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大切な友人へ

「自分って探すものなの?」

そう聞き返された時、私は言葉に詰まった。それまでに並べ立てられていた薄っぺらい言葉はポロポロと剥がれ落ち、足元にふわりと落ちて雪みたく溶けて消えた。


20数年前、私は病院の総務課で医局秘書として働いていた。地域の中核病院として診療や入院、24時間救急を行なっている民間病院の医局は、常勤医師15人足らず、非常勤医師を入れても30人に満たない人数で、医局秘書といっても堅い雰囲気はなく、どちらかというと『お手伝いさん』的な感じで、先生の身の回りのお世話をすることが多かった。

実際に私が医局秘書に移動した理由も、「若くて愛想がいいから」だったと後で聞き、今ならそれは女性に対する偏見だとみなされるのだろうが、当時はまだそういう採用基準が普通で特に嫌悪感を持つこともなかった。

高校卒業後に就職した会社を人間関係の不和で辞め、この病院に入って一年が経った頃に移動となった医局秘書という仕事は、私にとても合っていたと思う。

食事の準備や掃除、文献依頼や本の注文、買い出しに洗濯、当直表の作成に給料計算、そして時には先生方の愚痴の聞き役。仕事内容はどれも難しくはない。しかし個性豊かな先生達に振り回され尽くす日々は、周りの人からすれば「大変そう…」と心配されることも多かったが、私は自分の居場所があることに安心した。

そんな医局で出会った整形外科の先生は、一昔前は「医者の大工」と言われていたほどガタイのいい整形外科医が多い中で、細身で繊細で肩ほどの髪をいつも束ねて丸いメガネをかけた色白の人だった。

どの患者さんに対しても丁寧に診察をされる先生の評判は病院イチで、まだ診療予約が一般的でなかった時代の待合室はたくさんの人で溢れ、朝診を終了するのが15時近くになる日も珍しくはなく、診察を終えて医局に戻られた先生は「もう嫌。辞めたい」とカウンターに肘をついて項垂れ、私は「今日もお疲れ様です」とコーヒーを淹れて、しばらく話をするのが常だった。

多忙な先生はいつも「辞めたい」や「生きている意味が分からない」と眉を寄せて怒っていた。でもその怒りは人を攻撃するものでも威圧的でもなく、言葉としては毒吐きながらもちょっとした笑いが入っていたりして、聞いていて嫌になることは一度もなく、しばらくすると自然と別の話に変わっていることが多かった。

先生はいろんな話をしてくれた。

「地震が来たら僕は本に潰されて死にます」というほどの読書家で、多くの本やたくさんの言葉を私に教えてくれた。音楽はジャンルを問わず詳しく、お笑いも好きで公演に連れていってくれたり、よくご飯にも誘ってくれた。

私は先生の話を聞くのが好きだった。

学生時代の私はどこにいても希薄で、家にいても思ったことを自由に言えず、毎朝一番に学校へ行って自分の机を確認してから座った。そこに期待や安らぎなど微塵も感じられず、かといって「こんな世界は嫌だ」と抗うこともなく、沖にも岸にも辿り着けない海の上のブイのように、ただ固定された世界の中をゆらりゆらりと漂うだけだった。

そんなちっぽけな世界で生きていた無知な私にとって先生が語る言葉は広大で、どこか別世界だと思いながらも少しだけ、ほんの少しだけでも先生に近づきたくて、徐々に下を向いていた顔が真っ直ぐに上がったのだと思う。

「あなたは若いのにやりたいことはないの?」

先生からそう聞かれた時、私は意気揚々と「今は自分探しをしているんです」と答えた。それが正解だと思っていたし、実際にこれから何かしたい、何かできるんじゃないかと思っていた。だって私の顔は真っ直ぐに上がってきたのだから。

しかし先生は不思議そうに「自分って探すものなの?」と聞き返した。

「え?」

最初、意味が分からなかった。応援してくれると思っていたのに、どうしてそんなことを聞くのかと困惑した。

「自分って見つけるものじゃないんだよ」

言葉が見つからない私の顔を、正面から見詰めて先生は言った。その目が哀しげだったのかどうか、今となっては思い出せない。

「探しても見つからない」

先生には分かっていたのかも知れない。明日を生きる意欲がなく、今日で死んでも後悔しない私を。

まともな愛情を知らずに育った私の心と身体はバラバラで、悲しくても泣けないし、苦しくても笑える。誰も守ってくれない自分を守るために、その場しのぎの感情を身に纏い、痛みにはどんどん鈍感になる。

だから自分で自分を見つけられない。
自分の中に自分が存在しない。

医局秘書という居場所を見つけた私は安心した。しかし同時に怖かった。この場所が消えてしまうんじゃないかと不安で、別の場所で自分を傷つけてバランスを取った。そうやって無理やり自分の感情に蓋をしないと夜を越えることができなかった。

空っぽの心と身体は何をすれば満たされたのだろう。
どうすれば先生に近づくことができたのだろう。

考えても考えても、あの時の私には分からなかった。


先生は半年間休職されて国境なき医師団の一員として活動をされていたことがある。その間、何度か手紙を頂いた。現地での活動報告と「使っていない医療器具や、使えそうなものがあればなんでも送って欲しい」という内容で、私は院長から許可を得た医療器具と一緒に手紙の返事を送った。

その荷物はいつ届くのかも、ちゃんと届くのかも分からなかった。それに荷物が届いたとしても、先生が無事である保証はなかった。だから毎回、これが最後かもしれないと思いながら手紙を書いた。

「あなたは文章を書きなさい」

半年後、日本に戻ってこられた先生はそう言った。今のように誰でも文章が書ける時代ではなく、私はその意図が分からずに戸惑い、「作家になんかなれませんよ」と笑って誤魔化した。



先生へ。
私は今、文章を書いています。このnoteという場所で、自分の言葉で、自分の好きなことを書いています。先生は空っぽだった私に、たくさんの言葉を与えてくれました。色のない世界で生きていた私に少しずつ色を加えて、『生きる』ということを教えてくれました。
先生から「文章を書きなさい」と言われた時、私は戸惑いました。文章を書く人間は立派な人だと思っていたからです。でも違ったのですね。先生はきっと自分と向き合うために文章を書きなさいと言われたのでしょう。悲しくても泣けず、苦しくても笑っていたあの頃の私は、感情を表現する術を知りませんでした。相手が望む感情と言葉を並べることには長けていたのに、自分の心の中は全く分からなかったのです。
最初は何を書いていいのかも分からず、とにかく書くことに必死でした。でもそのうちに自分の気持ちを書けるようになりました。嬉しいことも、悲しいことも、楽しいことも、苦しいことも、拙い言葉ではありますが、表現できるようになりました。
文章を書くようになって私は泣いてばかりです。壊れた蛇口のようにたくさんの涙が流れます。その涙は苦しかった過去を少しだけ洗い流し、目の前の幸せに光を与えてくれます。お陰で泣くたびに私は強くなっているのか、弱くなっているのか分かりません。だって今では子供達が楽しそうに笑うだけで涙が出そうになるのですから。困った母親ですね。

先生にひとつ謝りたいことがあります。
最後にお会いした日、「では、ここで」と頭を下げた私に先生は「握手をしましょう」と言いました。そして私が差し出した右手を両手でぎゅっと包み込み、「あなたは私の大切な友人です」と仰いました。15歳も年下のただの医局秘書だった私にです。私は誰かに「大切な友人」と言われたのは初めてでした。しかも尊敬する先生からの思ってもみない言葉です。とても驚き、「私なんて」と恐縮しました。それでもじわりじわりと嬉しさが込み上げてきて、「ありがとうございます」と答えました。
それなのに私はまた怖くなったのです。大切なものを得た後に起こる、大きな不安に苛まれたのです。家庭を持ち、子供を産み、これ以上満たされてはいけないと、幸せであることを心から怖いと思ったのです。そうして子供達が幼いことを理由に先生から離れました。ごめんなさい。

文章を書くようになって、先生に手紙を書きたいと思いました。私にとっても先生は「大切な友人」だと伝えたいと思いました。しかしこの年月が私の前に高い壁となって立ちはだかり、書けない言い訳ばかりを考えていました。私は本当に自分勝手な人間です。今さらこうやって懺悔したところで、ここで文章を書いていることは誰にも告げていないので、この手紙が先生の目に触れることはなく、ただの自己満足でしかありません。それでも私は伝えたいと思いました。

先生の「文章を書きなさい」という言葉が私の心の糧となって生き続け、今ここにいます。随分と時間がかかってしまいましたが、書くことで自分と向き合い、自然に泣くことも笑うこともできるようになりました。かつての家族とは縁を切り、自分を探すこともなく、幸せを「幸せだ」と言えるようになったのです。そうやって私はもう一度、人生を歩み直しているのだと思います。

先生、私に言葉を与えてくれてありがとうございました。私に「文章を書きなさい」と言ってくれてありがとうございました。これまでも、これからも、先生は私の大切な友人です。



#記憶の引出し


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この記事で100週連続投稿となりました。ずっと書き上げることができずにいたのですが、この区切りに残したいと思いました。
長文を最後まで読んで頂いてありがとうございました。




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