見出し画像

刑事コロンボの面白さの謎を解く

「新・刑事コロンボ』は最初のシリーズからかなり経って始まった新シリーズだった。
DVDは第一シーズンの4本と第二シーズンの頭一本の計5本だけを1ボックスでリリースしたまま、結局終わってしまった。
 刑事コロンボ自体がもうクラッシックであり、見飽きられてしまって、今ではほぼ人気がない。
 Blu-rayで新シリーズまで69話全話収録した全集が10年くらい前に8万円という高額で出されたが、売れなかったようだ。
 第一話の吹き替え用シナリオの復刻版が封入された初回限定版が未だに売られており、しかもどこへ行っても2.5万から3万での投げ売り状態だ。

 刑事コロンボは究極のネタバレ作品だ。
 最初から犯人が誰であるか、そのトリックの手口まで明かしておいて、そのトリックをコロンボがどう解明してゆくかがドラマの興味の対象となる。
 ミステリーとしても全く意表をつく構成だったから、世界的に受け入れた。

 ここに作用していると思うのは、鑑賞者の感情移入の視点の面白さだ。

 通常の推理ドラマは最初から主人公の探偵と同じ視点で鑑賞者はドラマについてゆく。
 探偵の行動や経験は鑑賞者のそれであり、探偵と鑑賞者は同じ時間の流れで、事件に向き合う。
 鑑賞者自身が探偵と事件に対する興味を共有し、推理してゆく。
 だから、探偵がトリックを暴き、犯人を指弾したとき、鑑賞者もまた探偵の活躍に驚きながらもドラマを追いかけてきた仲間として、探偵に感情を移入するのである。
 そこが推理ドラマの面白い点である。
 つまり観客は探偵と共犯関係にあって、ドラマに対しての傍観者になれない。
 その最たるものは推理ドラマである。

 ところが、刑事コロンボは違う。
 鑑賞者は前半部分で、犯人と共に犯罪を経験し、犯罪のトリックを仕組む共犯者となる。
 鑑賞者は完璧に犯罪を行ったことの一部始終を目撃し、犯人と共に行動するので、犯人の側に立ってドラマを追いかけることになる。
 そこへ、あのおとぼけの刑事のコロンボが突然登場する。
 鑑賞者はコロンボがこのドラマのヒーローであり、犯人を追い詰めることは最初からわかっている。

 ちくりちくりと犯人を追い詰めてゆくコロンボに犯人は苛立ちと不安を感じるが、いかにも英雄然としていない、おとぼけのコロンボに対して不安を感じるのは犯人だけではなく、テレビの前でその時間を共有している鑑賞者もまた同じなのである。

 犯人の焦りや不安は、そのまま鑑賞者の焦りや不安になる。
 ちくりと質問をして、部屋や家を出ていったコロンボがすぐに帰ってきて「あのぉ、すみません、もう一つ伺いたいんですけど……」とやり出して「わかりましたぁ、お邪魔しちゃってぇすみません、またお伺いしますぅ」と出て行った後、犯人は「侮れないやつ」と顔をこわばらせて部屋のなかに一人立ちすくむ。
 お馴染みの場面だが、刑事コロンボのカメラは出ていったコロンボをとらえず、立ちすくむ犯人だけをいつも捉える。

 そう、鑑賞者は犯人の共犯者として、犯人と一緒に部屋に取り残されるのである。

 なぜなら、ドラマが開始されてその後は鑑賞者は犯人の共犯者だからだ。
 だから、得体の知れないコロンボがお馴染みの人物であっても、鑑賞者はコロンボを仲間だとは思えない不安を感じることになる。

 本来、鑑賞者が感情移入するはずは探偵の側だが、刑事コロンボではそれが許されない。
 ここが、この推理ドラマシリーズの面白さである。

 鑑賞者は探偵の側の視点に立っているつもりでいても、どこかで犯人側にいる。
 完全な傍観者にもなれず、探偵の味方にもなれない。

 この曖昧な鑑賞者の視点が「刑事コロンボ」という探偵ドラマシリーズの大きな魅力の一つであると思う。

 シリーズ屈指の名作といつも引き合いに出されるのは、英国の名優、ドナルド・プレザンズが犯人を演じた『別れのワイン』だが、あの作品が名作としてファンの心を捉えてやまないのは、コロンボが犯人をリスペクトしているからである。
 なぜ、コロンボの犯人へのリスペクトが鑑賞者の心を打つのかというと、それは鑑賞者が犯人の側の視点に必ず縛られているという、この推理ドラマの特異性にある。
 だから、コロンボの犯人への優しい視線は鑑賞者に癒しにも似た好感を抱かさせることにもなる。同時にそれは刑事であるコロンボというキャラクターへの好感にもなるが、それは犯人側の視点に縛られていた鑑賞者へも向けられたものだからだ。

「刑事コロンボ」の面白さが、が最初から犯人のネタバレされているというところと指摘されるが、それだけではない。
 映画もテレビドラマも鑑賞者の視点や感情移入がどう作用するかで作品の行方が決まる。
「刑事コロンボ」の面白さがその構成にあったということは間違いがないが、犯人と鑑賞者の共犯関係によって生み出される鑑賞者自身が作り出している面白さであるという点はほとんど語って来られなかったことではないかと思う。

「刑事コロンボ」を模倣した日本のテレビシリーズ「古畑任三郎」が「刑事コロンボ」ほどにこの面白さで成功していないのは、鑑賞者が犯人の共犯者になれない傍観者でおかれてしまう演出のまずさであるのではないかと、ぼくはいつも感じている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?