【眠らない猫と夜の魚】 エピローグ

「夜を泳ぐ」

夜明け前。

真夜中と朝のちょうど中間くらい。
空の碧が一番濃くなる時間に、街を歩く。

夜の街を歩くのが好きだ。
目的なんてなくて、
ただ単に、夜を歩くことが好きなだけ。

寝静まった商店街を通り抜けて、
コンビニのガラスに並ぶ雑誌を横目に見て、
河川敷に座って震える大気に耳を澄ませて。
そんな風に人気のない街を歩き回りながら、
夜の断片を拾い集める。

歩く人はほとんどいない。
すれ違うのは猫ばかり。

影絵のような建物のシルエット。
誰もいない交差点で点滅する信号機。
夜の路線をゆっくりと走る貨物列車。
そのどれもが青い膜を通したように、
夜の色に染まって見える。

時々、同じように夜を彷徨う人に会う。
息をひそめて、距離を保ったまま、
魚のように無愛想に、するりとすれ違う。
そしてそれぞれが、夜を散策する魚に戻る。

開いた眼の隙間から、冷たい空気が入ってくる。
眠りそうな意識が、一瞬だけ覚醒しかける。
それでも頭の奥に、ぼんやりと眠気が溜まっていく。
目の中に真っ黒な水たまりが拡がって、
どんどんだんだん、思考のスピードが鈍くなる。
同じものを見ても、昼間と違うイメージが浮かぶ。
光も音も遅れて届くような、不思議な感じ。

それが、夜の思考だ。
夜には夜の思考がある。
夜には夜の常識があるから。

昼間とは違うものが埋まった土。
昼間とは違う足音で歩く猫。
昼間とは違う人が訪ねてくる扉。
昼間とは違う速度で落ちる花びら。
昼間とは違う魚が棲む水辺。
昼間とは違うルールで流れる時間。

そんな小さな夜を、頭の中に幾つもストックする。
いつでも、夜を再現できるように。


頭の中に、夜がある。


昼間の太陽の下でも、光の射さない穏やかな領域。
昼間の世界で負けそうな時は、
その中でこっそりと、夜を吸い込む。
意識の上に、穏やかな夜を再現する。
だから昼間の太陽の下でも、なんとか耐えることができる。
そんな小さな夜を蓄えるために、
今日も私は、夜を歩く。

でも、そんな時間も長くは続かない。
もうすぐ、朝がやってくる。
だんだんと、空の蒼が薄まってきて、
夜が、朝に追いやられていく。

私の１日は、ここで終わる。

フードを目深に被って、来た道を引き返す。
朝日が届かない、部屋の中を目指して。
目覚まし時計が無慈悲な音をたてるまで、
毛布にくるまって、短い夢を見るために。

目を閉じる間際、カーテンの隙間から、
今にも顔を出しそうな太陽を睨みつける。
最後まで、夜の終わりを見届ける。

さようなら、またね。

そうやって、
いつもと同じ別れの言葉を呟いてからようやく、

私は、眠ることができる。

（了）