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【キャラ立ち】←【ご都合】→【ストーリィ】(第7回)

 いつもご覧いただきまして、誠にありがとうございます。中村尚裕です。

 私、先日より以下の【よくあるお悩み】に対して、とあるきっかけから【突破口】ともなり得るポイントの数々を【考察】しております。

 ◇

【よくあるお悩み】
・【登場人物】が【キャラ立ち】すればするほど思い通りに動かせない
 →【ストーリィ】の進行や展開が不自然になって、【ご都合臭】が強くなる
・【ストーリィ】を先へ先へ進めようとすればするほど、【登場人物】の人格に合わない展開になって【ご都合臭】が強くなる
・【登場人物】の人格を奥深くまで表現して【キャラ立ち】させるには、これを描き出す【ドラマ】が薄くなりがち
 →状況、つまりシチュエーションのヴァリエーションが増やせない
・【ストーリィ】に『あっと驚くような展開』が盛り込めず、展開が無難・平坦になりがち(盛り上がらない)

 ◇

 第1回で通説(※1)として、福井晴敏先生が引用した押井守監督のお言葉をご紹介しました。(『テアトル東向島アカデミー賞/福井晴敏先生』集英社・240ページより)

【引用】
 押井守監督曰く、作劇は「ストーリーが進行している間はドラマが止まり、ドラマが進行している間はストーリーが停滞する」もの(※1)
【引用終わり】

 ただし、福井晴敏先生はこうも記しておいでです(※2)。

【引用】
「(著作である『亡国のイージス』は)人物の葛藤(ドラマ)が状況(ストーリー)と有機的に絡み合い、ドラマの進展がストーリーを動かす構造になっている」(※2)
【引用終わり】

 私の意見としては。
「“【ドラマ】・パート”と“【ストーリィ】・パート”、および“戦闘パート”は、(技巧を要するものの)同時進行させることが可能」(※3)

 その根拠として考えているイメージは、以下の通り。
 【物語】上の事態は複数の【登場人物】達によって、複数の場所で、【多重並列】の【潮流】として進行します。それが合流し、相互作用し、その結果を持ってまた分岐し、そうやって【ストーリィ】は進行していくわけです(※4)。

 【物語】は、『複数の【潮流】が【多重並列】に同時進行しているもの』を、『【演出意図】を込めて一本に編集したもの』――そういう捉え方ですね。

 しかしながら、【登場人物】は『(自分事なので)思い通りに事態が推移すること』を望み、一方で【観客】や【作者】は【ストーリィ】に『(他人事なので)あっと驚く(【観客】としての自分自身や大半の【登場人物】達には想像もつかない)展開で【想定外の困難】が克服されていくこと』を望む、という【不都合】な【現実】があります。これを無視して強引に【物語】を進めるとき、そこには【ご都合】臭が漂うものと、私は【認識】しております。

 この【ドラマ】と【ストーリィ】を両立させる鍵として、【想定外】という【概念】をご【提示】しました。で、この【想定外】の出どころは――というに、『【物語】となる【潮流】の中ではなく、【多重並列】に進行する別の【潮流】から』と、私はお答えしています。

 前回までで、この【潮流】と【想定外】が、いかに【物語】と【登場人物】に関わるか、その関係性について【我流】の【考察】をお伝えして参りました。

 第7回となる今回は、こうした【物語】や【登場人物】をいかに魅せていくか、この点について【考察】を巡らせて参りましょう。
 よろしくお付き合いのほどを。

 ◇

 さてここで、こういう心配を覚える【作者】さんもおいででしょう――「【観客】が【ドラマ】や【ストーリィ】、あるいは伏線の数々を【認識】してくれなかったらどうするの?」と。

 ここで、極めて重要――と私が捉えているポイントがあります。

『【作者】が【観客】の心理を、思い通りに操ろうとしてはならない』

 これは『【観客】としての自分』を振り返ってみれば明白ですが、【作者】に「こう思って!」と押し付けられたものに対しては、往々にして社交辞令以上の感慨は湧かないものです。場合によっては醒めてしまって、【物語】を追う気まで損ねてしまう場合すらあります。

 逆に『自分の中から自然に湧き上がった心理』は、感情を強烈に揺さぶる力にもなり得るものです。もちろん容易とは申しませんが、このために私が守っている考え方、一種の【持論】があります。

・【持論】:【主観】は【観客】と【登場人物】のもの、【客観】は【作者】のもの

 これ自体は、【観客】に『【作品】から受けた印象は、自分の中から自然に湧き上がったもの』として【認識】してもらい、同時に【登場人物】を『一個の独立した人格』として【認識】してもらうためのものです。
 しかし同時に、これは『【ストーリィ】の一部を、【登場人物】の心理が織りなす【ドラマ】』に組み込むためでもあるのです。

 実は私の考えるところ、【ストーリィ】も、【ドラマ】も、その正体は『【観客】と【登場人物】が捉える【主観】』です。【現実世界】を観察してみれば明白ですが、そこにある【事実】群は、それだけでは【ストーリィ】も【ドラマ】も意味しません。【事実】の連なりを『自分という人格』が【認識】して【解釈】し、そこに見付けるものが【ストーリィ】であり【ドラマ】であるはずです。

 もちろん、【事実】群に【意味付け】が全く見出せないようでは、【観客】としては興醒めというものです。よって【作者】としては、『【作品】内で提示する【事実】の連なり』に【演出意図】を込めはします。ですが、【作者】として介入するのはそこまでです。【事実】群を提示するにも【客観的事実】として読み取られるよう注意を払います。
 この方針をまとめますと、以下の通りです。

・【我流・方針】:【作者】は、『あくまでも【客観的事実】を提示する』ことに徹する。ただし『【客観的事実】の提示の仕方に【演出意図】を込める』(例:視点選択、カメラ・ワークなど)

 さて、ここで【我流】の【認識】を。
 【ストーリィ】とは、『状況とその移り変わり』ですが。
 【客観的】に視点を引いてよくよく観察してみると、【ストーリィ】とは『【事実】の連なり+【解釈】』に分解することができます。
 この【解釈】を【登場人物】の【主観】に委ねてみたら、さてどうでしょう。
 ここに『【登場人物】が【事実】の連なりを【解釈】して【ストーリィ】(状況)を理解する』という流れが出現し、そこにはさらに『【登場人物】の心理の移ろいという【ドラマ】を重ね合わせることもできる』ことになるわけです。つまりここにも、『【ストーリィ】と【ドラマ】を融合させ得る可能性』が生じるのですね。

 ◇

 さて、今回は一旦ここまで。

 つまり方針としては、【登場人物】と【観客】の【主観】を重んじることで、『【ドラマ】や【ストーリィ】を押し付けずして印象付ける』ことも可能になるであろう――という、これは【考察】なのです。

 次回はこれに汎用性を持たせる形で【考察】を拡げてみることにいたしましょう。

 よろしければまたお付き合いくださいませ。

 それでは引き続き、よろしくお願いいたします。

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