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新地之三郎翁葬別ノ儀

 数刻前まで命を残していたものは、浅黒く光沢する煮凝りと変じていた。
「臨終ですな」
 傍に坐した大小の影の大の方、医業着の巨漢が触診の手を引く。吐息一つ。牙の覗く口で微笑み、鼻の上の単眼を細めた。
「よう辛抱したの。おかげで御坊が間に合うた」
 小の影が微かに頷く。頭髪も眉も睫毛も無い漂白色の細面の痩躯が、芯の通った座相で侍り、掌内の数珠を軋ませる。
 茫、と手燭の蝋燭が朽ちた畳に影を生む。向こうの闇には幾重もの気配――巨躯のものも矮小のものも、姿形定かならぬものも。着衣のものも裸同然の者もあるが、等しく眼前に紗幕を垂れ、葬送の礼を墨守していた。
 御坊の口から経が詠まれる。水面の波紋の如く清明な読経の調べを背に、医師が懐より漉き紙の書状を取り出だし、見得切る如く広げた。
「遺言!」
 おう――隠面の列が応える。遺品、残想、あるいは債務。死出の旅路の後始末が朗々と告げられる度、おう、おう、と合いの手が入る。
「最後にひとォつ! ――“俺は喰うな”とさ」
 どっと場が沸き、おうおう、と幾分和らいだ合いの手が返る。大仰に涎をすすり上げた者が小突かれ、それがまた皆をおかしがらせた。
 頃合いと見た医師が御坊に合図する。読経が止み、代わりに、数珠が三度、乾いた音でカチ鳴らされた。
 応えるような轟音と共に、襤褸家の薄い壁が引き剥がされた。列席の衆たちが外の光明に目を細め、あるいは感覚器を覆う。
 彼らの視線、淀んだ大河と彼方の晴天を背景に、戦中型対艦迫撃砲の黒鋼の巨砲が、焼き場の煙突の如くそそり立つ。
「“川向う”の景色を一目見たい、なんぞ、似合わん事ぁある」
 医師が誰ともなく呟き、『取り置いて』おいたものを収めた木箱を開けた。溶け始めた硝子体に浸りつつも、未だ瞳の残る両眼が揺れる。
 居並ぶ衆に御坊が改めて向き直る。息を長く、深く吸い――宣言した。
「故人の遺志により、これより砲撃葬を執り行う!」

【続く】

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