【神の怒り先とは?】メッセージ

先日メッセージをしました。
シェアします。



ローマの信徒への手紙/ 01章 18節
不義によって真理を妨げる人間のあらゆる不敬虔と不義に対して、神は天から怒りを現されます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◆序論 
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今日のテーマは「神の怒り」です。
キリスト教は愛の宗教だと言われることがあります。
キリスト教の神は愛である。
では神は愛であるのなら、なぜ神がお怒りになるのでしょうか?
私たちは私たち人間が怒る時の事を想像して、それを神の怒りに置き換えて理解しようとします。
でも私たちが怒る時というのは、後から振り返ると、勘違いや思い込みから怒ることがあり、間違えて怒ることもあります。
しかし神がお怒りになる場合は、いい加減な怒り、間違える怒りなどないはずです。
神の怒りとは何かについて今日の聖書箇所から見ていきたいと思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◆本論
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・不義とは?
18節の最初に「不義」と書いてあります。
義というと正義のイメージがあり、正しいこと、良い行いをイメージがあります。
しかしある人は義とは正しい関係である、と言います。
神と正しい関係。
不義とは、神との関係が正しくない関係になっているのです。
それは人との関係にも及びます。


不義の元々の意味としては「暴れる」「荒れる」という意味です。
神との関係が、そして人との関係が荒れるのです。暴れてしまうのです。
そして関係が荒れることにより壊れていきます。
私たちも生きていると、壊れた関係を目の当たりにします。
壊れた親子関係、壊れた結婚関係、壊れた友人関係、壊れた社会との関係、そして壊れた自分自身に対しての関係。
それによって嫌な思いをしたり、自己嫌悪に悩まされることがあります。


ではその神との壊れた関係によって何が起こるのでしょうか?


・真理が妨げられる
神との関係が荒れることによって真理を妨げてしますのです。
真理とはなんでしょうか?
それは学者が塾考しながら書き上げた知識ではないのです。
真理とは神そのもの、イエスキリストそのものです。
神ご自身が表されるのです。


元々私たちが神と正しい関係になっている時、神が私たちに現されるのです。
でもそれが神と私との関係において関係が壊れた時、神ご自身、イエスキリストご自身が現れるのを妨げてしまうのです。


この妨げてしまう、という言葉は、抑制する、さらに違う言い方ですと、箱の中に閉じ込めるという意味です。
真理を妨げるとは、人間に神ご自身が現れるのに神を蓋をしてしまって、そのものが出てこないようにするという言葉から来たものです。
有名なギリシャ語学者はちょうど子供が嫌なものを箱に入れて、その箱の上に腰をかける言葉だと言います。


なぜ神が私たちの中に現れると妨げようとするのでしょうか?
ある人がこんな事を言います。
私たちは神ご自身が現れるのが邪魔になる。閉じ込めようとする。
神ご自身が現されているのにそれを拒み続ける。
イエスキリストの存在が邪魔になるのです。


だから自分達の不義の中で、壊れた関係の中で、捕らえて神を息の根を止めようとするのです。
イエスキリストを捕まえた人たちはまさにそれをしたのです。
神が人の子として現されたのに、それを妨げ、捕らえ、十字架につけて殺すのです。
神の方では、ご自分を自然界を通して現されているのに、その愛の御手を差し伸べているのに、人はそれを拒むのです。


ではなぜ人は神を拒むようになったのでしょうか?
元々私たちは神を、自分の造り主として正しく知り、心から愛して、 神様とともに永遠の祝福の中に生きて、 神様を賛美するように造られました。
しかしそこに罪が入りました。


ハイデルベルク信仰問答問七に書いてある通り
わたしたちの第一の両親、アダムとエバの、楽園での、堕罪と不従順とから起こったのです。
この堕罪と不従順によって神との関係が壊され、神が現れるのを妨げようとしてしまうのです。


・あらゆる不敬虔と不義に対して
18節の中頃に、あらゆる不敬虔と不義と書かれています。
不敬虔の元々の意味は縮むです。
ある人そのことから、身をかがめることを忘れる、と言いました。
身をかがめることを忘れる。
誰に対してか?
そう、神に対して。
神に対して身をかがめる事を忘れるのです。
神を畏れることを忘れる心を失う。


神を畏れる心を失うから、神が御手を差し伸べて私に現されようとしても、それを拒むのです。
何故なら自分にとって都合が悪いからです。
自分の人生が神に支配される事を恐れるのです。
関係が壊れているからです。
関係が壊れているから、神が自分にとって良いお方だと信じられないのです。


だから自分の判断の方が神の支配の中にいるより良いことだと思い、神に身をかがめる事をせず、自分が自分の支配者となる。
そして自分にとって都合の悪い神を閉じ込め、隠そうとするのです。
さてそれに対して神は何をされるでしょうか?


・神は天から怒りを現される
18節後半、神は天から怒りを現されます。
ここで現されると訳されている言葉は別訳で啓示とも訳されます。
言葉そのものは、覆いを取るという言葉です。
カバーがかかっているのです。
そのカバーを取り除く。
カバーを取り去ると中のものが見えてきます。
何が見えてくるのか?
神の天からの怒りです。


この現されるという言葉は原文では17節にも使われています。
神の義が、福音の内に、真実により信仰へと啓示されているからです。


覆いをとって見えてくるのは、神の怒りであり、そして神の義であります。
それが共に現れる。
でも神の怒りと神の義というのはなぜ同時なのでしょうか?
怒りと義は相反するようなイメージもあります。
神の義が現されるのは、福音においてです。(17節)


その福音とは何か?
それは1:4節に書かれているように、イエスキリストの十字架と復活がその中心です。
4節では
聖なる霊によれば死者の中からの復活によって力ある神の子と定められました。この方が、私たちの主イエス・キリスト
であるとパウロは語りました。


イエスキリストの十字架と復活において、神の義が、神の恵みによる救いのみ業が現されているのです。
そしてそこには同時に、人間の罪に対する神の怒りも現されているのです。
何によって現されるのか?
それはイエスキリストの十字架の苦しみと死においてです。
そう、神の怒りは、イエスキリストの十字架の苦しみと死において現されているのです。


私たちの不経験と不義に対する神の怒りは、私たちの上に下されたのではありません。
私たちの上にそれが下されたなら、私たちはとっくに滅ぼされており、生きていることなどできないのです。
しかし神は、私たちの罪に対する怒りを、独り子主イエス・キリストの上に下されたのです。


それがイエスキリストの十字架の苦しみと死の意味です。
イエスキリストが、私たちの罪に対する神の怒りを全て背負って、十字架の苦しみと死とを引き受けて下さったのです。
それによって神の義が、つまり神が罪人である私たちにご自身の義を与え、私たちを義として下さるという救いが私たちに与えられたのです。
神の義と神の怒りは、このイエス・キリストの十字架において、共に現されたのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー◆結論
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神の義も、神の怒りも、現された、というのは共に現在形が使われています。
つまり今現在進行していることを表しています。
イエス・キリストの十字架と復活における神の義と怒りが現されるのは私たちにとって過去のことではありません。
今起こっていることです。
私たちが礼拝を守り、そこでみ言葉を聞き、聖霊のお働きによって、十字架にかかって死んで復活なさったイエス・キリストと出会うことによって、今自分に与えられている救いの恵みとして受けとめ、その救いにあずかって生かされている喜びを改めて感謝して歩んでいこうではありませんか。
お祈りします。


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◆お祈り
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天のお父様、あなたは私たちに現れて下さいます。
でもそれを私たちは捉え、妨げてしまいます。
そこにあなたの怒りが現れました。
本来ならそれを私が受けるものでした。
でもその怒りをイエスキリストが受けました。
それによって生かされているのです。
この生かされている喜びを今一度感謝して生きていく事ができますよう導いて下さい。
イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン。



今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大

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