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狛犬(神使) ィイ・ヤシロ・チ⑬

参拝時、神社のマスコット的な存在、狛犬に自然と意識が向くのは、それらからの視線を感じて見返してしまうからだろうか?

左右に並んでいても、それぞれ別種?というのは、意外と知られていない。口を開けている(阿形)のがオスの獅子で、閉じている(吽形)のがメスのカイチであり、メスには角がある、というお話は国宝の木彫の狛犬を見学した際に、丹生都比売神社の宮司様から解説いただいた。

阿吽というのは仏教の影響だろうし、雄雌は陰陽思想からくるもの、角隠しという花嫁装束から角があるのはメスとするなど、長い間に受けた、様々な文化の影響を形や意味合いに加えて凝集された造形芸術なのだ。文化人類学的な視点からも、大変に興味深い狛犬である。日本中に無数に存在する狛犬たちのバリエーションはとても豊富で、その作法は在るようでありながら、かなり融通がきくようでもある。アレンジ豊かな狛犬ワールドの魅力の沼にドップリはまる人は、少なくなさそう。そういう人のためのテキスト的書籍を見つけた。

https://books.tanupack.com/shinkomainugaku.html

この本を携えて神社巡りをすると、楽しくより一層狛犬愛が深まることだろう。

ところで、実物の狛犬に直面すると、様々な素材やスタイル、表情や仕草で、参拝者にその個性を余すことなく発揮して見せてくれる。カワイイ系もあれば、本来の威圧感をしっかりと伝えてくる睨みと屈強そうな筋肉隆々のガードマンタイプなど。昨夏わたくしが出会ったこの狛犬さん↓は、その両方の要素を兼ね備えて良い味を放ちながら、暑い夏の昼下がりに見張りのお務めに懸命に励んでいた。視線の様子から、元は高い台座の上に座っていたのだろう、ザ・番犬、というワードが思い浮かんでクスっと笑いを誘う。

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特別優れて巧みに刻みだされた狛犬は、長年神前を守りつつ人の仔の想念を浴びることで、魂を持つようになるのかもしれない。作り手の入魂の技と、数多の参拝者が運んでくる切実な願いや畏れ、敬い、喜びなどの感情が放たれる場所に在ったことが相まって、命が宿る、そんな魔法な話が出来上がるのは自然な成り行きだろう。

天橋立にある籠神社の狛犬は、生き物よろしく夜遊びに出歩いてしまうので、前足を切られてしまう逸話が残る。そして、その証拠の痛々しい傷を見たわたくしは、お役目放棄の代償は大きいな、と気の毒に感じたり、石造りの神使を成敗した武術者の高い技量を誇るための武勇伝なのかと、怪しんだりした。

https://blog.goo.ne.jp/pzm4366/e/49c4af230bfe0d2677faddf05bd20823

 そうするうちに、狛犬ではないけれど、夜に社を出る神獣として、以前参拝した熊本の素晴らしい古社、青井阿蘇神社の茅葺の楼門天井に施された雌雄の龍図を思い出した。それらは、夜中に水を飲みに社外へ連れだって飛んでお出かけするというもの。こちらは自由を許されているらしく、退色しながらも躍動感伝わる水神らしい龍の姿が、わたくしの記憶にも刻まれている。

https://mochatabi.com/aoiasojinjya/

ところで、伊勢神宮には狛犬が居ない。そして神宮衛士という警備の職員が配置されている。偶像崇拝を排するという意味もあるのだろうか?なるほど神苑はスッキリと整い、人間の警備の監視と護りが隅々に及んでいる。

しかし、わたくしには、狛犬のいる空間の和みのほうが好ましく、その社を大切に想う人の仔の温かな心映えがその空間に満ち溢れ、同時にその為に見えない護り(愛)が施されてるような佇まいに心の安らぎを感じる。

そして、狛犬ならぬ狼が護る社もある。

http://musashimitakejinja.jp/history/oinusama/

このような犬神の記述に触れた途端、狼は縄文の頃から山の神の神使だったろうとわたくしの想像の連鎖がまた発動していく。他処でニホンオオカミは鹿の敵として藤原氏から多数が討たれたという記述を見たこともあった。それが本当かはわたくしにはわからないけれど、鹿で有名な奈良県で、山深い吉野に最後のニホンオオカミの目撃記録の石像を見た時も、胸の奥がしくりと痛んだことも思い出す。

オオカミは大神に通じる。本来は狼が山の女神の神使いであり、縄文からのイヤシロチを律儀に守っていたのかもしれない。それが、外来の狛犬や獅子、稲作に連想される狐に取って代わられ、その深く長いであろう歴史が今や殆ど埋もれ消されてしまったのかもしれないと、妄想をたくましくした。

夕刻に和らいだ陽光に照らされながら、尻尾を振り立てて勇ましく社を守る狼に向かい合った養父神社の参拝での光景が蘇る。

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狼が健気に社殿を守る社は、風雅で落ち着いたイヤシロチであった。この養父神社では、稲を食害する鹿や猪を駆逐する良い獣として扱われているというのも面白い。

ふと、人間の営みが時代を経て変遷するに従い、その時々の都合で生き物たちを駆逐したり大事に扱ったりする身勝手さがドンドン過ぎるようになってはいないか、という考えが浮かぶ。ニホンオオカミが辿った歴史から立ち上がってくるように。自然をコントロールしようとする不遜な態度、その延長線上に人間同士でさえもお互いを支配・管理しようとする行く末が連なっているのではないか。

それは人間の分際にはたいそう過ぎたことだと、縄文の神に仕えていたオオカミから戒められている気がしたのだ。一見、支配・管理に成功したように思えても、それは宇宙に流れる時間のスケールでは、ほんの瞬きほどの短さだ。ニューヨークのような摩天楼でさえ、人が住まなくなればアッという間にジャングルに戻ってしまうと聞いたことがある。何を必死に無駄にあがいているのだろうか、と今の権力を持つと言われる人間のふるまいを冷ややかに眺める自分を認めてしまった。

支配・管理したがる欲は、さほどに満たされようのないシロモノなのだ。かつての人の仔のようにエネルギーの高いイヤシロチで、力と知恵を合わせあいながら共に生きるための方策を探ること。支配や管理を超えて、自然の理により近い道を求めること。そのための法治や正しさを忘れては、わたくしたち人間に先はない。

狛犬の起源とされるカイチは、中国の瑞獣だ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8D%AC%E8%B1%B8

今まで、このような幸せをもたらす存在とは知らず、わたくしは、小さな愛らしい翡翠のカイチをお守りにして持ち歩いていたことに巡り合わせの妙を感じる。カイチが諭してくれる、「嘘のない公正さ」を求める気持ちを忘れずに、また聖処(イヤシロチ)を巡りたい。カイチの末裔の狛犬たちに出会いに。

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