なんのために自分は生まれてきたのか
秀康は越前北ノ庄城で最後の息をひきとるとき、
ふとそうおもったにちがいない。
とは、司馬遼太郎の「豊臣家の人々」
第七話 結城秀康の章の最後の文章から。
結城秀康
徳川家康の次男でありながら、
※父から愛されなかった武将。
羽柴秀吉の養子になり、秀吉によって
「秀康」と名づけられた。
養父の秀、実父の康
時の世でこれほど贅沢な名付けかたはないであろう。
秀吉からは可愛がられた。
が、家中の中では
かの君は人質である。
という観念が、ひとびとの態度の底にしみこんでいた。
人一倍自尊心の強い性格。
秀吉からも家康からも認められた器量。
故に、家康は、もしも自分や自分の跡継ぎ達を恨んで牙を向いたら、いずれ跡継ぎ達の天下を取るのでは?
実力を認めながらも、警戒され、秀吉、家康のいずれの戦場の最前線で戦う事は一度もなく、あの「関ヶ原の戦い」でも
留守の将にされた。
劇的性格をもちながら、その生涯はなんの劇的要素ももたずに終わった。
「豊臣家の人々」
は何回も読んだけど、面白いだけでなくいろいろ考えさせられる。
特に「結城秀康」公の事を思うのである。
そういう生涯だった人生。
今、最前線で戦える自分自身の運命に使命を感じ感謝し、スーパーマーケットで日々働いていて行くのだ。
と休みの日の午後、自室で読者をしながら思うのです。
※母は、おまん。正式な正室でなければ側室でもないと言われている。
家康の正室、築山殿の奥づとめの侍女であった。
家康が岡崎城に来た時に悲劇が起きる。
翌年おまんが産んだ子が於義丸が後の秀康
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