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ナカイユウヒの雑談 2011

2011/1/1 「あけましておめでとうございます」

新年最初ということで、鼻毛の話から入りましょう。

鼻毛を抜いてみると、愕然とする。昔は鼻毛なんて、せいぜいまゆ毛くらいのものだと思っていたのに。子どもの頃と比べて、本当に鼻毛って太く長くなったものだ。

これは僕だけなのだろうか。普段、人と鼻毛の話をしないから人の鼻毛の太さまではよくわからない。でも、僕だけ特別とは思えない。安めぐみさんとかもそれなりに太いのが生えてきているんじゃないだろうか。

昔のような産毛みたいな鼻毛に戻りたいといつも思うのだが、そんな願いはドラゴンボールでも集めない限り、叶いそうにないので、一生この鼻毛と付き合っていくしかないのだろう。

悲しいけれど、きっと、それが大人になるということなのだ。

そんな気持ちを歌ったのが、ユーミンの『あの日にかえりたい』である。「鼻毛」と直接表現することは避けて、「青春の後ろ姿」などに置き換えているが、とても気持ちが伝わってくる素敵な歌だと思う。


2011/1/14 「なんでもいいけど、寒い」 

電気代がまた5000円超えてきた。

寒いもんね。

さて、環境問題とか温暖化とか、異常気象とか、いろいろ言われてるけど、地球の長い歴史(46億年)を見ると、地球の気候って、ここ1万年くらい、異常なほど安定しているらしい。

それまでは、氷河期があったり、氷河期があったり、なんか変動の激しい大変な気候だったらしい。

みんな、今の気候しか知らないから、地球なんてそんなもんだって思って、科学で自然を克服したみたいな顔して、「地球にやさしく」なんて言ってるけど、本来、そんな上から目線で言えるような相手じゃないし、むしろ、こっちが地球にやさしくされてる側だ。

本当なら「これ以上温暖化したら、北極のクマさんが住めなくなる!」なんてレベルじゃ済まないところなのだろう。

もちろん、温暖化が今の安定を一気に崩す引き金になりうるから、温暖化を食い止めたほうがいいのは確かだなのだけど、人間がどんなに努力しても、遠い将来、地球の気候がどこかで急変する可能性はあるし、それすら、地球の歴史を紐解けば異常ではないわけだし。

まあ、つまり、地球ってそのくらいどうにもならない相手だから、自分の小さなエコ活動でどうにかなるレベルじゃないものだと思った方がいいと思う。

自分の生活とか健康優先で、そのうえで、気休めかもしれないけどなんて思いながら、環境問題に取り組むくらいでちょうどいいんじゃないかな。わかんないけど、たぶん。


2011/1/21 「100円」

かつて、100円ショップが流行り始めたころ、「え?これ100円?」って、一番驚いたのは電卓である。

「この電卓は7の段がうろ覚えなので(七七45だと思っているので)、たまに間違えます」とか、「正確な計算が出来るやつは100円じゃ売れないから、わざとたまに計算間違いするようにプログラムすることで、価値を下げてみました」ということならわかるが、そんなこともなく、ちゃんと正確に計算してくれるやつが100円で買えるわけだから、なんかすごいなと思った。

最近では、それもすっかり当たり前になってしまったが、それでも、電卓100円って、買ったら得かもという感じはある。

100円ショップによく行く人は、そのたびに2~3個電卓を買うようにしたらどうだろう。お値段以上の買い物が出来て、毎回得した気分になれると思う。そのくらい計算が出来ない人なら、電卓もたくさん必要かもしれないしね。


2011/1/25 「雑談だから、重く取らないでもらえると助かる」

よく、あの人は性格がいいとか、あいつは性格が悪いとか、そんな話を耳にする。

でも僕の場合、性格についてずっと考え続けてきたため、性格がいいと言われる人の裏に、強く人から愛されたいという願望があることを知っている。こうすれば愛される。それを正しく計算できるからこそ、人に対して親切にしたりする面がある。

そのため、自分が誰かに気に入られようとか、好かれようという行動を取ろうとする度、自分でストップをかけてしまう。

「お前は、そんなに人に愛されたいのか」

もう一人の自分が、そう、問いかけてくる。

その度に自分が、純粋な気持からではなく、ずるがしこい計算でもって人に好かれようとしているのではないかと考えてしまい、行動がとれなくなる。

別に、人から愛されたくて仕方なくて、そのために行動したっていいじゃないか、とも思うのだが、そう考えてみても、長い時間をかけて培われた気持ちはなかなか変わらない。

人に親切にしたり、褒めたり、そういうことがほとんど出来なくなっている。

ものすごく不器用なのだ。

いつもニコニコして人あたりが良くて、でも陰では悪口ばかり言ったり、自分に都合の悪い状況になると、人が変わったように怒り出したりするような、裏表を使い分けるのが上手い人間がいるのを見ると、なんとなく、そういう生き方をしたくないと思う。

自分を偽ってでも、自分の利益になることをしよう。人をだましてでも、自分がいい思いをしたい。そういう動機で行動することが怖いのだ。

だから、自分の行動は、相手をいいように操ろうとしていないだろうか、相手のためを思っているふりをして、本当は自分のためなのではないだろうか。いつも気にしてしまって、自由に振舞えない。

つまりは、考えすぎなのだ。

人はそんな僕を見て「性格の悪いやつだ」と思うのかもしれない。なにしろ、親切に対して、親切で返せないのだから。でも、それでもいいのだ。作為的に計算して行動した結果「性格のいいやつ」になるよりまだましだからだ。

そんな僕が、これから先、どうやって、人とコミュニケーションを取っていくべきなのか。未だにその答えが出せないでいる。答えのないまま、漠然と生きている。

そんなだから、人と親しくなることなど、出来そうになく、このままでいいのかといつも思いながら生きている。

でも、僕の中では、今はそれを考える時ではない。気にはなるが、今は他にやることがある。

そうしているうちに、どこかで答えが出るかもしれない。いや、すでに答えを知っているのかもしれない。いずれにしても、今の目標を、人とのコミュニケーションをどうにかしようというところには置けない。

ということで、対人的なものについては、もうしばらくの間、確信も自信も持てないまま過ごすしかなさそうだ。

でもいつか、そのへんもいい感じに吹っ切れる時が来ると自分では思っている。


2011/2/1 「レビュー」

黒澤明監督『用心棒』を見た。さすがに面白かった。

三船敏郎演じる侍は、桑畑を見て「桑畑三十郎」と名乗った。『椿三十郎』で、椿を見て「椿三十郎」と名乗ったように、名前を聞かれると、その時目に入ったもので名前を付けるようだ。

ということは、地方のバイパスとかでたまたま名前を聞かれたときは

「あんた名前は?」

「俺か?・・・・・・俺は・・・『ロイヤルホスト三十郎』。と言っても、もうすぐ四十郎だがな」

とかなるのだろう。そうなると後半の自分ツッコミも明らかにポイントがずれている。そっちじゃないだろと言いたくなる。

それから、ラーメンズの『TOWER』のDVDがようやく借りられたので見た。

自由な感じでいいなあと思った。凝り固まった頭がほぐれる感じがした。

1月は、20本くらいDVDを見た。マンガを7~8冊。本は2冊。CDは落語2枚と、マイケルジャクソン1枚。これで、おなかいっぱいです。これからは読書をもっと増やしてバランスよくいきたいです。


2011/2/7 「音楽と人」

人はロッキーのテーマを聴くと、本能的にトレーニングをしなくてはという気持ちになるものだ。

さっきまで普通に、ぼんやり料理を作っていた人が、ロッキーのテーマを聴いたとたん、おかもちをもって走り出し、階段を駆け上って両腕を高く掲げたりする。

ちなみにその人を描いたのが「上海エクスプレス」のロゴマークである。おたまみたいなのは置いていけばいいのに。

だから、筋トレを始めようと思っている人が、まずはじめにやらなければならないことは『ロッキーのテーマ』を入手することだと言える。


2011/2/24 「部分死」

例えば、腕を頭の方にまわして腕枕みたいな状態で眠ってしまったりすると、肩から先への血流が止まってしまって、目を覚ました時、まったく感覚がなく動かないことがある。

自分の腕なのに自分のものじゃないみたいになっている腕。血液が流れないだけで、こんなことになるのかといつも驚き、「これが死ぬってことなんだな」と、しみじみ思う。

そんなとき、動く方の腕で、死んでしまったほうの腕を正常な位置に戻し(一度、両腕が死んでしまったことがあるが、あの時は焦った)、回復を待つ。

次第に感覚が戻ってくる。

あ~、やっぱり血液が流れるって大事なことなんだな。生きてるってことはそれが全てなんだなと思いつつ、別の考えが浮かぶ。

さっき自分のものじゃないみたいに感じていた腕に血液が流れたら、自分の腕になったってことは、血液さえ流れれば、例えば木の棒とか電動歯ブラシとかでも、体に組み込んで血液が流れれば、感覚が具わって、自分の体の一部になっちゃうんじゃないだろうか。

もちろんそんなことはないのは知っている。考えて、ちょっと怖いなあなんて思っただけ。

ところで最近ちょっとメガネがかゆいんだよね。


2011/2/27 「あなたにとってわたしただの通りすがり」

昨日、いつものようにぼんやり歩いていたら、道端でものすごい勢いでスクワットをしている女の人の後ろ姿が見えた。

すごい速さである。よほど早く筋肉をつけたいのだろう。

でも、残念ながらフォームがいまいちよくない。

正しいスクワットのフォームは膝を前に出さずに、お尻を後ろに突き出すように下ろしていく感じなのだ。

教えてあげたい気もするが、余計なお世話だろう。ここは我慢して通り過ぎよう。と思って、近くでよく見たら、自転車に空気を入れているだけだった。


2011/3/9 「本を読むためガストへ」

今日、時間がたっぷりあったので、ゆっくり本でも読もうと、ガストに行った。

2~3時間で読めるだろう。ファミレスで読書をして過ごす。なんて贅沢な時間だろう。

周りの音を消すために、ウォークマンで軽く音楽を流し、読書には最高の環境を作り、そして家に本を忘れたことに気付いた。

近頃アマゾンのマイページの「あなたへのおすすめ」の筆頭が『バカはなおせる』という本なのはどういうことだと思っていたが、アマゾンは正しい商品を薦めてくれているものだと感心した。


2011/3/16 「地震の影響」

地震の影響で、お休みしていた雑談ですが、そろそろ再開します。雑談なしという大変なご不便をおかけいたしましたこと、お詫び申し上げます。

さて、こちらの近況といえば、近所のスーパーなどではあまりものがない状態だという噂を聞いた。僕は地震以来一度もスーパーに行っていないので見たわけではないが、保存食など買いだめする人も多いのだろう。

僕はといえば、そのうち何とかなるだろうと、のんきにしている。いい機会だから、スーパーに食料を買いに行かず、今家にある食料の不良在庫を処理しようと思っている。

あと、まだガスが使えない。これもそのうち、どうにかなるだろうと、今は水で頭を洗ったりしている。

それと、これが一番大きな影響だが、「被災地」という言葉を聞くたび、いしいひさいち先生を思い出す。いまどうしているのだろう。


2011/3/17 「ガス」

大きな地震があると、ガスは自動的に止まるシステムになっている。

復帰させるためには、ガスのマイコンメーターについている復帰ボタンを押せばいいのだという話はテレビでも大いにやっているし、1~2か月前にガスの点検に来たおにいさんも言っていた。

地震から一夜明け、止まっているガスを復活させるべく、メーターを確認る。ガスが止まるとランプが点滅するらしいが、ランプは点滅しておらず、消えた状態だ。ランプがついていないときは正常らしいのだが、ガスは止まってる。

とりあえず、復帰ボタンを押してみた。

やはり、ガスは止まったままだ。

翌日も、その翌日も、ガスは使えない。

まあ、大きな地震があったあとだ。それも仕方ないだろう。どこかで、ガス大臣みたいな人が危ないからと、ガスを止めているのかもしれない。ありがたいことだ。

もっと大変な思いをしている人もいっぱいいるのだ。ガスくらい、なくても気合いで何とかなるだろうと、気合いを入れて、冷たい水で頭を洗った。

しかし、ガスは一向に戻ってこない。聞くところによると、僕の近所のみんなのおうちはガスが使えるという。

これはおかしい。もう一度見てみて、直らなかったら、ガス屋さんに連絡しないと、暖かいお風呂に二度と入れない可能性がある。

マイコンメーターをチェックする。相変わらずランプは消えたままなのに、ガスは出ない。

やり方がおかしいのか?指が痛くなるくらいグッと強く押す。でも指が痛くなっただけでガスは出ない。

それにしても、隣の206号室のマイコンメーターのランプ。ずっとピカピカ点滅している。早く直せばいいのに。

知らないのかな?だれも住んでないのかな?

ん?まてよ。

201号室のメーターがこれ、202はこれ、203は・・・・。

あ。206号室のだと思ってたのがうちのだ。てことは、僕が自分の部屋のメーターだと思って、いままで一生懸命ボタンを押していたのは208号室のメーターだったのか。

いままで隣の部屋のだと思っていたボタンを押したら、すんなりガスは復帰した。

なぜこんな勘違いをしたのかというと、僕の部屋の給湯器「ユッコ」は208号室側にあるからだ。給湯器の下にあるメーターが自分のだと思いこんでいた。実際にはドアの右上に給湯器、左下にメーターという作りだった。それが何部屋も並ぶと、「ユッコ」とメーターが上下セットだと思うじゃん?普通。

みんなお互いに隣の部屋のボタンを押しあうことでガスを復帰させたに違いない。そんな中、206号室の人だけ、間違えずに自分のメーターを見抜いたのだろう。

気を利かせて僕の部屋のも押しておいてくれればよかったのだ。おかげで、要らぬ我慢をさせられてしまった。


2011/3/20 「Evernote」

「Evernote」を使い始めた。

とりあえず始めた感じなので、まだよく使い方がわかっていないが、これはすごいと、新しいおもちゃを買ってもらった子どもみたいにウキウキしている。

いろいろたまってくるメモなどをどう整理、あるいは処理していこうかというのが、積年の悩みだったので、エバーノートの登場は僕にとって僥倖だった。自分なりの使い方を工夫していけば、かなり楽しく使えそうだ。

エバーノートって何?という人も多いだろうが、僕にそれを上手く解説する自信はないので、ここではエバートンについて解説しておく。

エバートンは、Jリーグ発足当時、横浜マリノスで活躍していたブラジル出身の元サッカー選手である。


2011/5/23 「時間に対するイメージ論」

よく、「人間にはいろいろ不平等なことがあるが、時間だけは平等だ」ということを、訳知り顔で言う人がいる。自分はこの世の真理を悟ったとでも言わんばかりの得意顔で。

一日に与えられる時間は誰でも24時間で平等だと。

僕はこの考えに全く賛同しない。

僕に言わせれば、「一日は24時間でみんなに平等です」ということは、「一万円の価値はみんなに平等です」というのと同じことである。「1センチの長さはみんな平等です」というのと同じである。

そこで区切っているのだから、当たり前なのだ。身長が低い人に対して、「1センチの長さはみんな平等だから大丈夫だよ」などと言っても、何が大丈夫なのかさっぱりわからないだろう。

大金持ちから「私の一万円もあなたの一万円も同じ価値だから、少しも不平等じゃないですよね」と言われても、それはむしろ逆だとさえ思える。同じ価値だからこそ、たくさん持っている人と、あまり持っていない人との差が問題になっているのだ。

時間だってそうだろう。全員がちょうど33000日間生きられることが決まっているなら平等だと思うが、長く生きられる人も、生きられない人もいるのだ。どの面を下げて時間はみんなに平等だなどと言えよう。

それでも時間は平等だという人がいるのは、僕とは時間のとらえ方が違うからなのだろう。

たぶん、彼らを含め、多くの人は、時間というものがあって、それが水のように一定のペースで流れていて、それによって、世界や宇宙のあらゆるものが動いているというイメージでとらえているのではないかと思う(一定のペースで流れているというあたりから、みんなに平等だと考えているのだろう)。そして、タイムリミット、つまり死があって、その日がいつか分からないけど、その日までが自分の持っている時間だと。

僕は逆のイメージを持っている。あらゆる物質が法則に従い一定の運動をし、変化する。

その変化をとらえる、認識する、感じる、そして想像する人間の能力が時間なのだと思っている。時間とはあるものではなく、感じるものだというのが僕の意見だ。実際に存在するものではなく、概念としてのみ存在するものだということだ。決して一定のペースで流れているものではない。「双子の理論」というのもあるように、宇宙には絶対的な時間はないと言われているし、この考えの方が、宇宙の真実に近い気がする。もちろん実際のところ、(僕には、いや僕でなくても)どうなのかはわからないし、知りえないことなのかもしれない。

地球に住んでいる限り、別に前者のとらえ方でも、何の問題もないように思える。ただ、一つ注意しなければならないのは「生きられる時間は限られているのだから、一日24時間をフルに生かして頑張ろう」と思いすぎると、無理をしすぎることになるということだ。

一日が24時間なのはみんな平等だという人は、その24時間をもっと頑張って使って、人より努力すべきだということが言いたい可能性がある。しかし、睡眠時間が短い人は寿命も短い傾向にあるというし、無理をして健康を損なえば、元も子もない。

命のタイムリミットがあるというイメージを強く持ちすぎると、そのタイムリミットを早める可能性があることを忘れてしまう。

だとするなら、どこかにタイムリミットがあるという考え方ではなく、自分の生きる時間は自分である程度コントロールできるいう考え方をした方がいいように思う。つまり、より健康的に生きることで、活動できる時期を延ばすのである。

やりたいことにもよるけど、僕には、この方が、ずっと大きな成果があげられるように思う。

時間はみんなに平等に流れているどうにもならないものではなく、自分次第で変わるものだというイメージを持つようにしたら、僕自身、ゆとりが生まれた気がするし、おすすめしたい。


2011/5/29 「あなたは二羽の芝を飼っていた」

僕もたくさん勉強してきたので、もう知らないことはほとんどないのだが、唯一知らないのが、バイクなどで暴走行為などをされる方々が、パララパラララ……と鳴らすゴッドファーザーのテーマ曲。あれをどうやって鳴らしているのかが分からない。

ある種のバイクには標準装備としてゴッドファーザーボタンが付いていて、それをポチっと押すと流れるようになっているのか、あるいはバイクの後ろに載っている人がラッパを生演奏しているのか。

まさかクラクションの音の高さの違うバイク何台かで連携して、順番に音を鳴らすことで演奏しているわけではないだろう。本当はハンドベルがやりたかったのに、ハンドベル部がなかったから、仕方なくバイクでやろうという人たちが集まって演奏しているなら応援したい気もするが。

あと、曲はゴッドファーザーじゃないといけないのだろうか。島津ゆたかさんの『ホテル』じゃダメなんだろうか。「手紙を書いたら叱られる 電話をかけてもいけない」のところを「パラララパラララパパパパパ……」という感じでできると思うのでトライしてほしいのだが。

ということで、検索して調べてみたら、あれは「6連ホーン」みたいな音を鳴らす道具を使っているということらしい。知ってしまうと「なあんだ」って感じだ。

でも、こうやって知らないことを見つけて、勝手に予想してから調べるという遊びはおもしろいので、これからもやっていこうと思う。


2011/6/21 「三成でいいんだっけ?」

マックでホットコーヒー頼んだら、驚くほどぬるい。

きっとこれは石田三成のお茶のエピソードを意識しているのだろう。なかなかやるな。


2011/6/21 「食べ物のクレーム基準」

料理に髪の毛が入っていたりすると、当然クレームものである。

ただ、おそらく僕の場合、訪れた料理店で髪の毛が入っていても、クレームをつけることはないと思う。それは、クレームをつける勇気がないとかではなく、別にそのくらい適当に取り除いて食べればいいだけなので、騒ぐほどのことでもないからだ。意に介さないというやつだ。

コバエ程度の小さな虫なら同様である。髪の毛も、小さな虫も、食べたくはないけど、食べられないこともない。食べても害はないだろう。

「ちょっとくらいの汚れものならば残さずに全部食べてやる方式」でいけば大抵大丈夫なのだ。

これもある程度、田舎で育った影響かもしれない。小さい頃は、イナゴのつくだ煮も食べたし、桑畑からドドメをむしってそのまま食べたりしていた。田舎育ちだから、こたつにもぐって寝っ転がりながらご飯を食べたり、散らかったおもちゃや紙クズに囲まれてご飯を食べていた。田舎だから、ご飯そっちのけで遊びながら、口に食べ物を運んでいて、自分でも何を食べてるのかよくわかっていなかった。そうやって、育ったので、あまり食べ物には神経質にならなかった。

じゃあ、これはさすがに食べられないという境界線はどこなのだろう。例えば飲食店に行って、大きめのハエが食べ物に入っていたら、さすがに嫌な気分になる。その場合、店員さんが近くにいたら、伝えるかもしれない。が、わざわざ呼び出したりはしないだろう。

ただ、そのハエが2匹入っていたら、呼んでくると思う。

髪の毛とか小さな虫でも、数が2つだと、ちょっと嫌だ。まだ出てくるんじゃないかと思うから。

まとめると

・すごく嫌だ=大きめの虫×2

・嫌だ=大きめの虫×1

・ちょっと嫌だ=小さな虫、髪の毛×2

・全然平気=小さな虫、髪の毛×1

そんな感じなので、水道水すら飲むのを嫌がる人を見ると、潔癖症だなあと思う。ちょっとくらい汚れてるものをとりこんだほうが、きっと体も強くなるのに。

そんな僕も海外で生水など飲んだら無事ではいられないだろう。彼らから見れば僕もまた同じ穴のむじなである。「3センチのゲンゴロウが食べられないなんて、君も潔癖症だな」などと言われてしまうのかもしれない(どこの国だ……)。


2011/8/30 「必」 

「必」の書き順ってわからないよね。

子供の頃、上の点から書くのだと習ったので、そうやって書いてきたのだ。

でも、いつだったか、誰だったかに(確か、教育実習に行った時の先生だったと思うが、定かではない)、それは書き順が違うと注意された。

最初に小学校で教わったと思っていた、上の点から書くというのは何だったのか。僕は、騙されていたのだろうか。

もう終わりだ。いままでずっと違う書き順で書いていたなんて、生きていても仕方ないんだと落ち込んだ。

じゃあ、一体、何が正しいというんだ?

どうせ正しい回答は得られないのだろうと思いつつ、その辺にいた母親に聞いてみたら、まず「心」を書いて、最後に斜めに線を書くのだと言う。心をズバッと斬るみたいだ。

どうせ間違っているので、辞書で調べてみたら、左の点が1画目だと、書いてある。そこまでは、母親の説が合っていそうだ。でも、「心」の3画目の上の点を書いてから斜めに、けさ斬りして、噴き出す返り血を浴びながら、踵を返して「またつまらぬものを斬ってしまった」とつぶやいてから、最後に右の点を打つとその辞書には書かれていた。そうだったのかと思って、その書き方に直した。

それから、時が流れて、電子辞書を手に入れて、そのことをもう一度調べたのだ。

そうしたら上の点が1画目だとはっきり書かれている。上の点を打って、中村主水よろしく×字に斬ってから(中村主水が×字に斬るイメージはパチンコから勝手に得たもの)返り血を浴びつつ、踵を返して「またつまらぬものを斬ってしまった」とつぶやき、仕上げに左右に点を打つのだという。

あれ?前に見た辞書と違うぞ。これこそ僕が最初に習った書き方だ。

辞書によって違うということか? 流行りすたりによって変わるのか?もう、わけがわからない。

まあ、書き順なんて、誰かが決めたことだ。「必」ず正しい書き順があると考える「必」要もあるまい。

なので、これからは上の点から書くようにしようと思う。


2011/8/31 「フィジカルトレーニング」

しばらく運動をしていなかった。

ずっと体力落ち放題なのが気になっていたが、放っておいた。が、いよいよ最近、体力の低下が深刻で、自分に自信が持てなくなってきて、あまり人と話をしたくなくなってきたり、走るのが面倒に感じたり、元気が出にくかったり、頑張りたいところで頑張れなかったり、勝ちたい試合でヤクルトが勝てなかったり、いろいろ悪影響が出てきてしまった。

体力は、どのくらい落ちていることだろう。だいぶ落ちているだろうが、それでもまだ、片手で腕立て伏せくらいは軽くできるだろう。

試しに、左手一本で腕立て伏せをやってみる。1回やったところで、目の前に無数の星がちらついた。

鬼束ちひろは、これと同じ経験を歌にすることが出来たからいいけど、僕は歌手ではないから、こうも簡単に「眩暈」や「流星群」が現れるのはまずい。今日からゆっくり、トレーニングを始めることにした。しばらくは、続けるために本当に軽いものにする。

実際の効果というより、「やってるから大丈夫」という精神的な効果が得られるだけでも違うはずだ。

「やってるから大丈夫」という精神的効果を得るためなら、実際やらなくても、やったと思い込むことが出来れば十分なのだが、その方が難しいので、ちゃんとやる。

そうして、やってみると、筋肉も思った以上に付いて、実際の効果も期待以上のものが得られるものだろうと期待している。


2011/8/2 「4・9運動」

例えば、財布に、千円札数枚と、100円玉が3枚、10円玉が4枚、1円玉が4枚あって、コンビニで買いものをしたら274円と言われた時、どうするか。

ここで「あ、4円ある」などと言って304円出す人は素人だ。324円出すという人も同様である。330円を出すというのもあまりよくない。ちょっとややこしい。

ベストは素直に100円3枚出して26円おつりをもらう。

お会計の1の位が「4」とか「9」のときは、1円玉が4枚あったとしても、1円玉には手をつけない。なぜなら、1円玉を4枚取り出すという作業が大きな手間だからだ。

桁が上がって下2けたが「40」とか「90」のときも同様、10円玉を4枚取り出すのは面倒なので避けるべきだ。

次のことを座右の銘にしてほしい。

『お釣りをもらうより、小銭をたくさん取りだす方が、かかる時間も労力も大きい』

何が何でも、もらうおつりを減らそうとする人がいるが、それは素人のやり方なのである。

「でも。細かいの出さないと、どんどん小銭がたまっちゃうじゃない」と思うかもしれないが、細かく出せば、本当に小銭は減るのだろうか?

じゃあ仮に、ここで274円と言われた時、304円出して、お釣りを30円もらうとしよう。

そして、次のお会計の時、もし「1001円です」と言われたらどうするのか。1円玉がないから、結局細かいお釣りをもらわないといけなくなる。これでは、お釣りを渡す方の店員さんも大変だ。「1円ないんですか」みたいな顔をされてしまうだろう。

細かく4枚小銭を出すという苦労をしたのに、いや、したがために、また細かく戻ってくるという、自分にも、店員さんにも無駄な労力が発生しているのである。

ということで、次のことも座右の銘に加えてほしい

『小銭は適度に持っている方が便利』

座右の銘、容量いっぱいで、これ以上増やせないよという人は、あなたの座右の銘の『幸福はいつも身近なところにある』みたいなやつは、どうせ役に立っていないのだから、壁から剥がして、新しくこれを貼ってほしい。

考えるべきは、いかに自分の財布の小銭を少なくするかではなく、いかに、自分にとっても店員さんにとっても、お会計を楽に、スムーズにするかである。

ここで4枚1円を出さなくても、お釣りで渡される1円玉は1枚だけだ。もらう方も渡す方も、負担は少ない。財布の1円玉は5枚に増えるが、次の会計の時、198円とかで、もし財布の1円玉がどうしても邪魔だと感じれば、3円を出せばいいのである。別に5枚を邪魔に感じないなら、出す必要はない。7枚に増えたあと、邪魔なら少しずつ出せばよい。こうすれば、別に、ジャラジャラ小銭がたまることはないのである。

結論に移ろう。4円や40円を出すことは、どう考えてもエネルギーの無駄遣いである。

お会計の最後が「4」「9」「40」「90」の時は1円玉や10円玉を使わない。これを「4・9(よんきゅう)運動」と名付ける。

これを読んだ人は広めるようにしてほしい。これでだいぶお会計の時の煩わしさが減るはずだ。

そして、これを広めようとする方が(これを全部説明する必要があるから)、エネルギーの無駄遣いだという事実には、気づかないふりだ!


2011/8/3 「4・9運動、補足」 

前回の4・9運動について、誤解のないように、もう少し詳しく説明したい。前回の記事をまだ読んでいない人は、何のことかよくわからないことになるので、先に前回の記事を読んでほしい。

4・9運動は、レジ等の支払いの時、お会計金額の最後が「4」「9」のとき、または「40」「90」のとき、もし1円玉や10円玉が4枚あっても、それを出すのではなく、お釣りをもらおうというものだという説明をした。

ただ、それは、お金の受け渡しをスムーズにするための一つの提案で、意地にかけて、何が何でもこのルールを守るべきだということではない。

例えば、240円のものを買うことになったとする。

財布には千円札と、100円玉2枚と、10円玉5枚入っていたとしよう。4・9運動のルールだと10円4枚は出さないということだから、千円札を出すということになりそうだ。

もちろんそれでもいいのだけど、こういうときは240円ちょうど出してしまえば「ちょうどですね。ありがとうございます」で済むので、そのほうがスムーズだろう。店員さんもお釣りを取りだして渡す手間が省け、自分もお釣りを財布にしまう手間が省ける。4・9運動のためにと躍起になって、無理に千円札を出す必要はないのである。

ただ、今の例で財布の中の100円が1枚少ない場合はどうか。ちょうどは出せないので、千円を出すしかないが、ここでもらうお釣りを減らすために、10円玉をわざわざ4枚取り出し、1040円を払う必要なはい。千円札だけ、さっと出して、760円のお釣りをもらえばいいのである。ここでわざわざ40円を取りだすのは、前回述べたような理由で、無駄だといいたいのである。

「そうか、ちょうどあるときはちょうど払えばいいのか」と安易に取らないでほしい。

例えば、お会計は98円。で、財布の中には小銭がいっぱい。見ると98円ちょうど出せそうだ。と、思っても、100円玉があるなら100円玉を出す方が、この場合手間は少ない。98円ちょうど出すとなると、たくさん小銭を取りだす必要があるし、それを確認する店員さんも大変だ。100円出して、2円のお釣りの方が簡単に終わる。

要するに、自分にも店員にも、なるべく手間が少ないようなお金の支払い方をするべきだということなのだ。

4・9運動はそれを最も象徴的に表わす形だから、意識してほしいものとして、提案するわけである。だから「4」「9」に限らず、小銭を出すのに手間がかかりそうなら「3」「8」でお釣りをもらったっていい。逆に「1」「2」のときなどは、あるなら積極的に出していきたい。

10円玉は4枚出さない方がいいとは言ったが、もし財布に小銭が10円玉4枚だけで、財布をひっくり返すだけで簡単に取り出せるなら、出したって構わない。

つまり、小銭をちまちま取りだすような状況こそが、時間と労力の無駄だと言いたいのである。分かっている人も多いだろうが、これが分からず、細かいお金を時間をかけてわざわざ取り出している人があまりに多いのである。

「できるだけ、受け取るお釣りの枚数が少ない支払い」から「できるだけ、自分にとっても、相手にとっても手間が少ない支払い」へとパラダイムの転換をしてほしいのである。

間違っても、868円を支払うとき、ちょうどお釣りが500円になるように1368円出して「頭がいいだろ」みたいな顔をしてはいけない。普通に1000円出せばいいのだ。そしてお釣りを132円もらう方がよほど、手間も時間もかからない。その上、もし次の会計の時、1002円ですと言われたら、2円が出せる。1368円出して、500円玉をもらっていたら、2円が出せず498円おつりをもらうハメになるかもしれない。

だから、受け取るお釣りの数を少なくすることに、そんなに意味はないのである。

お分かりいただけただろうか。されば、ぜひ4・9運動を始めて、広めていっていただきたい。


2011/8/9 「今日の日記」

マウントレーニアのカフェラテを久しぶりに飲んだ。マウントレーニアのカフェラテはすっかり夏の風物詩である。

レーニア山はアメリカ合衆国の北西部、ワシントン州(首都ワシントンとは反対のほう)にある山。標高4392m(『与作に木を切らせろ、レーニア山で、ヘイヘイホー』もしくは『黄泉の国、レーニア山』と覚えよう)

そんな所からわざわざ汲んできたカフェラテだと思うと、おいしさもひとしおだ。

ちなみに「ひとしお」は「一入」と書く。「入」とは、染めものをするとき染料に布などを投入する回数を表す単位で、一入ごとにどんどん色が濃くなることから、「よりいっそう」といったような意味になった。


2011/9/10 「キャッチコピー」

僕のキャッチコピーですが

「期待すると期待はずれ、期待しないと期待以上!」

になりました。

自己評価なので、実際どうか知りませんが……。


2011/9/11 「適当に書いた雑文」

高校生の頃、人に話しかけるということが全くできなかった。

人と世間話をするというということが、僕にとっては焼けた鉄板の上を裸足で歩くくらい難しいことだと感じていた。

自分から世間話なぞ吹っかけ、もし「なんでそんな話するの?」などと言われてしまったら、もう泣きながら学校を早退し、家に帰るしかない。

自分の選ぶ話題に全く自信が持てなかった。何を話せばいいのか全く分からない。「いい天気だね」などは、完全にアウトだ。それこそ「たしかにそうだけど、なんでそんなこと言うの?」と言われてしまうに違いない。そうなれば、もう、ひとり静かに断崖絶壁から日本海の波しぶきを眺めるしかない。

もし仮に、うまく、当たり障りなく、「なんでそんな話するの?」と言われずに済みそうな、いい感じの話題を見つけたとしても、それをぶつけた結果、もし「なんでいつもしゃべらないのに、今日はしゃべってるの?めずらしいね」などと言われてしまったら、もうだめだ。山奥の小川のせせらぎの中を服を着たまま腰までつかり、じゃばじゃば、水源に向かって力尽きるまで歩き続けるしかない。

そうして、自分から人に話しかけることなど、一度もないまま、人と関わることも、ほとんどないまま高校を卒業した。

このままでは生きていけない。大学に入ったら、どうにかそういう自分を変えようと思っていた。

そして、大学に入学が決まると一人暮らしを始め、一人で生きられるように力をつけていこうと、自分を追い込んだ。

住むことになったアパートの、電気やガスの開通の手続きの電話も、かけるのが怖くて怖くて、しゃべる内容の原稿を作って、リハーサルしたりしつつ、かける相手の番号を画面に表示した携帯を握ったまま1時間も2時間も、通話のボタンが押せずにいたものだ。

そんな感じだったので、アルバイトをするなんて、とんでもない話だった。そんなことをしたら、山奥の小川がいくらあっても足りない。

僕の今のバイト先にも、高校生くらいのが何人もいるけど、大したものだ。同じ頃の僕の姿と比べれば、とても彼らをバカにはできない(僕が彼らにバカにされることはあっても)。

結局、僕が、本格的にアルバイトが出来るようになったのは、大学5年生のときだった。

その話は、また別の機会で話すかもしれないが、今回は枚数の都合でこのくらいにしておこう。

ちなみに、今でも世間話などはあまりしないが、鉄板が焼けているという思い込みからはすっかり解放されている。人と話すことはすっかり怖くなくなった。鉄板は、歩いてみれば、ただの鉄板だったのだ。

今は、「なんでそんな話するの?」というような話ばかりを、あえてしてやってもいいという余裕も出てきている。楽になったものだ。

この成長の記録を本にして出せば、当時の僕のように、悩んでいる多くの人たちに読んでもらえて、金になる役に立てるかもしれないとよく思うのだが、それはまだ、だいぶ将来(さき)の話になりそうだ。「さき」と読ませるかっこいい締め方だ。


2011/9/18 「5枚刃」

ジレットフュージョンプログライドというひげそりを使っているが、すごく剃り心地がいい。

ジレットというと、なんとなく「じれったい」を思い浮かべてしまいがちだが、全然じれったくないのである。

それまでも、普通のジレットフュージョンを使っていたが、それですら、快適だったのに、今年2月、それの進化バージョンのプログライドが出ると聞いて、跳び上がって喜んだものだ。それが、今年最大の喜びだった。2番目が、なでしこジャパンのWカップ優勝かな。


2011/9/20 「栄誉賞」

消しゴムを最後まで使いきったことがあるという人が、もしいるなら、早く国民栄誉賞をあげればいいのにと思うくらい尊敬する。

僕は鉛筆を残り2センチくらいまで使ったことがある。鉛筆はそのくらいまで短くなると構造上、それ以上使おうとしても無理があるので、使いきったということにしていいことになっている。

とはいえ、消しゴムを使いきる難しさに比べれば、鉛筆など、大したことはない。

もし「いいとも」のテレホンショッキングに出たら、100人アンケートでは「消しゴムを使いきったことがある人」と尋ねてみようと思っているが、一人いるかどうか。

7つくらい消しゴムを使いきれば国民栄誉賞の受賞は確実だろう。

「7つもの消しゴムを使いきり、国民に物を大切にする心と感動を与えた」

ところで、「国民栄誉賞」は子どもの頃「国民栄養賞」だと思っていた。国民に元気を与え、栄養となるような活躍をしたという意味で送られるのかと。国民の栄養になるなんてさすが王貞治だなと思っていた。

その後、栄養どころか消化不良を起こしそうな顔の人がたくさん受賞しているの知り、「あれ、おかしいな」と思い始め、長谷川町子さんが受賞したあたりで間違いに気付いた。


2011/10/3 「首にタオル」

美容院に行った。

シャンプーした後、首の後ろにアツアツのタオルをあてた状態でしばらく寝かされるのだけど、これが気持ちいい。

もし死ぬ日が来るとしたら、この気持ちよさの中で安楽に死ねたらいいなと思った。

僕が銃で撃たれるのを見たら、とりあえずアツアツのタオルを持ってきて、首の後ろにあててほしい。


あとがき

お付き合いいただき、ありがとうございました!

おもしろいと思っていただけたなら、これ以上の喜びは、宝くじで高額賞金が当たるとか、好きな人からラブレターをもらうとか、お寿司をたくさん食べるとかの上位グループを除いてありません!

ここまで読んで、ところで、お前は誰なんだという方もいることでしょう。

この本では、僕の素性はできるだけ明かさないようにしました。それでもどうしても文章から知性などがにじみ出てしまっていたと思いますし、どんな人間なのかというヒントは端々に散りばめられてていたかなあと思いますが、もう少し知りたいとお考えかもしれません。

ただ、よく、時代劇とかで謙遜して「名乗るほどの者じゃございません」と言ったりするけど、僕の場合、本当に名乗るほどの者じゃないです。

強いて言えば、こんなのを書くのが好きな人です。


この本のもとになった「ナカイユウヒの雑談」というブログは終了しますが、ブログ自体はこれからも、どこかで続けていくつもりですし、文章は一生書いていくと思うので、またどこかでお会いすることもあるかもしれません。そのとき、またお付き合いいただければ、これに勝る幸せはありません。

最後になりますが、本文で謂れのないとばっちりを受けていた安めぐみさんの幸せを、お祈り申し上げます。おめでとう。お幸せに。

2012年 元日  ナカイユウヒ

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