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表現したあとに触れる微かな何か

この数年は随分と言葉という存在に遊んでもらった様に感じます。

sns、ブログはもちろんの事ですが、仕事においてもカスタマーサポートやら契約書関連の事など私の接する世界は常に言葉を中心に回っていました。

そのような中で果たして私が真剣に言葉に向き合ったのかどうか?

難しいことは分かりませんが、

大変だったと思うことは数多くあれども辛いと感じたことは比較的に少なかったのであり、その中でも夢中であった時間が大半なのであるから、やはり私は言葉に遊んでもらえたのだと思っています。

ブログでは分かりやすい文章を組み立てたいなと思い立ちひたすらに文字を刻み、ツイッター等のsnsでは日々の生活を綴ったり、気の合う人達と触れ合ったりしました。

仕事においてカスタマーサポートでは日々 顔の見えないお客様とメールを通信しあい言葉を交え、契約書関連の仕事では互いの利害関係を明白にすべく、随分と肝を冷やす様な思いをしてきました。

それぞれ果たす役割は違えど間に入るのは文字や言葉といった媒体であることは確かでした。

思いを書き留め記録するのは文字ですし、後々のトラブル回避の為に同意のもとお互いの意思を書き連ねるのも文字でした。

さらにそれを発信し、人と人を繋ぎ止めるのも文字や言葉でしたし、私が除き見る世界で 囚われとも言える諸々の固執した概念をうち破る唯一の方法は言葉そのものでした。

行動は言葉と極めてイコールでした。

人は思いを描き何かの行動をとれば、必ず言葉に行き着き、言葉は記録として文字に生命を宿し、文字はやがて書き残した本人からもずっと離れ、私でない誰かのもとに届き、私の知る知らないに関わらず打ち響き合います。

時にそれは簡潔な文章として、時にそれは詩的な調子の良いリズムとして、私の意思を離れ、うごめき駆け巡りました。

学生時代に書いた作文とは圧倒的に違う何かがそこにはありまして、
思えば若い時分に書いた文章というのは文という形式はとっておれど それはちっとも表現ではありませんでした。

それは自分のちんけな正義の為に取り繕った薄皮を自分の顔にかぶる行為と言っても過言ではなかった様に思います。

今はその薄皮を少しずつ剥ぎ取り、ようやく自分以外の誰かと対話をする勇気を小さいながらも灯すことができる様になり、

遂にはこうして書き綴った内容を公開するに至るのです。その先にはきっと目にしてくれる人達が少なからずいるという確信からです。

全ての勉強は表現に繋がっています。

インプットがあってアウトプットがあると云うのが世の通説ですが、本当は誰かのアウトプットがあってそれを真似る行為に刹那的なインプットに近い何かが存在するという概念が真実に近いと私は信じております。

試しに何の行動もなしに未知の言語をただただ音だけ聴いてみると良いと思います。多分10年聴き続けても意味は分からないはずです。

"おはよう"でも"美味しい"でも何でも構いません。発すること、そしてそれを受け入れて貰える事で初めて本来の意味を知覚し、自分の身となるのです。

発することとは表現することです。そしてそれは思いのほか他人には伝わらないことを知るための道程であり、やがて自分自身にすら伝わっていない事を痛感する長い長い道程です。

発して発して、ふと吸い込んだ時に感じる微かな何かを眺める途方もない作業の連続です。

#エッセイ

ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー