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ナカさんの読書記録 「ノボさん 小説 正岡子規と夏目漱石」伊集院静

正岡子規にとても興味があります。きっかけは岩波文庫の「仰臥漫録 」だったり、終の棲家「子規庵」が近所だったこと。「仰臥漫録 」は毎日食べたものが詳細に記されていて子規って食いしん坊だったのね、と面白く読みました。ネットで子規と弟子の高浜虚子の事を調べたら「道灌山事件」というのがあったそうです。いったいどんな事件が二人の間に起きたんだろう?! 道灌山というのは今の西日暮里駅の辺りです。気になります。
正岡子規の生き方や弟子や友人との関係をもっと知りたいなと思ってたらこの小説を知り、さっそく読んでみました。文庫版は上下に分かれていて、ざっくりいうと上巻は25歳くらいまでの元気な頃。下巻はそれ以降、病気が悪化し34歳で亡くなるまでが描かれています。本当に短い人生ですね。。。

子規の人懐こさや誰からも愛された人柄は有名ですね。みな親しみを込めて子規の幼名、升(のぼる)から「ノボさん」と呼んでいました。子規と言えば丸めた頭に髭の横顔の写真が有名ですが、あれは容体が悪化して自宅で撮った晩年の写真で、若く元気な頃の写真は野球のユニホームを着た写真もあります。子規の野球好きは弟子の碧梧桐いわく「変態現象」と言われるほど「べーすぼーる」に熱中していたそうです。
毎日誰かしらが子規のところへ遊びに来たり、連れ立って外出したり、とても賑やかに暮らしていました。鰻をはじめ美味しいもが大好きだった子規。しかも物凄い大食漢で当時は結核になっても治療法が満足にないので栄養と取ることが第一ということで好きなものをバクバク食べていたそうです。

落語がきっかけで意気投合した夏目漱石(金之助)。神経質な金之助と自由奔放な子規、正反対の性格ですがとても仲が良かった。親交は漱石がロンドンに旅立つまで続きます。漱石は学校を辞めるという子規を心配して何度も引き留めます。一緒に旅をしたり、松山では短期間ですが一緒に暮らしていた漱石と子規。自分の死期が近いことを悟っていた子規は漱石にはもう生きて会うことが出来ないと思いながら漱石をロンドンへ送り出します。辛い胸の内を隠し明るく旅立ちを見送ります。切ないシーンです。
子規には思いを寄せた女性が何人かはいたようですが、漱石が「結婚しないのか?」と聞くと「あしは、この身体では嫁が可哀相じゃ」と答える子規。女性に対してはとても繊細な気持ちを持っていたようですね。幼くして父が亡くなり母の手ひとつで育てられた影響もあるのでしょうか。

子規は脊椎カリエスで余命長くないと悟り自分の後継者を考えます。子規の高弟といえば河東碧梧桐と高浜虚子ですが、碧梧桐は大人しく優しすぎる性格だから自分の後継者は無理だろう。では虚子はどうか、虚子の俳句の才能は申し分ないけれど、性格に難ありと考えていた子規。何かを学ぼうという気持ちが長続きしない、自分勝手な性格もあり吉原通いも女性に潔癖な子規には引っかかる点ではあった。けれど、それは諭せば治ると思って子規は虚子を呼び寄せます。後継者になって欲しい旨を伝えようと二人で道灌山の茶屋に出かけました。これが後にいう「道灌山事件」ですね。
子規が「どうぞな、これから先少し学問が出来るんかな」と問うと虚子は「あしは学問をする気はありません」と答えます。「あし」っていうのは伊予弁で「私」だそうです。実はわたし、その方言知らなくて「人間は考える葦である」のアシかと思ってて、どういう意味なのかな?って思ってた(笑)
ノボさんにはとてもお世話になっているけど、自分の性格は今更直せないという虚子。ワガママを言ってるのか、それとも後継者は重荷と考えていたのか。。。でもこんなこと言われても子規は虚子を嫌ったり拒絶することなく、他の弟子たちを同じように可愛がりました。子規の心の広さを感じます。のちに松山で発刊した雑誌「ホトヽギス」は経営が傾き、それを東京にいる虚子が受け継いだのですが、虚子には商才があったようで雑誌は順調に売れたそうです。虚子は寝たきりになった子規がいつでも庭を眺められるように当時大変高価だったガラス窓を子規庵に取り付けます。四季折々咲く花を眺め俳句を作った子規。病床から見える庭が唯一の子規の宇宙。鮮やかな鶏頭、棚からぶら下がる糸瓜。どんな思いで見てたのかなと思うと胸がいっぱいになってしまいます。脊椎カリエスが悪化して亡くなる直前まで弟子が毎日誰かしらそばに付き添い、母の八重は痛いところをさすってやり、妹の律が献身的に看病しました。当時の医学では壮絶な闘病だったようです。
9月19日未明、34歳という若さで亡くなった子規。生前「静かなところに葬って欲しい」と言い残しており、田端の大龍寺にお墓があります。

「もしも子規が健康で長生きしていたら、日本の明治大正の文学はどうだったのか」と考えると、ロンドンから帰ってきた漱石にも会えただろうし、森鴎外などの文人との交流も広がり深まっていったと思います。
短い人生のうちほとんどを病気に苦しんだ子規。たくさんの人に愛され、俳句の世界に大きく貢献し、17文字に自分の世界を表現した子規。子規の俳句を今私たちが読むことが出来るのは幸せなです。赤く色づいた鶏頭を見るたびに子規の事を思っています。

2020.10


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