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彼女が俺をキモくする。

座る場所を自由に決めていい教室で、授業中に眠くならないように一番前の席に陣取っていた俺は、振り返って視界に入る少し後ろに座っていた女の子のことをよく覚えている。

いつも授業が始まる30分前には教室に来ていて、成績はクラスでもかなり上の方。休み時間にはほとんど誰とも話さずにスマートフォンをいじっている。たまに先生に指されて返事をする時にだけ聞ける声は、まるで声優でいえば花澤香菜のような澄んだ音色だった。

一度だけ花澤さんと課外授業の帰りに一緒に帰ったことがあった。

「さっき通った公園、自然が多くていい所だったね。」

「いえ、でも虫が多くてちょっと・・・」

「ああー、そっかー・・・」

こんな具合で他には二言、三言、言葉を交わしただろうか、とても談笑というには程遠いものだった。駅に着くなりその日は別れてしまった。ここで辞めておけばよかったのに。

その日は朝から試験がある日で、いつもより早い時間に校門に着くと、通学路の反対側100メートルくらいから花澤さんが歩いてくるのが見えた。先に入口の自動ドアをくぐった俺はそのすぐ脇にあるエレベータの開いた扉の向こうの最上階のボタンを押すと、そのまま扉が閉まるのを見届けて上の階へ無人のまま行かせてしまった。もう少しここで待っていれば。
30秒経っただろうか。10分は待っただろうか。
校舎に入ってきた猫背でいそいそと歩いてくる影に向かって俺はなるべく偶然を装って、
「あ、おはよう」と声をかけた。すると、
「・・・おはようございます」エレベータの前で待ちぼうけたフリをしていた俺とは目を合わそうともせずに彼女は階段で4階にある教室に向かってしまった。まあ健康のために階段を使いたくなる時もあるよね。試験前でピリピリしてるし仕方ないよね。いや違うんだ、俺はただ朝の挨拶をしたかっただけなんだ。

馬鹿か、お前は。
現実から目を背けるな。
花澤さんは、どう考えても俺に対して友好的な感情を持っていないだろ。

クラス替えのない学校で花澤さんと俺は在学中ずっと同じクラスだったが、花澤さんと俺のコミュニケーションはずっとこんな感じだった。

勇気を振り絞って教室に一人佇んでいる花澤さんに話しかけて、上手くいかなかった日の帰りには、コンビニで缶チューハイを買って飲んだ。飲み慣れていないアルコールは苦くてあまり美味しいとは感じなくて、でも冷静な思考を保っていると、悲しさが押し寄せてきて自分を保てなくなりそうだった。ウィスキーの瓶と炭酸水を買って自分でハイボールを作って、手足に痺れを感じるまで飲んだ。

花澤さんが髪を切った時、授業が終わって話しかけてみた時だった。
「か、髪切った?」と口ごもりながらも話しかける俺。
「・・・はい」と、やはりスタスタと帰ってしまう花澤さん。
その時、俺は天啓の如き気付きを得たのだった。

あ、今の俺、完全に気持ち悪かったわ・・・。

勇気を振り絞って、頑張って、努力して、花澤さんに話しかけようとすればするほど、自分のコミュニケーションが不自然に、気持ち悪くなっていくということを、論理と直感の両方で、俺はやっと理解できたのだった。
この気持ち悪さを払拭するために、金銭の授受によってアルコールを摂取しながら女性と会話するタイプのお店に行って訓練しようとしたこともある。しかしそれはだいたい徒労に終わった。何故なら、俺の花澤さんへの関心が、その不自然さや気持ち悪さの根源となっているからだと思う。

映画『ジョーカー』でホアキン・フェニックス演じる主人公のアーサー・フレックはコメディアンとしてはじめてTV番組に出演してこんなことを語った。

「コメディは主観的だ。そうだろ、マレー?
 ここにいる人たちもそうだ。みんなわかっているだろう。
 みんなが善悪を判断するよね?
 コメディも同じさ。
何が面白くて、何がつまらないのか、決めるのは君たちだ。」

『僕にコメディアンとして才能が無いと決めつけたのはお前ら観客だ』
『僕を価値の無い人間だと決めつけたのはお前たち社会の方だ』
という責任転嫁とも解釈できる台詞であるが、俺にはこの言葉があながちデタラメとは思えない。人間が2人以上存在する社会において、その人物が何者であるかを定義するのはその人以外の人間だ。自分以外の人間の合意がないのに、「俺は王だ」「俺は英雄だ」「俺はスーパースターだ」と言い張れば、それはただの偏執狂だろう。反対に、社会の中の多くの人々の複雑な選択の下で、ある人は政治家になり、またある人は警察官になり、またある人はホームレスになる。
その公式に従うならば、俺から花澤さんに話しかけたのを気持ち悪いと決定したのは花澤さんの方なのかも知れない。
花澤さんという他者の存在が、俺の中にあるコミュニケーションが下手クソで、気持ちが悪いという属性を増強させ、顕現させたのだ。
彼女が俺をキモくするという、不思議な力学が存在しているかのようだった。

卒業式の日、俺は花澤さんに一言も話しかけることができなかった。

『お願い、一緒に写真撮って!』

『元気でね!』

『ずっと好きでした!』

言おうと思ってたことフォルダに入っていたものを一つも引っ張り出せなかった。すれ違ったときに一瞬だけ視線が合って、その眼の奥には驚愕か、嫌悪か、何の感情が込められていたのかはわからなかった。二次会にも出席しなかった、一人で帰る花澤さんの猫背の背中が、いつもより丸く見えたのは気のせいだろうか。それでも俺は、彼女の心のポジティブな部分になることは多分できなかっただろう。俺に出来る花澤さんへの一番の気遣いは、彼女に話しかけず、関わろうとしないことだけだった。

「人を好きになることは素晴らしいことだ、人間として成長できることだ」そんな無邪気な性善説を、もう俺は信じることが出来なくなってしまった。自分が気持ち悪いかも知れないと客観視できる程度には賢くなった癖に、その気持ち悪さを克服できなかった。自分の気持ち悪さの原因を彼女になすりつけてしまった。自分が傷ついてもいいから、自分が愛した女性に対する想いを貫こうという心の若さや強度が、保てなくなってしまった。
これが、大人になるということなのか。

花澤さんのことを好きになって、俺が人生の中で得たものといえば、ウィスキーの空瓶が増えたぐらいだった。
花澤さんのことを好きになって、俺が人生の中でわかったことは、ウィスキーは値段が高い方が味わい深くて美味いということだった。

もう花澤さんには会えないだろう。同窓会があったとしても、絶対に出席するようなタイプじゃない。でもそんな彼女だから、俺は授業中でも彼女のことが気になって堪らなかった。
もう一度でいいから、花澤さんに会いたいと思う。でも多分、また会えるチャンスがあったとしても、俺はまた自分の気持ち悪さと臆病風に負けて、ウィスキーの空瓶を増やすだけのような気もする。

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夢破れ人。人生立て直すために奮闘中。ちょっと意地悪な映画批評とか、日銭を稼ぐために小説を書いたりするかも。