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何をするにしても辞めなければ何かしら特典がついてくる

揺り籠でプラプラ揺られては気分次第で泣いていた赤ちゃんだった僕ですら、何十年という時を経てこうやって自分の気持ちを文章にしている。あの頃は喜怒哀楽を不器用に表現していたのに、いっちょこ前にパソコンに向かい言葉という武器を使って表現するまでになるなんて、当時の僕は思いもしなかっただろうなと思う。

ミルクを飲んで上機嫌だった赤ん坊は、今では1本100円ちょっとの檸檬堂の缶チューハイでご機嫌だ。少しリッチな飲み物にシフトチェンジ出来るぐらいには自分でお金を稼いで社会に貢献出来る人間にはなれたんじゃないだろうか。

人は死な無い限り成長出来る。その成長途中で自分にしか目を向けられなかったのが、次第に周りの人に目を向け始め自分と誰かを比較する様になる。

これは悪い事では決してないし、むしろ誰かの良いところを見習い取り入れるチャンスでもあるから周りに目を向けるのも良いのだけれど今の時代、周りが見え過ぎているように思う。Twitterやインスタ、YouTubeなんかを見ていれば、自分の目指す夢やなりたい職業の人、自分には無い考え方やユーモアで人気になる人。その道のプロと呼ばれる人達がわんさか出てくる時代である。

ドラゴンボールで例えれば(急に!?)

スーパーサイヤ人のバーゲンセールかよ!と思うほどに才能を持ち合わせた人や、努力で才能を手に入れた人がわんさかこの世にいる事を知ってしまった。見るだけなら、こんな人がこの世界に居てくれてありがてぇと思うだけだが、同じ人間なのに、こんなにも戦闘力が違うのか...と思うことも、しばしば。

確実に僕はクリリンタイプの人間である。いや、クリリンに及ぶかどうかも危ういレベルの一般市民地球人Aぐらいかもしれない。そんな人間が急に気円斬を撃てる事もなく、こうして文章を書いている。

ちょっと話が脱線したけれども、自分と他人を比較する時間が多過ぎて、自分の過去と今を比較する時間が少なくなり過ぎているなぁ、と最近個人的に思う。誰かを羨むよりも、もっと自分に目を向けてどれだけ成長出来たのか確認し、これからどう成長するべきか悩む時間を大切にしたい。

人それぞれ伸びしろも違ければ、成長速度も違うから何歳で才能が爆発するかなんて自分にも分から無い。あの人が最年少で偉業を成し遂げたからと言って僕も同じ歩み方をしても結果が同じとは限ら無い。だからこそ面白い。

もっと自分に目を向けて、もっとわがままに生きて、そんでもって生きるために普通の会社員として働く。疲れ果てて家に着いてからは死んだ魚のような目をしてる時ももちろんあるけれどもそれも普通のことだ。せめて調子の良い時ぐらいはこんな感じで文章を書いていきたい。

地球人Aなりに普通を受け入れて、自分と言う人間を少しづつ成長させていけたらなぁと思う。たとえ文書を書かなくなったとしても僕らしく生きていけたらそれは素晴らしいことだ。


ただ一つ言えることは、何をするにしても辞めなければ何かしら特典がついてくると言うことだ。

                

             

                text.ながた。

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