命名するということ

最近妻から「もうすぐ子供が生まれるから早く名前を考えて」とせっつかれる。こういうときには、どんな名前を挙げたところで、必ず批判される。「ださい」「変」「もっといいのは?」
僕は思うのだけれど、いい名前がどこかに落ちているのではないいい名前になっていく、あるいは、いい名前にしていく。名前ってそういうものだと思う。
たとえば、二匹目の犬を飼うときもそうだった。やはり妻が「早く名前考えて」と言うから、「ツモっていうのはどうかな?」と答えた。
笑うかなと思ったら、真顔で「どういう意味?」ああ、麻雀知らないのか。
「タガログ語で『勇気』って意味」って答えると、ようやく冗談だと気付いて笑ってくれた。
それで話は終わったと思っていた。
後日ブリーダーが電話で「ワンちゃんの名前、決まりましたか?」それで嫁が「ツモでお願いします」
1か月後、子犬が我が家に来たときには、すでに「ツモ」になっていた。ブリーダーから「ツモ」と呼ばれて反応するようになっていて、もう訂正はきかない。先住犬が「ロン」だから、冗談のつもりの「ツモ」だったんだけど、それで確定してしまったわけだ(笑)
でもそれでよかった。「ツモ」と何度も愛情を込めて呼んでいるうちに、しっくりなじんだ
二匹を連れて散歩していると、人から「名前は何?」と聞かれて、「大きい子はロン、小さいのはツモです」というと、「ロンとツモ、麻雀だね」ということですぐに覚えてもらえる。ご近所ではWゴールデンの「ロンツモコンビ」と認知されている。
「ねぇ。赤ちゃんの名前、本当にどうするの?」
「リーチってどうかな?「利一(としかず)」と書いてリーチと読む、みたいな」
「いい加減にして。ツモちゃんのときはあなたに騙されたけど、今度こそ真面目に考えて」
さすがに怒られた(笑)

名前を決めるのが難しいのは、正解がないからだと思う。熟考したからといってそれだけいい名前になるわけではないし、ふっとインスピレーションで降りてきた名前が案外絶妙かもしれない。
”子供の名前は親の願いを託すもの”、って考えもあるけど、ああいうのってどうなのかな。たとえば仮に、高校時代甲子園を目指していて、でもその夢は叶わなかった。そこで息子に「球児」と名付ける。そういう「親の願い」系の命名。
個人的には、こういうのはしたくない。子供は確かに僕の子供だけど、子供は子供。自分の人生は自分で歩いて欲しい。命名という初手の時点で、あまり僕の色をつけたくない。

実際的な条件として、ありきたりな名前は避けたい。「中村」は全国名字ランキングで8位で、全国に中村さんは100万人以上いるという。僕の名前を検索すると、漢字まで同じ同姓同名が山ほどヒットする。名前というのは、自分を他人と区別するための記号なのだから、できればオンリーワンの名前を与えたい。かつ、同時に、きらきらネームではなくて。

『風の谷のナウシカ』で、ナウシカが巨神兵を「オーマ」と命名する。名前を与えられた巨神兵は、ナウシカを母親と認識して服従し、自分の意思を持つ。あるもの(者、物)に名前を与えると、それが精神性を持つ。この設定、好きだな。
名前を与えるということには、呪術的な面があると思う。生まれてからずっと、死ぬまでその名前で呼ばれ、その名前を背負って人生を送る。その名前の響き、波動が、その人の心にも影響し、人生を形作っていく。人は名前のようになっていく、というのは確かに真理だと思う。
名付けるということは、ある種の呪いかもしれない。それはもちろん、必ずしも不気味な意味ではないけれども。

ところで、僕はどういう理由でこの名前になったのだろう。母に理由を聞いたことがある。
「若い頃、俳優の渡辺篤史が好きだったから」
これにはひっくり返ってしまった。キムタク好きの姉ちゃんが「拓哉」って名付けるのと大して変わらんやん(笑)
実に、ミーハーなきっかけの名前だった。でも考えてみると、僕はこの名前の通りの人間になった。
毎日、カルテに患者の言葉を記録している。できるだけブログを書くようにしている(最近滞りがちですが)。念入りに(篤)文章で記録する(史)という、名前の通りの生き方をしていると思う。
母親は僕を妊娠中、ずっと本を読んでいた。僕もおなかのなかでずっとそれを「聞いて」いた。文章になじみのある仕事をするのは、必然だったような気もする。

今、ツモの写真を撮った。

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何か、呪怨みたいになってる(笑)

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変な名前をつけやがって、と呪わないでください(笑)


そう、多忙でブログを更新できない。コロナ関係で書きたいことは山ほどある。でも、もう大丈夫だろう、という思いもある。全国でコロナワクチンへの危機感を表明する「有志の会」が立ち上がったり、マスコミの論調も少しずつ変わってきた。1、2年前に声を上げることは難しかっただろうが、今はハードルが下がった。コロナの嘘に気付く人も増えてきて「3回目は打たない。周りにも打たせない」と公言する人も珍しくない。一度ついた火は、どんどん広がるだろう

北海道で有志の会が立ち上がったとき、ある医者から「先生も関西の有志の会を立ち上げたらどうですか?」と言われたことがある。やろうと思えばできたと思う。ブログで立ち上げを表明し、署名サイトを作る。すぐできる。全然難しいことじゃない。関西は医者の数も多いし、それだけ気付いている人も多いだろうから、それなりの人数が集まったと思う。
でも、自分が発起人で、っていうのに二の足を踏んじゃったのね。ただでさえ多忙なのに、これから子供が生まれてますます時間がとれなくなるのに、そこにわざわざ仕事を増やしに行ってどうする、みたいな計算が働いてしまった。
でも、声を上げることは続けたい。子供に対するコロナワクチン。これほど絶対的な間違いも、他になかなかないだろう。
まだ『関西有志の会』はないが、『全国有志医師の会』がある。

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気付いている医者であっても、勤務医の立場では難しいところはあると思う。でも、こういうときに声を上げないのなら、医者でいる意味がないと思いませんか?