〜すべきは良いもの?悪いもの?

「12の誤解」からの学びです。

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「すべき」は良いものでしょうか。
私たちにとって役に立つのでしょうか。

聖書の答えは、条件付きの「はい」です(ローマ3:31)。
聖書が私たちに提示する「すべき」は、私たちが通常理解しているものとは随分違います。

聖書が「○○すべき」と言うとき、それは私たちが生きていくためにしなくてはならない事です。
「すべき」は完璧な律法であり、私たちの人生の指針です。
それは現実です。
私たちがなすべき事を行なう時、いのちや良いものといった結果を生みます。

しかし聖書は、「これをすべきである。そうでなければあなたは悪人だ」とは言いません。

聖書が言っているのは、「これをすべきである。そうでなければ、あなたは苦しみ、失うだろう」ということです(第一コリント3:5参照)。

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生活をしているとほとんどが〜すべきで追われている毎日になります。

遅刻はするべきではない
プレゼンの準備は前もってすべきである
課題を締め切りまでに提出すべきである
家族との時間をとるべきである
などそれは社会のルールとして生き抜くために必要な「すべき」です。

そしてその「すべき」をすることによって、相手から信頼を得られるようになり、より良いプレゼンができるようになり、人間関係を良好なものにする結果を生みます。

でもできない時もあります。
そうすると信頼が失なったりして、そこから学び対策をたて、次に活かそうとします。


問題は、失敗したときに、自分の存在自体までも失うような感覚になってしまうことです。
自分の存在価値と、行動に対して結果は別です。

私たちを生きる社会では、行動に対しての罰として給与が減らされたり、役職が下がるなどをされることによって、それがまるで自分の存在価値までも下がるように思ってしまうのです。


私は元営業マンなので、売上という数字そのものが自分の存在価値と思うことがありました。
成績がいい時は気分が良いのですが、悪い時もあります。
その時の気分の浮き沈みで嫌になることが多々ありました。

でも自分の存在価値は、イエスキリストが代わりに死んでくれたほどに尊いものとして見てくれている、という事実を改めて知った時、営業成績に自分の存在価値が左右されるのではない、ということが分かりました。

そうすると不思議と、その安心感からなのか、安定した営業ができ、結果、営業成績も以前より良くなったと思います。


〜すべきは条件付きで良いものである。
このことを学びました。



今日も最高の1日を😄

God bless you〜(神の恵みがあなたにありますように)

長瀬雄大







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