GHQ主導による新憲法で初めて禁止された日本の大麻

日本は、縄文の頃から、大麻を身近なものとして取り入れてきた。山や川や海や巨石を、神々として祀ってきた日本人の世界観の中に、大麻も存在していたのだ。
だが、戦後、その価値観が大きく変わっていった。それは大麻への接し方によく表れている。
いま、世界中で大麻についての見直しが始まっている。
このタイミングで、戦後、どのように大麻への価値観が変わっていったのかを読み取ってほしい。
拙著「大麻 禁じられた歴史と医療への未来」から抜粋する。

●GHQ主導による新憲法で初めて禁止された日本の大麻

 現在の取り締まりの元となった大きな転換期は、第二次大戦終戦に伴うポツダム宣言にあった。
 1945年(昭和20年)9月に受諾されたポツダム宣言により、日本では、連合国軍最高司令官の名でGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)から出される覚書(メモランダム)と呼ばれる要求に応じて命令が下され、各分野で罰則も伴う原則が定められていった。いわゆる、「ポツダム省令」である。
 この中に、大麻取締法へと繋がる省令がある。昭和20年11月24日の「麻薬原料植物の栽培、麻薬の製造、輸出及輸入等禁止に関する件」がそれである。
 これは、万国アヘン条約で決められたものがベースとなった薬物規制であり、この条約の批准を望んでいたアメリカの意向が、戦後日本の法律の中にも強く求められた。厚生省が発令したこの省令は、麻薬の原料となる植物を栽培したり、原料を素に麻薬を作ったり、それらを輸出入してはならないという命令である。そして、この省令の中でいう麻薬とは、アヘン、コカイン、モルヒネ、ヂアセチルモルヒネ、印度大麻が挙げられている。また、これらの原料となる可能性のある植物や種子や化合物などを全て対象としている。そして、これを違反したものには3年以下の懲役もしくは禁固。5000円以下の罰金が定められた。
日本の大麻産業は明治政府による殖産政策により全国で生産が奨励され、北海道開拓の大きな原動力となった。他の地域でも、武家社会の崩壊とともに落ち込んでいた大麻の需要が、日清、日露戦争によって急激に伸びていった。
大麻繊維は、その丈夫さと通気性の良さから、軍服やロープ、その他多くの軍需物資の原料となる。第一次大戦では、欧州連合軍へ、帆布や舫ロープに加工した大麻製品を輸出している。そしてもちろん第二次大戦中にも、日本政府の主導によって大麻増産の指示があり、各県の大麻農家は作付面積を増やして生産にあたった。その結果、日本の大麻農業や大麻産業は、それに携わってきた多くの国民にとって、大変重要な位置を占めていたのである。その為、長野県や栃木県などの日本を代表する大麻農家や県の役人たちは、この規制案に大いに驚き、憤慨し、そして抗議した。
実際に長野県の大麻生産関係者は大麻の思い出として、こんな文章を残している。

『(略)終戦後マッカーサーの命令にて”大麻栽培禁止令”が出た時は県庁特産課よりの電話召集にてゲートルにジャンパーといういでたち、生産者代表として指令部への陳情隊に加わり「本県の大麻栽培は冬期間の労力消化を兼ねての農家の現金収入の主幹であり、”寒晒畳糸縫糸”製造の原料生産であって、麻薬製造等夢にも知らない事である。これを禁止されるならば生産農家の経済は破綻する。是非共栽培の継続を許可して頂きたい」と通訳付きにて陳情し(略)』(長野県大麻協会「大麻のあゆみ」より)
 全国各地の大麻生産関係者や県庁特産課をはじめとする役人たちは、何とか大麻産業を残さなければと、様々な働きかけを行っていった。
 一方、GHQ側は、1945年10月12日のアレン大佐名のメモランダムの遂行を徹底するよう日本政府に強く指令を出していく。1946年3月21日には、「日本における麻薬製品及び記録の管理」というメモランダムを発行する。その内容は、アレン大佐のメモランダムの中に記載されてあった以下の一文に対してのものである。
「現在植付られ、栽培せられ居る此等のものは直ちに除去すべし、且つ除去せられし量、日時、方法、場所、土地の所有権を連合国軍最高司令部へ三十日以内に届出づべし」
 これに対して日本政府は、
「本禁止は播種時期の前に公表され、したがっていかなる植物の除去も必要なかった」
 とGHQに報告している。
 あくまでも農産物として捉えている日本人に対して、GHQが強く要求したのは、大麻を麻薬として徹底的に管理せよというものだった。ならば、大麻は除去する必要はないとして、日本の官僚たちは、あの手この手の文章の解釈や答弁で、GHQのメモランダムをかわしていった。
日本の官僚たちが、何とか大麻農家を守ろうとしている姿がありありと目に浮かぶ。
 その後、1946(昭和21年)年11月22日には「日本に於ける大麻の栽培の申請に関する件」覚書により、全面禁止ではなく申請することにより栽培を継続する道が開けてきた。そして、1947年2月11日(昭和22年)の「繊維を採取する目的による大麻の栽培に関する件」という覚書では、現在の免許制度の原型が出来上がる。この規則には煩雑な登録・栽培管理・収穫報告などの手続きが付きまとい、その上、栽培地域や面積、就労人口までもが厳しく定められた。
 具体的には、栽培面積は日本全体で5000ヘクタールを超えてはならず、当初は栽培地区として限定された地区は、青森、岩手、福島、栃木、群馬、新潟、長野、島根、広島、熊本、大分、宮崎の12県のみ、人員も全県あわせて3万人のみという厳しい数量規制が課せられた。それと共に、大麻から製造された薬品を、医療目的も含めて、使用することもその行為を受けることも制限された。
 1947年(昭和22年)4月23日。それまでのGHQの指令に基づく国内規定を整備する「大麻取締規則」が発布される。この時点で、GHQからの要求に対する日本の抵抗も、一つの決着を迎えた感がある。
「大麻取締規制」をベースとした「大麻取締法」は、厚生委員会並びに衆参両院本会議において大した議論もなく可決され、1948年(昭和23年)7月10日に施行された。戦後の様々な占領政策の一つとして、大麻産業は日本人の希望も叶わず、その未来を狭められていったのである。
 1950年(昭和25年)、翌年に控えていたサンフランシスコ平和条約の締結に先立ち、占領法制の再検討と新たな戦後のあり方について、国会で議論された。大麻取締法も、多くの大麻生産農家や関係者からの見直しを希望する声に押され、衆議院厚生委員会にて麻薬取締法と大麻生産のあり方について議論されている。
 この年に開かれた第7回通常国会衆議院厚生委員会の議事録を見ると、大麻が麻薬として取り扱われることになったことによる取り締る側の戸惑いと、大麻に頼って生きてきた生産農家の苦悩が見えてくる。
 この委員会では、麻薬取締りを行う係官の所属場所を統一し、取り締まりをより強化するための改正法案の審議が行われていた。麻薬及び大麻を取り締まる厚生技官(薬務局麻薬課長)と農産物としての大麻を管理する農林技官(農政局特産課長)が出席し、政治家たちと質疑を行っているのだが、この中で一貫して憂慮されている点は、「いかにして農産物としての大麻を守っていくべきか」ということであった。議事録を数箇所抜粋してみよう。
 先ず、厚生技官(薬務局麻薬課長)の説明である。

第7回国会 衆議院厚生委員会議事録より抜粋 (原文通り)
『里見説明員 (略) それから大麻の取締法を制定したことでありますが、これは先ほど申し上げましたように、日本においては、終戰前までは大麻について何らの取締規則もなかつたのでありますが、メモランダムが出まして、この大麻の取締りを行うことになりまして、もともと麻薬をとります大麻インド大麻というようなものは、国際的に麻薬ときまつておりまして、これは取締りをしなければならない義務を持つております。ただ日本にありました大麻がそれに該当するかしないかということが、これまでわからなかつたわけであります。それがたまたま調査の結果、これが当然該当するということになつた関係で、これは麻薬の原料、薬物として取締りを行わなければならない国際條件の関係もあり、それを履行する義務を日本が負つております関係で、これは将来とも取締るべきものと考えられます。世界の各国を見ますと、やはり大麻をそのまま禁止している国も多くあります。フイリツピンあるいは南鮮、日本等は纎維関係によりまして、大麻の栽培を許可されておるわけであります。もちろん、われわれとしましても、十分にこの大麻が纎維資源として重要であることはわかつておりますので、総司令部の方に懇請いたしまして、麻の資源として必要であります関係で、この生産を認めてもらうことになりまして、現在五千町歩の範囲内で、かつ人員も三万人と押えられておるのであります。実際問題としましては、三万人以上でありますが、それは何人か一かたまりでもつて一人の代表者を出して、そうして栽培させておるというような実情でやつておるわけであります。』

 一方、各議員は、大麻取締法によって起こる様々な障害について懸念を覚えている。大麻を厳しく管理統制するために発生する多くの手間や煩雑な手続きに対して、切実に大麻栽培の存続を願っている山間部の農村などは、果たして機敏に対応することができるのか。そんなことを心配しているのである。

『苅田委員 そうしますと、大体今の御説明でわかりますように、大麻というものは、相当零細な農家が自家用につくつていたところがたくさんあるわけですが、これが今度の統制によりまして、規約の変更によわ非常にめんどうな手続をしなければこれがもらえないというようなことになれば、そういつた零細な反別を持つてやつておる人たちが、今度どうしても落ちて来るというようなことが当然考えられるわけですけれども、こういうものに対して農林省の立場として、そうした百姓の人たちの農家経済を維持する面から、この大麻の生産に対しましては、こういうような対策をお考えになつておるか。その点についてお伺いいたしたいと思います。

徳安説明員 大麻の取締りの問題でございますが、農林省といたしましては、大麻の取締りにつきましては、この際強化されるということは承つておりませんし、従来通りというふうに了承いたしております。』

 大麻農業の窓口である農政局特産課長、徳安説明員の答弁であるが、この時点ではこれ以上の強化はないとしている。しかし、結果的にはこの後も麻薬としての大麻取締りは強化され続け、現在のような状況になっていくのである。

『大石(武)委員 (略)私の地方では、大麻をつくつて、げたの緒どころじやない。衣料を買えない農家が衣料にしておるのが非常に多い。これは地方にとつてはぜひ必要なものであつて、この作付を制限したり、監督を嚴重にしたりすることによつて、地方におけるそういう実情を無税し、あるいは農家の自己消費を非常に困難ならしめるというようなことがあつてはならない。もちろん農家は、余裕があるならば、そういう需要は他の方法によつて満たすことができるはずであるけれども、現在の農家は事実上、経費の関係からそういうことは不可能になつておる。それほどに零細化され、貧困化されておる農家が、衣料の点で、最後の線としてそういうことを要求しており、それが古来の習俗にさえもなつておる際に、これを法制的に禁止するというやり方は、われわれ反対しなければならぬと思うのです。聞くところによれば、あなたも言われたように、メモランダムが来たからということであるが、われわれはメモランダムによつて政治を行うべきではなくて、日本の実情に即して、また日本の大部分の人々の要望に即した政治を行わなければならぬのであつて、われわれは、やはり正しいことは堂々と、メモランダムいかんにかかわらず、国会の権威においてこれを決定して行くという習慣をつけなければいかぬと思うのです。そういう実情にあるときに、法制のきめ方、たとえば、技術的には私よく知りませんが、收穫をしてその大麻を、麻薬になる部分だけについてどうするとか、こういうふうな制限を付するというようなやり方で、作付については自由にするとか、地方の状況に応じた形をとるというような方法はとり得るはずだと思はれるので、そういう点も考えられてはどうか。御意見を聞きます。』

 現在の自分たちの状況と重ね合わせて、ハッとしてしまうような発言である。この政策によって、本来、自給自足を行っていた日本の農村でも、多くの衣類や石油製品を、現金で購入するシステムへと転換せざるを得なくなっていった。

『金子委員 (略)大体日本の農業が共同耕作を基礎にしてやつておれば別として、この麻は屋敷わきの風の当らぬところに農家がまくと、一年中纎維に対する現金支出をしなくてもいい。そういう関係でつくられでおるのであるから、大麻の専門家に聞きましても、日本で大麻の葉から麻薬をとつた例もなければ、そういうこと自体すら知らなかつた。それを寝ておる子を覚ますようになつて、実害はないと思いますが、取締上一つの部落なり町村の責任者の名において、この部落においてこれ以上つくつておらないということと、責任者の名がはつきりしておつたら、それで許可したらどうか。(略)』

『堤委員 (略)従来大麻の栽培は何ら麻薬として実害をもたらさなかつたのでありますから、むしろこうした事情をしんしやくして、貧農が麻纎維の小規模な自給を行う場合、実情に即した親切な措置を講じて、かつこれを下部に徹底せしむるようにしていただきたいと思います。(略)』


 大麻農家や産業をこれほどまでに保護しようと議論した背景には、大麻の有益性や大麻産業の優良性が要因であるのは間違いないが、それよりも注目すべきは、この時点では大麻を麻薬として使用している者は存在しなかったという点である。そのため、大麻取締法は、大麻を規制する社会的必要性が全く無かったため、立法目的が明記されていないという、法律としては異例の形がとられ、現在に至っている。
 当時の内閣法務局長官であった林修三氏は、その考えは過ちだったとしながらも、以下の回想録を残している。

「(略)このマリファナたばこの麻薬的作用はカンナビノールという成分によるものだそうであるが、その原料になるものは大麻草(カンナビス、サティバ、エル)である。大麻草といえば、わが国では戦前から麻繊維をとるために栽培されていたもので、これが麻薬の原料になるなどということは少なくとも一般には知られていなかったようである。したがって、終戦後、わが国が占領下に置かれている当時、占領軍当局の指示で、大麻の栽培を制限するための法律を作れといわれたときは、私どもは、正直のところ異様な感じを受けたのである。先方は、黒人の兵隊などが大麻から作った麻薬を好むので、ということであったが、私どもは、なにかのまちがいではないかとすら思ったものである。大麻の「麻」と麻薬の「麻」がたまたま同じ字なのでまちがえられたのかも知れないなどという冗談まで飛ばしていたのである。私たち素人がそう思ったばかりでなく、厚生省の当局者も、わが国の大麻は、従来から国際的に麻薬植物扱いされていたインド大麻とは毒性がちがうといって、その必要性にやや首をかしげていたようである。従前から大麻を栽培してきた農民は、もちろん大反対であった。
 しかし、占領中のことであるから、そういう疑問や反対がとおるわけもなく、まず、ポツダム命令として、「大麻取締規則」(昭和二二年 厚生省・農林省令第一号)が制定され、次いで、昭和二三年に、国会の議決を経た法律として大麻取締法が制定公布された。この法律によって、繊維または種子の採取を目的として大麻の栽培をする者、そういう大麻を使用する者は、いずれも、都道府県知事の免許を受けなければならないことになり、また、大麻から製造された薬品を施用することも、その施用を受けることも制限されることになった。
 こういういきさつがあるので、平和条約が発効して占領が終了したあと、昭和二七年から二九年にかけて、占領法制の再検討、行政事務の整理簡素化という趣旨で、大規模な法令整理が考えられたときには、この大麻取締法の廃止(少なくとも、大麻草の栽培の免許制などの廃止)ということが相当の優先順位でとりあげられたのであり、私ども当時の法制局の当局者は、しきりに、それを推進したのである。厚生省の当局も、さっきも書いたように、国産の大麻は麻薬分が少ないことから整理の可能性を認めたのであるが、なお最後の踏切りがつかないというので、私どももそれ以上の主張はせず、この法律の廃止は見送られることになった。(以下略)」
(「時の法令」1965年4月 通号530号より)

結果として、1953年(昭和28年)の改正では種子を規制から除外し、大麻生産者に対する規制緩和を行う。しかしこの頃から、海外から輸入されるジュート繊維や化学繊維の急激な台頭により、大麻繊維産業は衰退していく。
その一方で、1961年に万国アヘン条約を引き継ぐかたちで締結された「1961年の麻薬に関する単一条約」によって、産業や園芸用以外の大麻栽培に対する規制は、アヘンやヘロインの原料であるケシ栽培と同等の規制に改定された。当時アメリカから始まったヒッピームーブメントへの警戒も高まり、それに連動するように、1963年に行われた日本の大麻取締法も、禁固刑を主とした厳しいものとなった。
 このように、日本の大麻取り締まりの歴史は、アメリカの強い影響を受けているのである。

・大麻取締法と石油産業を巡る、ある疑問
 アメリカ政府による大麻禁止の歴史を見てみると、ある疑問が浮かび上がる。
 アメリカは、なぜ大麻を第二アヘン会議条約の規制対象にするように呼びかけたのか。アメリカ連邦麻薬捜査局は、なぜ強硬に大麻取締のために働きかけていったのか。そして、連邦政府を含む多くのアメリカの公的機関の検査によって、大麻の安全性が実証されてきたにも関わらず、なぜ大麻はヘロインなどと同じ危険度の麻薬として、規制され続けてきたのだろうか。
 1990年代にアメリカの大麻規制の歴史を新たな視点から解き、大麻解禁運動に大きな影響を与えた作家ジャック・ヘラーは、著書『大麻草と文明』(原題:The Emperor Wears No Clothes)の中で様々な文献資料を示しながら、1930年代の大麻禁止の主張には、もう一つの重要な意図があったとジャック・へラーは語っている。
 アメリカが国際経済のイニシアティブを握るには、基盤となる産業の独占が必要だった。その産業とは、繊維産業である。羊毛や大麻や木綿の生産や紡績、加工品の販売、そして、その販売権の占有が莫大な利益を上げることは、イギリスの歴史を見れば明らかである。アメリカは、それらの原料に囚われない新たな繊維を開発し、独占しようとしていた。新しい繊維とは、石油を原料とするナイロンなどの化学繊維である。
19世紀末から20世紀前半にかけて、欧米では新たな繊維の開発に凌ぎを削っていた。イギリスやフランス、ドイツは、植物繊維であるセルロースを原料とした「レーヨン」などの人造絹糸を次々と発明していた。新しい特許を持ったそれらの新素材は、ヨーロッパのみならず日本などでも生産され、新たな国際マーケットを形成しつつあった。日本では1918年に、帝国人造絹糸(現在の帝人)がビスコース法(レーヨンの製造技術のひとつ)による人造絹糸の生産を開始している。
 アメリカとしては、それらの植物由来の繊維とは全く異なった新繊維を開発する必要があった。その為、アメリカ政府は産業資本家たちと協力しながら研究を重ね、1936年に化学会社のデュポン社が石油を原料とした新繊維である「ナイロン」の開発に成功した。そして20世紀後半に向けて、アメリカはナイロンと石油による経済覇権を目指したのである。大麻や木綿のように生産の手間がかからず、テキサスなどから採れる豊富な石油を原料にしたナイロンやプラスチックなどの石油化学製品は、新興国アメリカの科学技術の結晶だった。その他にもデュポン社は、主に大麻などから作られていた紙を、木材パルプを原料として製造する技術も開発していた。また、1914年には、ゼネラルモーターズ(GM)に出資し、ピエール・S・デュポンが社長に就任している。そして、1919年から1931年の期間は、GMとは別に、デュポンでも自動車製作を行っていたのである。
 このように20世紀初頭のアメリカのパワー・リーダーたちは、化学繊維や石油エネルギーを消費させる原油ビジネスを基幹産業とした国家体制を通して、世界覇権への構想を実行に移し始めたのである。
ジャック・ヘラーによると、石油繊維産業の発展のためには、その競合になる恐れのある大麻産業を取り除く必要があったと説いている。大麻から取れる質が高く豊富なセルロースからは、石油製品同様に様々な製品を作り出すことが可能である。大麻繊維産業だけではなく、大麻によるセルロースを使った人造絹糸やセルロイド等を改良していくことにより、石油産業と同じ市場を奪い合うことになることは明白だった。しかし、自国の大麻産業を真正面から潰していくことの出来ないアメリカ政府は、麻薬として批判され始めていた大麻に対する社会状況を利用して、毒性の強い麻薬として大麻を取り締まることにより、大麻産業そのものを消滅させようと企てたというわけだ。
今までアメリカが行ってきた石油産業を主軸とした世界戦略は、その初動の時期にアメリカ政府と産業資本家が深く関与し、大麻産業がその犠牲となったというジャック・ヘラーの説は、現在も多くの大麻肯定派に支持されている。


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