第4章 みんな生きている 25. お目利き奇特な難民
▲ジブチ アリサビエ市 アムダのオフェス
ある日、私が町中を散歩していると、どこかのキャンプ地の現地人(だと思う人)日本人の私のところへやってきて話し始めた。
「AMDA(医療援助する日本のNGО、アジア医師連絡協議会、本部・岡山市)は全然ダメだ。JICA(日本の援助機関)はいいぞ」
現地人の彼はJICAの私を褒めるつもりで言ってくれたのかもしれないが、聞き捨てならなかったのは「AMDAは全然ダメだ」と批判していたことだ。
私は、日本のNGО(非政府組織)であるAMDAがアリアデ難民キャンプで毎週医療援助を行っているのを知っている。どこのキャンプ地の現地人かは知らないが、無償で医療行為を受けておきながら、あそこのNGОはダメだ」と陰口を言っているのを目の当たりにすると何だか腹が立ってくるし、そもそもこういう人にまで援助する必要はないと思ってしまう。
これでは、援助を受ける側に「援助慣れ」が出てきていると取られてしまっても仕方がない。
「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教える」という言葉があるが、AMDAが行っている無償の医療行為が、ただ「魚を与える」だけだったのかと思うと残念でならない。
大規模災害や戦争での援助は緊急を要し早急になされる必要がある。
一方で、自助努力をしないで「あれがほしい。これをしてほしい。医療をタダで受けたい。等々」とばかり言っているのを聞くと、逆に援助は何もしないという選択をする方が世のため人のためとなるのかもと考えてしまう。
援助すれば、難民は感謝し、頑張ろうという気持ちが生まれ、より良く物事が改善されていくと思うだろう。それは善意に対する自然な考え方だと思うが、一方では、援助する側の論理の期待でもあり、自己満足なのかもしれない。
援助には、受ける者をダメにしてしまう一面もあると思う。
昔、豊臣秀吉が茶器を評して、千利休が「お目利き奇特に存します」と返した。秀吉の逆鱗に触れた利休は切腹となった。
感謝とか謙虚さを見失っては、悲劇にもなりかねないたとえ話を思い出したが、あの難民キャンプの現地人には、この意味は分からないだろうなぁ。
▲6月20日 世界難民の日 アリアデ難民キャンプにて
▲アリアデ難民キャンプの女性
▲難民キャンプの子供たち
▲アリアデ難民キャンプにあるキヨスクでは、500mlのミネラルウォーター50フラン(30円)が、2倍の100フラン(60円)で販売されている
▲元気な子供たち
▲アリアデ難民キャンプから首都ジブチへの帰路
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