抜天戦侠歌①

グランドプロローグ:野獣は抜天に咆哮し、浄瑠璃楓は知られざる同族と邂逅する


 その日の抜天島は、大荒れだった。朝から稲光が鳴り止まず、空は常に黒雲を蓄えていた。しとしとと雨が降り続き、ほとんどの生命体が物陰に潜み、時が過ぎるのを待ちわびていた。本土から南方一千海里の流刑島。流人・罪人・いくさ人が戦闘蠱毒を織り成すこの島には珍しい、奇妙な平和が訪れていた。

 しかし、島のある一点においてのみは、様相が違った。「ぬの十」地区。空から見ると「ばってん」を描く、抜天島の南西端。身の丈二メートル以上、貫目にして百キロはゆうに越える大男が、立ったまま骨付き肉を貪っていた。

 その傍らには、屍体の山が積み上げられていた。一つ一つは、それほど高くない。せいぜい大男の半分ほどだ。しかし山そのものが多い。一つ二つではなく、十以上。二十にも及びそうなほどだった。中には、白骨の山と化したものさえあった。腐臭と鉄の臭い、屍体にたかる蛆と蝿が、さらなるおぞましさを添えていた。

 げえええぇぇぇっっっぷ……。

 大男がげっぷを解き放つ。屍臭に負けないほどの、むせ返るような臭いが立ち込めた。同時に、しゃぶり尽くした骨付き肉を投げ捨てる。わずかな肉の欠片さえ、貪り尽くしていた。
 喰っていた肉の正体は……あまりにおぞましく、ここには明記できない。ともかくこの大男は、人を殺し、死骸と骨を積み上げる。恐るべき殺人者だ。

「何奴」

 大男が、野太い声を放った。ただしその先には、誰もいない。では幻覚か。否。大男は獣の眼光でそれを捉えていた。何らかの仕掛けで、風景に溶け込んでいる存在を。
 大男は、野人のようないで立ちであった。肩のあたりまで伸び放題のボサボサ髪に、髭ともみあげが一体化していた。
 褌一つに、胸毛と脂肪、そして筋肉に覆われた肉体。帯刀はせず、力士めいて己が肉体を誇示していた。一見肥満体に見えるが、一度動けば疾かった。

「ぬんっ!」
「くる」
「ちっ!」

 手近な骨を掴んで空間を斬る。一見不可思議な行為。だが、かまいたちめいて近くの岩が斬れた。二つの声が上がり、ここで子連れの男が初めて姿を見せた。

「チィ。チョコマカされたら剣閃も当たらんか。見えてるのはそこの童かぁ? 命拾いしたなあ、オイ」

 大男は、子連れ男を嘲った。この大男は、常にこういう調子だ。己の腕に、確信を抱いている。事実、彼の業前は尋常のそれではない。

 彼の放った技は剣閃――体内で練り上げた剣気、あるいはチャクラと呼ばれるものを飛ばす技だ――である。戦闘蠱毒と収斂進化の先に立つ抜天のいくさ人にしてみれば、児戯の領域に属する技だった。

 しかし、彼が持っていたのは骨である。短剣ですらない。刀ならざるものを通じて空を薙ぎ、剣気を飛ばす。上位の抜天いくさ人ですら、至難の業である。だが彼は、さらなる技を見せつけた!

「ハッ!」
「みっつ」
「ぬうう!」

 見よ! 振りは一回にしか見えぬ。にもかかわらず、三つの剣気が子連れ男の服をかすめた! 当然服は裂け、子連れ男が無様に転がる。悔しげに歯ぎしりをする傍らに、おかっぱ頭の童子が寄り添い、大男を睨みつけた。

「弱敵」

 大男は子連れ男を侮蔑した。同時に、童子をぎょろりと、睨めつけた。ちょうど童子の視線に、合わせる形となった。ここで初めて、大男は両者が同じ雨合羽をまとっていることに気がついた。これが、不可視の仕掛けか。

「童、名前は」
「かえで。じょうるり、かえで」
「むうっ!」

 甲高く聞かされた名に、大男は目をひん剥いた。名はともかく、姓には聞き覚えがあった。彼がかつて、そのほとんどを鏖殺した一族、浄瑠璃一族の名だった。

「思い出したか、野獣牛兵衛」

 立ち上がりながら、子連れ男が言う。大男は、久しく呼ばれていなかった己の名を聞き、子連れ男を睨みつけた。しかし一度嘆息し、今度はまっすぐに男を見た。

「名乗れ」
「我流、剣兵衛」

 名を聞かされて、獣兵衛は三歩退いた。己のそれと似たような名には、共通の意味が存在した。幕府が生み出した、非道の結晶。人間に遺伝子を埋め込む、魔道の研究。その忌み子。

「……ヌシも、亜種柳生か」
「いかにも」

 剣兵衛と名乗った男は、雨合羽と諸肌を脱いだ。果たしてその身体は、鋼に近い姿と成り果てていた。

「この身、すべて刃金。我が手足、すべからく刀」
「おお、おお。おお。殺さねばならぬ。真の柳生として、ヌシらはすべて殺さねばならぬ」

 牛兵衛の顔に、狂喜が刻まれた。おお。今こそ我々は、この獣の如き男の来歴を知らねばならない。かつては幕府お抱えの流派でありながら、時の流れによって埋もれてしまった柳生新陰流宗家。彼らが生み出した最後の天才は、一族の狂気による産物だった!

「一族第一の剣客、柳生十兵衛三厳様。かのお方の骨を煎じて、赤子に飲ませれば。もしやしたら……!」

 およそ正気とは思えぬ長老の思いつきを、一族は即座に実行へ移した。墓所は暴かれ、骨は砕かれ、煎じて乳に混ぜられた。そして真実、天才が生まれた。生まれてしまった。

 獣の如き気性を持った、一族史上随一の荒武者。名を柳生獣兵衛。疾風怒濤、電光石火。銃火を前にしても動ぜず、むしろ膾に斬って捨てる強壮ぶりは「関ヶ原の死神」とも呼ばれた。とにかく無類の剣豪だった。骨にあやかって付けられた名に、恥じぬ働きだった。

 幕府はそこに目をつけた。ただでさえ柳生一族史上最強と断言してもいい剣豪である。そんな彼に、抜天島から採取してきた遺伝子――歴史にあやかり「Y《柳生》遺伝子」と呼称することにした――を組み込めばどうなることか。柳生に柳生をかけ合わせれば、十倍、百倍の柳生になるのではないか。浅はか、あるいは願望に満ちた実験行為は、なんと成功した。成功したが、その後が最悪だった。

「許さぬ、許さぬぞぉ! ウヌらは柳生を穢したぁ!」
「ダメです! 物理拘束、浄瑠璃拘束、ともに保ちません!」
「退避、退避ぃ!」
「血をもって償えいィ! ヌシらの肉で贖えいィ!」

 Y遺伝子の被験者たちを率いた幕府軍が駆けつけた時には、吐き気を催すような光景が広がっていた。実験を推進した浄瑠璃一族の者どもは鏖殺され、研究者のほとんどが死に絶えていた。狂気に堕ちた獣兵衛は、彼らの肉や臓腑を一心に貪っていた。

 かくして、獣兵衛は『柳生』の名を失った。『野獣牛兵衛』という忌み名を与えられ、抜天への流罪となった。死刑からの罪一等減免は、関ヶ原戦線での功績に免じてのことであった。

 浄瑠璃一族もほとんど同様だった。生き残りの一族が次々とあぶり出され、幼童以外のほぼ全てが死罪、もしくは抜天流罪と相成った。これは実験の存在を隠蔽するためでもあった。
 実験に反対し、一族から放逐されていたある親子も発見され、これもまた抜天流罪となった。このことが後に数奇なめぐり合わせを生むのだが、まだそれを記す段階ではない。

 かくして十年の時が過ぎ、今に至る。その間牛兵衛は常に、正気と狂気の狭間にまどろんでいた。
 Y遺伝子の影響は正しき柳生の血をもってしても拭えず、己の体を保つには人体を構成する血肉と臓器が欠かせなかった。欠けば不定の狂気に陥り、肉は崩れ、醜悪な怪物と化す。今なお信ずる『柳生』の名にかけても、それだけは許せなかった。

「ヌシらはすべて殺さねばならぬ。Y遺伝子などというふざけたものの産物。柳生ならざる柳生ども、すべからく鏖殺する。幕閣居並ぶ江戸城門前に、首を揃えて晒してやる。それをせずしては、死んでも死に切れぬ。この島も同じぞ。ヌシのような生物を生み出した時点で、運命は定まったのだ」
「ならばこの十年で為せたであろう」

 牛兵衛の叫びを、剣兵衛は切って捨てた。事実、牛兵衛にはそれを成すだけの力がある。言い訳でしかない。

「常時正気でいられるのならば。手足の腱を切られていなければ。我は流された直後にそうしたであろう。即座に港へ押し入り、すべてを殺して船を奪ったであろう」

 牛兵衛は言葉を重ねた。剣兵衛の渋面が、さらに苦々しさを増す。だが、牛兵衛は止まらなかった。

「我は剣を奪われ、そして飢えた。餓えの果てに、一度は怪物になりかけた。おぞましかったぞ。肉が崩れ、牙が生え、人を襲い、喰らわんとした。幸い正気に戻れたが、今でも思い出せば肌が粟立つ」
「なれば割腹し、因業を絶つべきではなかったか?」

 剣兵衛は、苦々しい顔のままに問うた。牛兵衛は首を横に振り、己の境遇、自己弁護を訴えた。

「ならぬ。我の中に獣あり。自決ごときでは死にはせぬ。誰ぞに斬られるか。はたまた己が堕ちるか。しかしてどちらも、復讐にはならじ」
「むう……!」
「我とおヌシ。どちらが生存《いき》るか死滅《くたば》るか」

 手にした骨を、だらりと下げる牛兵衛。気圧される剣兵衛は、とうとう刀を抜いた。

「いざ」
「くるよ」

 牛兵衛の声に、童女の声が挟まる。再び三度の剣閃をぶつけんとした、その起こりを抑えられた。牛兵衛は思わず唸った。獣のそれに、似た声だった。

「俺は弱敵だろうが、この童は強いぞ」

 剣兵衛の声。牛兵衛はもう一度唸った。

「噂に聞いていたが、この娘は『透かし』おる。浄瑠璃の者が持つ、我らには知り得ぬ天賦の才覚よ」
「抜かしおる」

 嘲る言葉に隠して、牛兵衛は構えを整えた。抜骨居合の構え。骨に鞘はないが、抜刀と同義である。警戒の目は、かえでと名乗った少女へ向いていた。己以上の『感知』は、そうそう見受けられるものではなかった。

 ここで三者は、ついに無言となった。牛兵衛は剣兵衛を斬れる。斬れるが、生半可な動きではかえでに起こりを『見』られるだろう。しかし剣兵衛には腕が足りぬ。千載一遇の好機でもなくば、その刀は届かぬであろう。

 かくして、一足一刀での攻防が生まれた。じりっ、じりっと微動を繰り返しながら、互いに好機を窺い、かえでは牛兵衛を見据え続けた。雨はしとどに三者を打ち据えるが、誰一人として意に介さなかった。だが一つの雷鳴が、攻防に終止符を打った。

「ひっ」

 けたたましく響いた雷鳴に、かえでが身をすくませた。童女故の、致し方ない反応であった。だが獣は好機を逃さなかった。骨は剣気によって刀の如く伸び、剣兵衛を斬り裂かんとした。しかし忘れてはならじ。剣兵衛の身体は、鋼のそれと化している!
 何者のものとも知れぬ、悪辣なるY遺伝子によって!

 ガギンッ!

 果たして、鈍い音が剣気を止めた。剣兵衛、無事である。牛兵衛は一度は瞠目し、後に息を吐いた。なんのことはない。剣兵衛の身体が鋼である。それだけだ。骨では斬鉄を為せなかった。それだけだった。

「オオオッ!」

 剣兵衛の叫びが、雨中に響いた。一度は覚悟した生命を、奮い立たせる叫びであった。刀を大仰に振りかぶり、振り下ろす。速い。速いが、それだけだった。剣気もなくば、策もない。ただの一撃だった。

「弱敵」

 牛兵衛が再度、剣兵衛を嘲った。牛兵衛の刀が、剣兵衛の一閃を受け止めていた。

「そんな」

 童女がうめいた。彼女は、牛兵衛の愛刀、その畏るべき真実を目の当たりにしていた。すべては、彼女が目を背けた雷鳴にあった。

「我が剣気をもってすれば、造作もなし。童、慄いたか。これが【村正・雷】よ」

 牛兵衛の愛刀は、雷が形を成していた。否、より正確には刀が雷とともにあると言うべきであろうか。すなわち、彼の剣気が雷を、愛刀を呼び寄せたのだ!

「ぬううっ!」

 攻め手であったはずの剣兵衛が震えた。【村正・雷】から稲光が走り、剣兵衛を苛んでいた。引けば好機は喪われ、さりとて攻めるも能わず。ここに至って、ついに剣兵衛は大悟した。

「なるほど。己では勝てぬ」
「今になって悟るか。幾度も慈悲は与えたぞ」
「で、あろうな。俺が愚かだった」

 剣兵衛は刀を捨て、大きく飛び退いた。かえでが名を呼ぶ。呼び返す。

「俺が止めるゆえ、生き延びよ!」

 かえでが駆ける。牛兵衛が獣じみた速度で跳ぶ。だがその前に刃金が立ちはだかった。今や剣兵衛は刀そのものとなっていた。手足二十本の指、さらには腕と足のすべてが刃となった。

「ギエエエイ!」

 絶叫を添えて振り下ろされた両腕に、牛兵衛の足が止まる。剣兵衛はそこを逃さず、慣れぬ足技に打って出た。腕を引き、右の足を蹴り上げる。しかし牛兵衛は仰け反り回避からのバク宙で難を逃れ、十歩の間合いに逃れて着地した。鼻を擦れば、血がわずかに指を濡らした。
 牛兵衛は眼前の敵を睨めつけた。両腕を広げ、前傾姿勢。荒い息。手足二十本の刀が、【村正・雷】からの稲光を反射し、輝いていた。

 牛兵衛は一瞬逃げた童を思い、すぐに切り捨てた。もはやどうでも良かった。生き延びればまた出会う可能性はあるが、抜天ではそれさえも幸運の極致と言わざるを得まい。そんな運否天賦よりも、目前の獣が先だった。

「スウウウ……」

 牛兵衛は息を吸った。脇構えからさらに捻り、村正を隠す。柄を握る手はあくまで自然。長きに渡って染み付いた剣術が、狂気を得てなお、己の内に収まっていた。

「ウオアアア!」
「断ッッッ!」

 両者が動いたのは、ほぼ同時。否、牛兵衛がかすかに遅れた。刀の獣は跳ね、上から襲い掛からんとした。しかしその時、剣兵衛は見てしまった。出遅れたはずの牛兵衛が、満面の嗤いを見せている!

「オンッ!」

 次の刹那。牛兵衛の一念が、剣兵衛の命脈を絶った。剣気、雷、そして村正。三位一体の豪剣が鉄を斬り、右下から斬り上げ、両断した。

「がっ……」

 剣兵衛は三度斬られた。まず剣圧に打ち据えられ、肉体に痕が生まれた。続いて剣閃に斬られ、深い手傷へと変わった(ここで彼の生命は尽きた)。そして最後に、刀そのものによって両断された。

 二つに割れて地に落ちた剣兵衛。その身体はY細胞の持つ自壊作用によって溶解し、骨さえも残らなかった。

「……鉄では、我も喰えぬわ」

 刀を振って血を拭うと、【村正・雷】は稲光を発して消える。それきり牛兵衛は、この敵への興味を失った。

 *抜天戦侠歌*

 剣兵衛に促されてから、どれだけの時が過ぎたであろうか。浄瑠璃楓は、ただひたすらに逃げていた。とうに息は切れ、足の履物は千切れ、皮膚からは血が溢れていた。目に涙を浮かべ、汗と泥まみれになり、それでも必死に、足を動かしていた。

 まだ十と一でしかない童女が、ここまで雨中決死の逃亡を繰り広げるのには、理由があった。彼女には『見えてしまう』。そこかしこの物陰に、『その手の趣味』を持つ罪人が隠れていた。剣兵衛がいなくなった以上、楓は彼らにとって絶好の獲物にすぎなかったのだ。

「あっ!」

 疲れた足がもつれ、楓は地面に転げた。道中で合羽を捨てていた童女は、ついに和装までもが泥にまみれてしまった。尾けて来ていた趣味連中が、ここぞとばかりに飛び出して来る。楓の命運は、ここで尽きてしまうのか?

「へへへ……」
「お嬢ちゃぁん」
「お家に入ろうやぁ……。悪いようにはしねぇからさぁ」

 おお……なんと醜いさま……黄ばんだ歯ぐきに無精髭、服も着古しの罪人どもがのたりのたりと近付いてくる。雨であろうが、お構いなしだ。

「ひっ……よ、よるな……!」

 腰を抜かしたのか、楓は泥道を這いずり、逃げた。もはや服を気にする余裕もない。意気上がる連中とは、対象的な有様だった。

「よーるもんねーだ!」
「ゲヒャヒャヒャ!」
「ヒャッハァ! 本土渡来の、上物だぁ!」

 二人、三人。下卑た男たちは、いよいよ楓に触れようとしていた。しかし。

「雨ん中っだっちゅうのに、お盛んなことで」
「んだぁ?」

 不意に、若い男の声がかかる。男どもの一人が、声の方向を見る。明らかに彼らとは異質な男が立っていた。
 蛇の目傘と、白地に漢字の書かれた着流し。無精髭に、後ろで馬の尾めいてくくった長髪。風体は雑を煮詰めたような姿だったが、まとう空気が異なっていた。目は淀んでおらず、立ち姿にも芯が通っていた。

「テメエは……」
「義太夫。まだまだ若輩、駆け出しのいくさ人だ。それよりも……一人のおなごに、大の大人が寄ってたかって。恥ずかしくねえのかい?」
「ぬ、抜かせっ!」

 男たちは短刀《ドス》を抜いて義太夫へと襲い掛かる。だが義太夫は一人目をかわし、二人目を転ばせ、流れるように童女の近くへと位置を移した。興奮の消えた男どもの足が、ジリッと下がる。義太夫は未だに刀を抜いていない。朱色の柄が、雨中にあっても鮮やかだった。

「まだやるかい?」

 義太夫は涼しい顔で男たちを見た。男たちは一、二回互いに目配せをした。そして。

「ヤるに決まってんだろゴルァ!」
「上物抱けりゃ、死んでもいいわぁ!」

 一斉に泥をはね、義太夫を包むように襲撃した。しかし彼らは。

「ごべぇっ!?」

 義太夫まであと一歩のところで、まとめて吹き飛ばされた。なにが起きたかわからずに、彼らはみぞおちを押さえ、悶え苦しむ。真実を目にしたのは、楓ただ一人だった。

「え……」

 か細い声を上げ、義太夫の背を見る楓。彼女はたしかにこの目で捉えた。義太夫がかすかに鯉口を切った。その瞬間に、男どもの人数だけの剣気が撃たれた。みぞおちを叩いた。彼女には、わかってしまった。幼き日。母から教えられた、一族の天禀。

「楓。浄瑠璃の一族はね、天からの贈り物が授けられてるの」
「かあさま。それはなあに?」
「普通の人には見えないものが見えたり、扱えないものが扱えたりするのよ。あなたにはその目。遠くにいらっしゃるお父様には、人を見えずして縛る力。そういう、少し不思議な力があるのよ」

 幼き日の記憶が一気に噴き上がり、楓は落涙した。男どもが逃げていく中、楓は微動だにせず、義太夫の背中を見つめていた。大きくはないが逞しく、心強い背中だった。

「お嬢さん、大丈夫かい」

 義太夫が己を向いて、楓は一度目を背けた。自分の姿が、ひどく恥ずかしいものに思えたのだ。だがそれでも、楓は己に強いて尋ねた。真っ直ぐに見上げた。一つうなずき、尋ねる。

「あなた、名前は」
「義太夫と名乗ったが」
「名字が聞きたい」

 義太夫は耳をかっぽじった。一度蛇の目傘を少女にかざし、その上で問い返した。

「人に名を聞く時は、自分から名乗るのが筋だ。親から聞かされなんだか?」
「聞いた。ごめん。じょうるり、かえで」
「!」

 義太夫はそこで一度、天を仰いだ。雨は降り続いている。空は黒い。雷こそ収まったものの、まだまだ降るだろう。『運命』という言葉が、雨に変わって降り注いでいるようだった。

「……俺の名字も浄瑠璃だ。浄瑠璃、義太夫という」

 師父、あるいは養父に言われた禁を破る。理由はただ一つ。この楓が、同族の者だからだ。義太夫は泥にまみれるもいとわず、少女に手を差し伸べ、背負った。

「服が、よごれる」
「構わん。ここでお嬢さんを逃がすと、俺がある人に怒られるんでね」
「とじこめるの?」
「そうじゃない。ちくっと話をせにゃならねえんだ。もっとも……」

 義太夫は一度言葉を切り、再び天を仰いだ。そしてため息を吐き、言葉も吐いた。

「ひとまずねぐらへ行って服を変えてからだ。身体も泥まみれだろう? 美人さんが、台無しだぜ」

 返事は小さく、「ん」とだけ返って来た。

 *抜天戦侠歌*

 抜天島の闇が深まる頃。雨はようやく止み、海も穏やかとなっていた。その間隙を突くように、一艘の小早船《ボート》が、流人を受け入れる港へと滑り込んだ。船が港に係留されると、一人の男がそこから飛び出し、すぐさま島のど真ん中に建つ崩れ落ちた塔――島では【社】と呼ばれる――へ駆け込んでいった。

「見たか」
「見たぞ」
「小早じゃな」

 海が見える小高い丘の上、三人の老人が言葉を交わし合った。いかなる助けによりてか、闇にあってなお、その目は爛々と輝いていた。

「駆け込みぞ」
「使者か」
「葵紋じゃった」

 三人の造形は非常によく似ていた。三つ子のようでもあり、別人のようでもあった。

「珍しい」
「珍しいことが続いたぞ」
「さては凶事か」
「知らぬな」
「知らぬぞ」
「ならば吉兆か」
「あらず、じゃな」
「あらぬぞ」
「わからぬか」

 順繰りに言葉をぶつけ合う三人。しかしよく見れば、順番はほぼ同一であった。

「わからぬな。世のことは並べてそういうものじゃ」
「一寸先は闇と言うでの」
「ふむ。ならば動くか」
「動くぞ」
「大きく動く」
「ほうか。動くか」

 ここで一人が背を向けた。この場でのことは、これで終わりに。そういう意図が滲み出ていた。

「動くぞ。南の海に相応しき荒波じゃ」
「乗り切るは誰ぞか」
「誰かのう」
「知らぬ。荒波の世では、予測さえもままならぬ」
「ならぬか」
「なら仕方ないの」
「そうよ。戦と侠《おとこ》が奏でる歌が、終わるまではの」

 老人は三人とも背を向けた。そして次の瞬間には、もうそこにはいなかった。ともあれ、この日人知れず起きたいくつかの事実こそが、抜天と本土の因縁、そして抜天の存在そのものに嵐を巻き起こしていくことになる。まだすべては、静かに始まったばかりであった。

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