フィルム_フェスタ

『さよなら僕の性格』第26話(前編最終話) 今日の占い

やがて新学期が始まる。

ゲーム、本屋、読書、ゲーム、ラジオ。継投策で夏休みを勉強から逃げ切った僕は、夏を頑張ったという自信を得ることもなく、相変わらずの青白く暗い顔と、張られることのない胸と、開かれることのない口を携えて学校に行く。

……また、この日常が始まったんだな……。

夏休みに家にいすぎて忘れていた、学校という場所の息苦しさ。その時間をひたすら耐えて、家に帰り着く。その繰り返しの日々。

朝。今日も学校に行かなければならない僕の目に映る朝の情報番組。

「今日の占い」

星座占いだ。

「今日最も運気が好調なのは『ふたご座』のあなた!」

僕はふたご座である。が、全くうれしくはない。占いを全く信じていないからである。人は、なぜ占いなど信じるのだろう。僕には全くわからない。

だって、星座占いが1位だろうと、5位だろうと、10位だろうと、30位だろうと、僕が学校に行って、誰とも会話をせず、惨めな、つらい思いをして一日が終わることは決まっているんだから。確定なのだから。

「決まってないよ、今日からだって、学校に行って『みんなおはよう』って元気に言えば友達だってきっとできるよ」なんて、言わせない。それができるくらいなら、はじめからこんなことにはなっていないのだ。

僕の置かれている状況は、運がいいとか悪いとか、その程度のことではどうにもならないことなのだ。

占いがどうであろうと、運気がどうであろうと、そんなことは全く関係ない。僕が僕である以上、僕が何座であれ、永遠に最下位なのである。

「ごめんなさい。今日最も運気が悪いのは中井佑陽さん」と、毎日言ってくれればいい。そうしたら「うん、わかってる」と毎日確認できる。

そう。人の幸不幸を決めるのは運なんかじゃない。実力とか、性格とか、その人の持っているものだ。

人生の善し悪しは運なんかでは決まらない。みじめでつらい高校生活だったが、おかげで、そのことに人生の早い段階で気づくことができた。そのことだけはよかったと思っている。

世の中には「運勢」というものを強く信じている人がいる。でもそれは、もし運があれば自分にも成功のチャンスがあるとか、ある程度自分でなんとかできる力があるからこそ、欠けている部分を運で補いたいと思うのであって、圧倒的に力があるとか、圧倒的に力がないという状況では、運などという要素は全く何の意味もないのである。

僕の人生に「運」は必要ない。やがて僕は「運」とか「運勢」というものさえ、信じなくなる。


……秋。修学旅行というさらなる恐怖と絶望が足音を立て、確実に僕のもとに近づいていた。

学級委員、風紀委員、保健委員、図書委員など、生徒は全員が何かしらの委員の仕事をしなければならなかった。僕はなぜか旅行委員にあてがわれていた。

血の池地獄、針山地獄、修学旅行……。僕はいったい前世でどんな悪いことをしたのだろう。

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