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流転のグラスを鳴らせ【エッセイ】

朝、たった1分の差でバスに乗り遅れた。仕方なしに一旦帰宅、5km先の駅までチャリで行くことにした。
セミの鳴き声がシャーシャー降り注ぐ中、風を切って颯爽と走行するも、駅に着く頃にはもうすっかり汗だくだ。マスクの中も蒸れる。

あぁ、マスクか…

こんな真夏の時期にまだマスクをしているなんて年始の時点では想像だにしていなかった。でもこれが現実。私達はいま疫病の影と隣合わせに生きている。
人との密は避けろだとか、週の半分はリモートワークだとか、上からの通達はおりてくれども、経済活動自体は止めるわけにもいかないから、何だかんだでこうして出勤している。

職場に行って、元気に帰ってくるだけで喜ばれるのだから、この生活も捨てたもんでもないのだが、何せ暑い中、マスク姿で過ごさなければならないのだけは慣れない。
喉もカラカラである。許されることなら朝からキュッと冷えたビールの一杯でも飲みたいところだが、そこは缶コーヒーで我慢する。

ガランと自販機から出てきた缶コーヒーを首の後ろに押し当てる。こうすると冷たくて気持ちいい。駅のホームで味わえる100円ちょっとの幸せだ。

マスク姿の人が立ち並ぶ会話のない静かなホームを見て、『これはしゃべったらいけない罰ゲームか何かなのだろうか』と心の中で毒気づいた。そしたら何だか可笑しくなって笑えてきた。不謹慎だけどマスクで口元が隠れているから周りからさとられはしないだろう。

私は換気の良さそうな窓の開いた電車に乗り込んだ。

出社後、PCの画面を見ながら仕事にはげむ。

メールをさばきながら、私はふと最近の身の回りの変化について考えていた。

まず、ここ数年で仕事の様子がかなり変わってきたことを思う。
疫病の影響もあるだろうが、直接対面での商談がみるみる減ってきたことをつぶさに感じていた。
逆に増えたのが文章による情報のやり取り…

それは、物理的な距離を越え、情報の共有を行なう人と親密になる世界になったと振り返ることができるのではなかろうか。

だから、同じ町に住んでいる得意先よりも、頻繁に情報交換を行なう500km以上離れた得意先とのつながりが強くなる逆転現象が起こりえる。

文字を起点に人と出会う。

不思議だった。でもきっと偶然ではない。

膨大な量のメールの中にあっても埋もれないメールというのは存在する。
『これは!』…と感じるのだ。

何気ないテキストの中にあって跳ねる脈。ああ、この通信先の相手は本気でこちらと商売をしたがっている。もう、ピンとくるのだ。
そういうのが来ると『この人と話がしたい』と願うようになる。

そのうちにテキストでのやり取りを超えて電話でホットラインを結ぶようになる。すると、声のトーンなどで更に相手の人となりがくっきりと見えてくるようになる。やがて商売が太くなる見込みがつく頃には、もう心に垣根はなくなっているのだ。「やはり一回会いましょう」となる。

こういった流れで仕事に結びついてゆく時、たとえ初対面であったとしても旧友に合うような気持になることがある。

初めて会うのに旧友とは可笑しな表現だが本当にそうなのだからしょうがない。こういった経験は一度や二度ではない。

そういった相手に会う時は仕事明けに自然と居酒屋へ向かうことになる。
乾杯は良いものだ。
「ようやく会えましたね。」
チンとグラスを鳴らし、お互いに喉を潤せば、パズルのピースがはまるように息が合うようになる。仕事の様でありながらその一瞬だけはお互いに仕事を忘れるのである。乾杯にはきっとそんな力がある。

大事な時間。
今だからより一層貴重に思える。
また仕事を忘れて飲みたい。最近何度もそう思う。
今は出張を組むのもむずかしいのだから尚更だ。


この変化は仕事だけではない。

プライベートでの交友関係もまたそのように変容してきている。
SNSでの距離の縮まり方もきっと同じだろう。少なくとも私はそうだった。
はじめに言葉があって、お互いの思考のなぞって読み取る。その繰り返しの過程でその人の品位と人柄を感じ、いずれ近づくようになるのである。

SNS上では言葉さえ同じであれば時差のある国をまたいでリアルタイムでお話しすることもあるわけだから、「おはよう」と言えば「こんばんは」と返ってくるなんてことが日常になった。

今だけの流行りなのか今後もそうなのかは分からないがZoomなどのWEBミーティングで飲み会を催すなんてことも大きな変化だったと思う。

時差のある中、ネット空間上で一堂に会して、乾杯をする。
形は変われどもこれも立派な乾杯だ。
素晴らしいことだと思う。
朝も夜も混在しているから、その飲み物はお茶であっても、お酒であっても構わない。もちろんミルクであっても良い。大切なのはあなたに会いたいと思ってくれる人が世界のどこかに必ずいるということだ。

それだけで、乾杯は成り立つんだね。

◇◇◇

人はね、きっと通い合った言葉の先で、盃を酌み交わしてきたのだと思う。

様式も、飲み物も、その器でさえも流転してきたものだろう。
でも、どの時代も人は乾杯で心を潤してきた。

人と会えない日が続くと、ふと自分のグラスは乾いていないだろうかと不安になることがある。でも大丈夫。

言葉を失わない限り、いつかきっと誰かとグラスを合わせることができる。

その時はきっといい音が鳴るはずだ。



#また乾杯しよう


ここのコメントを目にしてくれてるってことは最後まで読んでくれたってことですよね、きっと。 とっても嬉しいし ありがたいことだなー