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政治と文学

同じ言葉で成り立つ世界だが、
政治と文学は真逆のものだと言われている。

「政治」を簡単に言ってしまうと、「目に見える儲け(価値)の差配」。
「文学」を簡単に言ってしまうと、「目に見えない儲け(価値)の創造」。

こうなると、真逆ではなく、現実の世界では圧倒的に政治の方が強い。なぜなら、文学が作った現実的な儲けを、政治はすべて持って行くことができるからだ。つまり上下の関係。

では、果たして文学は政治の風下に立つのか。いや、それはあくまで現実の世界での話であって、非現実においては、文学の方が上である。
なぜなら、文学は新しい言葉(物語)を創れるからである。そこには、現実的な儲けは意味を持たない。無いものの差配は政治にはできない。

こうして政治は非現実な形而上では、文学の風下に立つ。
しかし、人は生きている限り、肉体が有る限り、このリアルな現実に生きていかなくてはいけない。生活して日々サバイバルしなくてはならない。

残念ながら、文学がもたらす芳醇な言葉たち(物語)では、空腹を満たすことはできない。
反対に政治では、いくら高尚なストーリー、壮大なビジョンを掲げようとも、儲けの差配でしかない限り、精神的な飢餓を満たすことができない。

悩み苦しみ、明日電車に轢かれて死んでしまおうかと思っているようなぎりぎりの者が抱える精神的な飢えを、政見放送や街頭演説で満たすことは不可能である。(中にはいるかもしれないけれど、それはそれで怖い)。

だから、結果として文学と政治は、その目的が仮に「すべての者の幸福」という頂点に向かうものだとすると、どっちが上でどっちが下かというわけではなく、昇るためのルートが違うだけの話である。

しかし、時々、形而上学の世界に生きる文学者の中に、現実の力に対するイライラやジレンマを抱いて、現実的に実現しようと政治の世界に移っていく者たちがいる。

少し前で言えば、石原慎太郎さんとか、青島幸男さんとか、現在は猪瀬直樹さんとか、これほど有名にないにしろ、過去の歴史をたどれば他にも数多くいた。

しかし、前述した方々は例外として、ほとんどの人は失敗してしまう。逆に、成功したら成功したで、現実的な手応えを感じてしまい、その快感が忘れられなくなり、権力にしがみつき、二度と文学の世界に戻れなくなったりする。戻ったとしてもろくな作品を創れなくなる。

それだけ、政治の世界は怖い。文学と真逆だけに怖い。それは文学の世界もまた怖いのと同じである。

石原慎太郎さんも、政治の世界であれだけの名を残したにもかかわらず、最後は文学の世界に戻って来て、ひたすら小説を書いていた(出来映えは作品を読んでいただければ)。
西洋で言えばゲーテとか、モンテスキューあたりかな。

この文学と政治の問題、古くて新しい問題だが、これほど真逆ではなくても、「文学と商売」、「文学とスポーツ」といった、ほかの価値分野との関連性と影響についても、考えてみると面白いかもしれない。

“ 鳴く蝉に 声を合わせる 子供かな ”


夢はウォルト・ディズニーです。いつか仲村比呂ランドを作ります。 必ず・・たぶん・・おそらく・・奇跡が起きればですが。 最新刊は「救世主にはなれなくて」https://amzn.to/3JeaEOY English Site https://nakahi-works.com