって非常に違っている。通常は、何か入力xがあれば、当然、人間は何らかの反応をする。つまりyが存在するのだから、aもゼロではない、ということになります。 ところが、非常に特殊なケースとしてa=ゼロということがあります。この場合は、入力は何を入れても出力はない。出力がないということは、行動に影響しないということです。
(養老孟司,『バカの壁』より抜粋)

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 養老氏はこの後でaがマイナスの場合もあることを説明し、怒り・憎しみの原因だと指摘しています。またaが正の無限大の場合もあることを説明し、これは盲信・原理主義であると批判しています。
 私は今まで小学生から高校生・大学受験生まで指導してきましたが、「残念だな」と思わずにはいられない生徒たちに出会います。私の言う「残念な」生徒は、偏差値などで測れる学力レベルの問題ではありません。志望校や目標に向けて勉強する上での態度における問題です。
 「残念な」生徒たちは私に対して決まったパターンの質問をしてきます。
 1つ目は「この問題の答えは何ですか」「解き方を教えてください」という答えをすぐに要求するパターンです。現実世界において唯一絶対の正解がないように、入試科目にも唯一絶対の正解など存在しません。数学や物理・化学には唯一絶対の正解があるように見えますが、それはあくまでも「入試問題」に限った話であり、大学などで学ぶ「科目」としての数学や理科にも、唯一絶対の正解はありません。ただ「妥当な解釈」があるにすぎないのです。「大学に行きたい」「専門科目(法学、医学など)を勉強したい」という割には、学問に対する姿勢として甘いなと思わずにはいられません。
 2つ目は「どこが期末試験に出ますか」「この問題は入試に役立ちますか」というテストのことのみを見据えた質問をするパターンです。確かに試験に比較的よく出る問題はありますし、入試であれば大学や学部ごとに頻出のテーマはあります。しかし、テストや入試の1問が解けたからといって、つまりせいぜい5点や10点得点を上げたところで、順位や合否はほとんど変わりません。むしろ授業で扱ったり、問題集に掲載されていたりするものすべてに共通するようなエッセンスを捉えること――現実にはそのようなことは不可能なので、あくまでも捉えようとすること――こそが大切なのではないでしょうか。マスコミの取材に「最下位でも良いから合格したい」と宣言する受験生を見るたびに、非常に“やっきりした”気持ちになります。
 養老氏の言葉を借りると、これらの生徒たちは「テストや入試に関する情報」というxに対する「現実の重み」aが大きいのでしょう。あるいはaが正の無限大になっている可能性すらあります。裏を返せば、テストや入試にあくせくする生徒たちは、そのほかの情報xに対するaが極めて小さかったり、ゼロであったりするようです。
 これは極めて危険なことなのではないでしょうか。学問、それも専門的な分野にこそバランスや中庸の姿勢が必要なのです。このことは、例えば法律の条文を一字一句違わずに暗唱できるが世間知らずな法律家や、生物学や化学に関する知識は豊富だが倫理観が歪である医師などを想像すればお分かりだろうと思います。とりわけ入試情報に対するaは、適度な正の値で良いのです。
 私は生徒の生徒諸君に、テスト・入試情報に対する熱の入れ方はほどほどにして、その他のことについてaを正の値に保ってほしいと願っています。「その他のこと」とは、例えば本を読むことであったり、テレビを見ることであったり、音楽を聞くことであったり、家族や友人と話したりすることであったり。そういう自分を見つめ直したり、他人と関わりあったりする中で学ぶものこそ、生徒の皆さんが大学に入ってからやそれ以降に間違いなく役に立つものだと確信しています。
 生徒の皆さんには学年集会や生徒面談の際に座右の銘を書いてもらいます。私の座右の銘は、「すぐに役立つものは、すぐに役立たなくなるもの」という灘高校の元教頭である故・橋本武先生 のお言葉です。
 生徒諸君や保護者の皆様にお願いしたいことはただ一点、「私の話を真に受けないでください」ということです。私の話は、入試情報としては数字を分析した結果に過ぎず、訓話としては一個人の思い付きに過ぎず、科学的な情報としては有力な仮説のひとつの紹介に過ぎないからです。私の話を絶対的なものとして受け入れてしまったとき、私の話は情報ではなくなり、科学ではなくなり、学問ではなくなります。それはaが正の無限大である状態であり、原理主義や盲信的な宗教の誕生に他なりません。
 私の話は半信半疑で読んだり聞いたりして頂きたいです。時に納得し、時に疑問に感じ、aが適度な正の実数であるような態度でお付き合いいただければ幸いです。そして疑問を感じたときは、ぜひご意見やご感想を私にもお話しください。私も皆様のお話を、適度な正の実数aを持って伺いたいと思っています。
 そして何より感想や疑問を抱いたら、ぜひ親子間でそれらを共有してください。生徒諸君はご両親をはじめ家族に対してaの値を0やマイナスの値にしないこと。保護者の方はお子様に対してaの値を正の無限大にしてしまい、過干渉や思い込みをしないこと。受験をきっかけに生徒諸君と保護者の方々との間で、濃密で良き時間が共有されましたら、私にとってこれ以上ない喜びです。

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