【忙しく働いていた時に見えたこととは?】

「心の井戸を深く掘る」からの学びです。

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みことばの黙想をするセミナーがあり、そこでマルコの福音書8章22ー26節の黙想をしました。
イエス様が盲人の目につばきをつけて両手を当て、「何か見えるか」と尋ね、盲人が「人が見えます。木のようですが、歩いているのが見えます」と答えた箇所です。


そこで、一つの霊的な経験でしたが、イエス様が実際に私に触れて、「何か見えるか」と聞いてくださった感じがしました。
そしてその時に見えたものが、傷ついて血を流している自分の姿でした。


牧師としての働きを自分の頑張りや生真面目さでカバーしてきましたが、血が流れるほどに心が傷ついている、こんなにも自分が傷ついていたんだということが分かりました。


その後、長男に「お父さん、こんな経験をしたんだけど」と言ったら、「今まで気がつかなかったの?」と言われました。
周りは分かっていたんですね。
そういうわけで、みことばによって内面を見つめる作業を始めたのが五十歳を少し越えた頃です。

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上記はある牧師の証詞です。

自分の内側を見つめる時、自分が血を流すほどに傷ついている、それをカバーするため、見ないために忙しく働いていることがあるのです。


そしてそのまま働くことによって、また自分を傷つけ続ける。
でも聖書の言葉を通して神が問うのです。
「何か見えるか?」と。


そして実は内面傷ついている自分の姿が見える。
でも神はそこから回復しようとしてくださる。


自分の内面を見つめるのは勇気がいることで難しい時があります。
でも自分と向き合うときに回復が始まることを信じ、内面を探っていきたいと思います。



今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大

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