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生の自分が感じる美しさ

電車の中で本を読んでいる。

熊谷駅から本庄駅、都内在住の私からすればもはやそこは町ではなく大地だった。東京で電車に乗るより車内に光が差し込み、光と影のコントラストが激しい世界観、私は好きだ。
本は先週購入した前田裕二氏の「メモの魔力」。抽象化、転生、私みたいな凡人にはとても思いつかない内容だ。八歳で両親を亡くし、自力で這い上がってきた前田裕二氏には世界はこう見えるのか、と帰国子女で高校から早稲田に通う私自身を相対的に酷評しつつ学んでいた。

15分くらい読んで集中力が切れたころ、あることに気づいた。本の紙の粗さが見えたのだ。日が落ちてきて、いい具合の角度で日光が本を照らすと肉眼ではほとんど見えず手で触るとわかった粗さが見えてくるのである。

光と影の間に見るこの粗さと活字の組み合わせ、実に美しい。普段Blender(オープンソースの3DCGソフトウェア)でフォトリアルなレンダーを目指すあまり、この様な小さなディテールに美しさを感じるようになったのかもしれない。「粗さ」という単語を使うのも、まさにBlenderのシェーダーの設定の一つだからかもしれない。
もしくは私が幼いころから自然が好きだからか。ディテールに限界がない自然、デジタルとは相反する。

自分が何故この小さな粗さに美しさを感じ、オールドレンズで写真を撮るのかはわからない。そもそもそこに具体的な理由なんてないのかもしれない。ただそこで深く考え悩んでしまうのだ、今こうしてnoteを書いている最中も。

「生の自分が感じる美しさってなんだろう?」
これは私が高校に入学したころからずっと考え続けている問である。
「生の自分」とは、インフルエンサーによって動かされた自分や、好きなアーティスト、芸能人の好みに合わせた自分等ではなく、自然に育ってきた私自身、心の底にいる私である。
何故「生の自分」にこだわるのか、それは人間は「生」でいた方がより自然的で人間的で個性的な創作をすると私は考えているからだ。更にそこで「生の自分」にとっての美しさを熟知していたら存分創作を楽しめるのではないか、と考えている。

思えば私は電車に乗っている時が好きだ。広がる大地、遠方に見える霞んだ山脈、電車が進む音、狭い空間に閉ざされてなお、差し込む光と電柱が生み出すコントラスト、どれも美しい。今並べた美しさは全て1937年、クロード・シャノンの修士論文「継電器及び開閉回路の記号的解析」が発表される前の時代に完成されているものだ。

高校に入り色んな先輩に出会い、その頃までやっていた水彩や絵描きをほとんど辞めて、3DCGを学び、デザインを学び、自作パソコンを組み立てた自分だ。嘸かしデジタルが好きなのだろう。
しかしどうだろう。この日のように電車に揺られながら本を手にし紙を観察しながら読む方が新幹線に乗りながら好きなアーティストの曲を聴いたりスマートフォンの有機EL上で写真を眺めるより心地がいいのである(肉体的ストレスは別として)。

二年間かけてやってきたグラフィックデザインや3DCG、これらは「生の自分」ではなく、先輩達というインフルエンサーに動かされた自分が好きなだけなのではないか。本当にそうなのかはわからない、無論そうだったとしても掛け替えのない、決して無駄ではない二年である。

ただ「生の自分」が感じる美しさ、これがまだなんなのかわからないのだ。いつになったらわかるのか?いづれわかるのだろうか?と17年しか生きていない私が考えたところで無意味だが。

本を読んで、内容とは関係ないことに一日中悩んでしまう私も問題なのだが、いづれ「生の自分が感じる美しさ」がわかるようになればいいなと、考えた夕暮れ時だった。

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