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読まれるエッセイは描写から始まる

一回でもいい。読まれるエッセイに到達した人間なら誰でも気付くことなんだけど、思うがままにただ文章を書いてもいわゆる人から読まれる作品にはならない。

残酷だが事実である。エッセイとは書き方の形式が自由なだけなのだ。訓練を経てない人間が好き勝手書いても決して読まれる作品になることはない。自由に書くには書くためのルールがある。これはほとんど不文律のようなものなんだけど確かにそこにある。
そんなエッセイのルールを今日は少し紹介しようと思う。

まず、思ったことをそのまま書いてはいけない。

いきなり世間一般のイメージするエッセイの根幹を揺るがすようなことを書いてしまったが、よくよく考えてみてほしい。これは当たり前のことなのだ。

犬をつれて散歩しました。犬はかわいいと思います。

たとえば上の文章を読んであなたはどう感じるだろう。ここでめっちゃ共感しました。涙が出てきそうですという感想を得たならもうここで離脱してもらって結構だ。私から教えられることはたぶんもう何もないだろう。好きに生きたらいい。

別に犬をかわいいと思ってもらうことに問題はない。ただそのままあなたの頭の中の思いを垂れ流しにするなと私は言いたいのだ。

せめて描写の一つでも入れるのが文章を書く者としてのマナーである。

犬はさっさとリズミカルな足取りで歩く。私はさっきから尻尾と肛門を拝んでばかりだ。犬め、こちらを振り返るくらいのことはできないのだろうか?文句の一つでも言いたくなる。

と、ここまで書けば物語のシーンとして成り立つ。
読者もこのまま読み進めようかなという気にもなるだろう。
いや、ちょっと待ってほしい。別に私は小説など書きたくない。エッセイを書きたいのだと仰られる方もいるかもしれない。でもこういった描写の技術がないエッセイはどうしても作文テイストになってしまう運命をたどる。これは覚えておいてほしい。

作文テイストの文章で読まれるのはおそらく知り合いまでだろう。そこから先のフェーズに踏み込むには表現の世界に足を踏み入れなければならない。読みものにならなければならない。

そこに達しない文章は紙だろうとネット上だろうとそこに存在するのに、さも無いものとして扱われるのである。
それは可哀そうではないだろうか。

だから私は文章による描写を勉強しなさいと言う。思ったことをそのまま書くのではない。あなたがその気持ちに至るまでの間、どのようなシーンがあなたの心の中に流れたのか。それを文章として書き出しなさいと言っているのだ。

それだけがあなたの文章を読みものへと変化させてくれる。

描写。それをやり続けた回数だけが本当の意味であなたの経験となる。それ以外のライティングは残念ながら徒労の域を出ることはない。

「犬がかわいい」とそのまま言ってもいいよ。だがそれは描写をしっかり勉強してからだ。

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