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玉響(タマユラ) イイ・ヤシロ・チ⑪

出歩くとよく時間や道を尋ねられ、観光地などではカメラを託されて写真を撮ってくださいと、頼まれる質である。

のほほんと暇そうなのか、断りそうになさげなお人よしに見えるのか?どちらにせよ、他人様に警戒されない様子なら、悪くはないと思う。そして、往来で何かしら難儀する人に遭遇しやすく、その子の自宅から行方不明になっていた幼児を、よく利用する駅の構内で拾ったこともある。無事に保護者の手に戻って本当に良かったと思ったことだ。

実は、知らない誰かのお手伝いができる時、白カルマを積ませていただき、ありがたい!とわたくしは心密かに快哉の小躍りをしている。日ごろの至らなさによる自分の失点を取り返す絶好のチャンスである。情けは人の為ならず。

ただ、実は写真係については、少しく緊張する。最近はスマホなので、その場で確認できるけれど、インスタントカメラの場合、思わぬ写りになっている可能性も無くはない。ビックリされるような写真が出来上がっていても後の祭りで、申し訳ないと思うのだ。なぜならわたくしは、そうとは狙ってもいないのに「不思議な感じに」写ルンですタイプだから(汗)

そのような写真を撮ると自覚ができたのは、初めてのお伊勢参りであった。

インスタントカメラを携えて、人生初の伊勢参り旅に、わたくしは浮かれていた。オーラの泉もテレビで話題になっていた当時、江原さんイチ押しの月読宮にお参りした。まずは鳥居前で友人を雨の中撮影し、雰囲気の良い参道を歩いてたどり着いた拝殿で、さあ手を合わせ、と思った瞬間。フラッシュのような彊い光が自分に向かって放たれた、と思った。落雷か?と恐怖さえ感じたけれど、雷鳴もなく、感電もしない。気のせいかと同行者の方を向くと、彼女は「すごく光ったけど何?」と言った。見たのは自分だけではい、何かが起こったと狼狽した。わたくしたち以外は誰もいないので、カメラのフラッシュのせいでもなく、其処に明るい照明器具もなかった。

不思議すぎの大緊張状態で参拝し、持参の「写ルンです」をカチッと鳴らして写真を撮った。後にも先にも光を見たのは、その時だけだった。引き続き参拝した内宮は穏やかに参拝できて、無事初めての伊勢参りは楽しく終えた。

ところが、帰宅後に出来上がった写真に仰天した。月読宮鳥居前の友人は無数の〇に囲まれて映っているし、荒宮の前にも大きな〇が浮かんでいるし、伊勢神宮の内宮の中の写真もあちこちに大小の〇が表れていた。それまで一度も目にしたことのない写真だった。雨粒のボケた反射だと考えたが、他の場所での写真には雨中でも〇は写っていないことが釈然としなかった。

「タマユラさんだよ」と教えてくれたのは、不思議なことに詳しい友人だった。子どもたちが集まって楽しく盛り上がっている室内でも撮れるよ、とのこと。タマユラ?単語で調べても、万葉の言葉で、瞬間という意味としか解説されていない。

 https://www.weblio.jp/content/%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%82%86%E3%82%89

どうも知りたいこととはズレている、と改めて「写真」を加えて検索し、「たまゆら現象」や「オーブ」という言葉を知った。

http://fushigi-chikara.jp/sonota/10216/

そうか、このように解釈されることがらなのだと理解し、さらに考えた。わたくしは、いわゆるスピリチュアリストではなく、できうる限り合理的に物事を考えたいと願っている。なので、さらにプロの写真家の方の解説も追いかけてみた。

https://www.photo-yatra.tokyo/blog/archives/22247

なるほど、である。人間はついつい不思議なお話を追い求めてしまうけれど、カメラの仕組みや撮影技術においてのオーブ写真の成り立ちを知ると、現実の世界にしっかりと足を着地できる安心感も得られる。自分としては全くテクニックを自覚することもなくシャッターを切っていたが、意識すればだれでも撮影することは可能な写真なのだ。

こうなると、質の悪いサギなどにこの手の写真の悪用で騙されることも気をつけなくてはならない。

それでも、理屈を知ったうえで、わたくしは、今も美しいオーブ写真を撮ることを楽しんでいる。快晴の参道でも美しく大きな○を偶に撮影する。もちろん、それを何らかの啓示として崇めたり、必要以上に特別視してはいない。

ただ、イヤシロチ(聖処)に赴いた時、その場の空気が澄む感覚や、急変する天候や光の具合、参道や磐座に太陽光が降り注ぐ神々しいタイミングに立ち会う瞬間は奇跡的だと思うのだ。プロのように日の出待ちなどのベストショットを狙って時間と場所を厳選するわけもない。面白い写真を撮ることが目的なのではなく、その聖処に身を置き、祈る(イをノル)ために参る。一期一会の祈りの瞬間。その場所の記録として、其処の空間状態がいくつもの条件を揃えて画像に現れるモノを、何かしらありがたい存在からのメッセージと受け取るようにしている。

わたくしは至極平凡な人間であるから、解釈も特別複雑なものではなく、「よくできましたのハンコ」くらいな確認作業である。

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写真のプロではもないわたくしが、オーブ現象や、いわゆるゴーストの写真などを得られるのは、様々諸々の物事のタイミングが重なり合った瞬間に自分が存在したからだ。写真はその記録である。それをどのように受け止め、意味付けしていくかが、わたくしの生きる道に反映していくはずだ。

人生はそれぞれの人のストーリーである。その理解をどうするかは全くの自由を与えられている。その解釈次第で、後のシナリオの展開は大きく変わっていくだろうし、主人公の人生に対する肯定感も180度転換するほどの影響を与えるかもしれない。

そして、月読宮で撮影した不思議な写真一枚が、わたくしを聖処(イヤシロチ)巡りへいざない、このnoteを書き込む現在の瞬間を創り出したのは、まごうことなき事実である。

結局、月読宮で自分の目に見えた光はいったい何だったかは謎のままである。アレは、オーブやゴースト、トリックの写真でもなかった体験だった。あの光に導かれ、惹きつけられ、拓かれた末の聖処(イヤシロチ)巡りの旅が、わたくしを「今」に運んだのである。

本来の「玉響」の意味のごとく、人の一生は宇宙の時間の中ではほんの一瞬だ。その短い時間の中にどれほどのことを体験し、感じるか。タマは、たましいに通じ、魂が揺れることこそが人生を豊かに彩る、まさに「タマユラ」なのかもしれない。聖処(イヤシロチ)には魂を揺さぶる何かしら大切なものごとがあるようで、どうしても魅かれてしまうわたくしである。

ステイホームの昨今、巡り旅が難しいときは、神職の方々のユニット、天地雅楽のメロディ「玉響Ⅱ」で和心を癒やすことも、タマユラになるか。

https://www.youtube.com/watch?v=re_ZVxu1tgo

このように考えを巡らせると、一つの言葉でありながら、幾重もの意味合いをもつタマユラ。此処で出会えた皆様が、是非ともタマユラな毎日を大切にお過ごしくださるよう、心からお祈り申し上げるばかりである。

最後までお読みくださり、ありがとうございました。

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