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ポケモンで「てんかん」になったときの話。

目が覚めたときには、左上に母親、右側には2人の救急隊員がいた。

一瞬、リアルな夢かと思ったが、どうやら現実世界のようだ。心配そうな母親の顔と、僕になにやら話しかけている救急隊員の声。少しとおくからも人の声が聴こえる。

「受け入れる病院が、近くにありません」

どうやら、僕の身体に異変がおこった、ということまでは理解した。



どうも、アフリカ系男子のナイケルです。

ツイッターにて、このようなツイートを先日しました。

これは、いままでインターネット上では公表していなかった、僕の身体の話になります。僕は「てんかん」という病気をわずらったことがあるのですが、今でこそこうして語れるようになりましたが、当時はまあ大変だったので、あの頃をふりかえりながら、皆さまに「てんかん」という病気について、ご理解をいただけたらと思います。

途中、公にできない話も入っておりますので、有料とさせていただいております。


目次

自己紹介
ポケモンショックにより発症
てんかんとの戦い
てんかんを隠す理由
ルワンダで、てんかん患者と出会う
最後に


自己紹介

初めて僕を知った方のために、ちょっとだけ自己紹介をさせてください。

僕の名前は、内藤獅友(しゆう)。現在、32歳です。
青森県生まれ、転勤族で埼玉、広島、また埼玉と幼少期を転々とします。中学生のころに父をガンで亡くします。拓殖大学を卒業後、東証一部企業に就職するも、お金と地位のためだけに働くようになり、退職を決意。

その後、アフリカと出会い、青年海外協力隊で2012年からアフリカへ。任期終了後、「アフリカと日本をつなぐ」をモットーに活動するNPO法人AYINAと株式会社Africa Networkに入社。現在は、どちらも副代表・副社長という立場で経営しています。

本題に入りましょう。
てんかんとの出会いは、中学校時代にさかのぼります。


ポケモンショックにより発症

中学一年生の冬。

12月中旬、期末テストが無事終了し、得意の数学はクラスでも上位の成績となり、あいかわらず苦手な理科と社会は赤点寸前でなんとか親にも怒られないですみそうだ。

青森生まれだが、さむいのは苦手だ。だから、冬になったら、僕はさようならのあいさつと同時に教室を飛び出して、競歩選手顔負けのスピードで、あっという間に家に帰る。

帰ってきたら、なにをするのか。ゲームボーイでポケモンをやるのだ。ポケットモンスター。英語圏でこのワードをいうと、笑われてしまう(なぜだかはググってください)ということで、海外ではポキモンと呼ばれているのは、突然のトリビアだが、僕は発売当初からポケモンの大ファンで、幕張メッセの大会にいくほど、ポケモンが好きだった。

この日は、火曜日。この曜日だけは、ゲームボーイのスイッチはつけず、さっさと着替えをして、明日の用意をおえて、寝室にある小さなテレビの前に移動する。そう、ポケモンのアニメをみるためである。

基本、僕はアニメよりも漫画派なのだが、ポケモンはゲームが最初で、あとからアニメが放送されていたため、ポケモンに関しては、アニメをみるようにしていた。小学校6年生までは、ポケモン好きの仲間がたくさんいたのだが、中学に入り、まったくいなくなってしまう。それどころか、「中学生でポケモン」はちょっと恥ずかしい印象にまでなってしまった。

オタク呼ばわれされるリスクも承知の上で、僕は毎週のように、ポケモンアニメをみていた。今回は、3Dポケモンこと、ポリゴンが出てきたようだ。コイツの得意技は「はかいこうせん」。まあ、この情報はどうでもいい。事件は、ポリゴンと主人公であるピカチュウが対戦しているときに起きた。

攻撃中、みたこともないような光の連続が、僕の目を刺激した。





目が覚めたときには、左上に母親、右側には2人の救急隊員がいた。

一瞬、リアルな夢かと思ったが、どうやら現実世界のようだ。心配そうな母親の顔と、僕になにやら話しかけている救急隊員の声。少しとおくからも人の声が聴こえる。

「受け入れる病院が、近くにありません」

どうやら、僕の身体に異変がおこった、ということまでは理解した。

まったく状況が読み込めないでいるが、母親が「大丈夫、大丈夫だから」と、声をかけてくれているおかげで、パニック状態からは脱することができった。

「明日、朝一で〇〇病院まで行ってください」

救急隊員のリーダー的な雰囲気がある人からそういわれ、母親に肩を借りながら、ドアから外にでた。そこではじめて僕は救急車に乗っていることに気がついた。

「あんた、白目むいて痙攣してたのよ」と母親にいわれ、そんなバカなと思いながら、記憶をたどると、さきほどのポリゴンとピカチュウの対戦場面でプッツリと脳内電源が切られていることがわかった。

救急車から出て、自宅マンションの方に歩いていくと、父親が待っていた。父以外にも、救急車の音を聞いて、マンションの住民が数名おりてきていた。肩を借りて歩くのを、母親から父親にバトンタッチする。ほぼ担がれているような状態で自宅に帰った。まだ意識がもうろうとしている中で、担いでくれていた父の右手の指から、少し出血した痕が見えた。

家に帰って状況を聞くと、母親は、僕がポケモンを見終わったあとに声をかけたようだが、僕はボーっとした様子で、何も返事を返さなかったようだ。そして、しばらくすると横になって寝ていたので、放っておいたらしい。その後、父が仕事から帰宅し、寝室の様子を見たときに、僕が白目をむいて痙攣をしていた、というわけだ。

どうやら、父は僕が痙攣して舌を噛まないように、とっさに指を入れて守ってくれていたようだ。右手指の出血の謎が解けた。


てんかんとの戦い

翌日テレビのニュースでは、先述のポリゴンの光によって、体調不良を訴える人、そして僕のように脳障害が発症してしまったという事件が報じられていた。僕も両親も、まさかポケモンによって、てんかんが発症してしまうとは、思いもよらなかった。

学校を休み、そのまま朝から、僕と母親は総合病院へ向かった。色々と昨日の状況を説明をし、脳波検査という、脳の神経細胞が発する電流を調べることで、通常に機能しているかどうかの診断をすることとなった。

薄暗い部屋のベッドに横たわり、頭にひんやりとつめたい、最近でいうと腹筋が鍛えられるパッド的なものを頭にいくつか取り付けて、看護師さんの指示通りに検査を行った。

検査がおわり、再度診察室にもどると、

「やはり、お子さんは"てんかん"を発症しておられるようです」

と、正式にてんかんという病名を診断されることとなった。



治療法としては、薬を毎日決まった時間に1日3回飲むこと。そして、毎月、脳波を検査すること。最初は面倒だったり、とくに学校では飲み忘れてしまったりと大変だったが、習慣化させてしまえば、ぜんぜん問題なく実行することができた。

幸い、ポケモンで発症してから、てんかんは再発していないのだが、脳波を測りにいくと、まだ脳波には異常が出続けており、薬は7年間飲み続けることとなった。


しかし、何より大変だったのが、記憶力の低下である。


発症するまでは、僕は記憶力には結構自信があった。まったく意味のないことであるが、いろんな人の住所を記憶していたり、漫画を一度読んだら、セリフの隅々まで思い出せるほどだ。

それが、なんと数字3桁ほどでも、すぐに忘れてしまうようになった。

てんかん発症から3日後に学校に登校した際、数学の授業で方程式を覚えるときに、いつもなら一瞬で覚えられるはずが、教科書を閉じた瞬間に、まったく頭に浮かばなかったのだ。最初はなにが起こったのか、まったくわからなかった。のちに病院でその話をすると、てんかん発症によるものだろうと言われた。

おかげでそれ以降、僕の学校の成績は一気に落ち込んでしまった。

少しずつリハビリをして、なんとか電話番号くらいは覚えられるようにはなったのだが、昔のようにスラスラと記憶ができるという能力は、もう二度と持つことはできないようだった。今でも文字の記憶はとくに苦手である。

しかし、それでも重度のてんかん患者は、僕とは比べ物にならないくらい大変な思いをしていることを知った。度重なるてんかんの発症や、記憶力の低下以外にも、集中力の低下、手足の痺れなども起こる方もいるのだ。


さらに、てんかん発症から約一年後、父親がガンを発症し、あっという間に亡くなってしまった。


だがそれが、僕に強く生きるためのスイッチにもなった。

親父は死ぬ間際に、自分のやりたかったことに挑戦しないで諦めたことを後悔して泣いていた。僕はあやうく、てんかんという病気を発症したからという理由で、人生に希望を失いかけていたが、まずはいったん挑戦してみることをモットーに決めた。

高校では、脳には決して良くなさそうなラグビーをやり、大学では、光をたくさん浴びることになるであろうバンド活動なども、医師や親とも相談しながら始めた。幸い、てんかんを再発することはなく、挑戦を続けることができた。

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人生賭けてアフリカで活動中ですが、ご飯を食べないと死んでしまいますので、いただいたサポートは僕の燃料として大切に使わせていただきます。