小林秀雄についてのメモ、または日本美術批評の限界

日本語で、美術の批評的な文章を書く、といったときに、僕には今、小林秀雄のことを無視はできない、という感覚がある。これはきっと、まったく「時代の空気」とはかけ離れた感じ方なのだろう。僕は小林を、いってみれば外国語として読むようなことを考えている。いまや、小林の独特の文章の跳躍、説明の省略などから得られる「効果」は一度その文脈を失い、自明に受け取ることはできなくなっている。相当に頭を使わねばよみとりが難しいし、かつて一世を風靡したらしい小林の作り出す「ムード」は消え去っている。その上で、というよりは、その遥か下層で、小林は日本語の「批評」という、奇妙ななにごとかについて考えることを促している。誰もが当然のようにその存在を疑わない日本語の「批評」などというものが、なぜ成立しているのか。その実体はなんなのか。

以前「組立-転回」という、展示と批評の自主企画の中で美術批評を扱ったとき、シンポジウム(「今、ここにある美術批評(誌)」『組立-転回』に所収、2014年、組立)の中で、従来の日本における「批評」のコノテーションが解体してしまった、という確認が、出席いただいた星野太氏からされた。まさに、その解体後の抑圧の解除を、僕はおそらく利用してしまった側面があるのだけど、しかし、今になって、その抑圧の解除が切り開いた荒廃、戦争や災害の廃墟のようなものの「自由」の苦さ、というものが、反動的に僕に押し寄せているようにも思う。人はだれでも、自分に一番復讐されるのかもしれないが、しかし、そういう苦さから、始められるものも、あるかもしれない。そう思わねばやっていけない、と言ってしまえばそれまでなのだけれど。

ひとまずは、小林の周辺あるいは後続の「コノテーション」を再発掘することからはじめておこう。

人は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するであろうか。あるいは、人はなにを代償として批評家になるのであろうか

有名な江藤淳による「小林秀雄」(『群像 日本の作家14 小林秀雄』所収、1991年、小学館)の冒頭には、しかし注意が必要なところがある。誰もが詩人や小説家になるわけではない。相応のきっかけ、仏教的には「機縁」が、何になるにしても必要なのであり、それは批評家であってもかわらない。だから、ここでの「人」は、小林秀雄という「人」のことなのだ。事実江藤は続けて「すくなくとも私にとっては、小林秀雄を論じようとするとき、最初に想起されるのはこの問題である。」と書く。これに準じて言えば、江藤の言いたいことはこういうことになる。「小林秀雄は詩人や小説家になることができる。だが、いったい、批評家になるということはなにを意味するのであろうか、あるいは、小林は何を代償として批評家になるのであろうか。」

江藤の切り口の鋭さは、小林の初期の小説を読むときよりも、むしろ批評家として地歩を固めた代表的な作家論を読むときに、僕の胸に迫ってくる。「モオツァルト」は無論のこと、「西行」もそのようなものだろう。そして「実朝」を読むときにその感覚は最高に強くなる。なぜなら、小林の「実朝」の近傍で、文字通り小説としての「右大臣実朝」(『惜別』に所収、新潮文庫、2004年)が、太宰治によって書かれているからだ。この近さは同じ人物が扱われている、ということだけではなく、その公開時期にもよる。小林の「実朝」が発表されたのは昭和18年の2月から6月に『文学界』誌上においてだが、太宰の「右大臣実朝」は同年の9月に書き下ろし単行本、という形で世に問われている。戦時下という条件もあるが、それでも既に当時高名、あるいは「売れっ子」であったと思える二人の文学者が並行して同じモチーフを扱ったことは、十分注目されたのではないか。

僕がインターネットで調べた限りこの二つの文章、二人の書き手についての実証的な影響関係についての文献は見当たらなかった。日本文学研究という肥沃な研究者のいる分野で、このテーマが扱われていない、ということは考えにくい。専門家の間では当然踏まえられている筈の前提なのだと想像するが、その研究をみつけられていない僕には、客観的な水準で何も書くことができない。もし書きうるとすれば、それは「信じる」ところ、小林の言う「思い出という本物」の場所での話になる。かろうじて、吉本隆明『源実朝』(ちくま文庫、1990年、筑摩書房)はこの問題をわずかに「かすって」いる──考えてみれば、吉本が語らないはずがない主題ではある。

吉本には実朝を扱った講演もあり、これは「実朝論」で読むことができる。ここで、吉本が論ずるのは太宰からだ。非常に高い評価で、ことに太宰における「キリストとユダ」というキャラクター造形を実朝と実朝暗殺者の公暁にあてはめ、さらにこのユダ=公暁に、水木しげるの「ねずみ男」的なものを重ね合わせて、小説としての「右大臣実朝」の面白さを強調している。対して、小林の「実朝」については、歴史の専門家からは(それこそ実証的な側面について)批判を受けるかもしれないけれども「古典っていうものを、どういうふうに、文学として論ずれば、それは現在によみがえりうる観点が得られるか」という視点でいえば「模範」となるものだと言う。批評文として、小林の文章が「確実に、ここに、非常に、現在っていうものを、よく生きている、ひとりの批評家」、「先駆」であることを認めつつ、しかし論の焦点としては、太宰にフォーカスがあたっている。

ここでの吉本の、太宰と小林の扱いの微妙な差異は、しかし、少々小林にとって同情に値する。小林はむしろ実朝の歌の読み込みをかなり精緻に、しかも単に衒学的にではなく、それこそ「現代に生き生きと蘇っている」ものとして読み込んでいく。そこにあらわれてくるのが実証的な実朝その人の像ではなく、いわば小林秀雄という一つの人格の心理の投影であったとしても、というよりも、そのように現代人につながるような心持ちを、中世人の実朝の歌に見ることが小林の批評、「古典っていうものを、どういうふうに、文学として論ずれば、それは現在によみがえりうる観点が得られるか」という賭けになっているのだ。そして、当初の論点、つまり、小林が小説家ではなく批評家になった、そこで示される「意味」と「代償」もまた、ここに現われてくる。反対から言えば、太宰がもちえた優越性は、単に執筆の時間順序ではない。そうではなくて、「小説」が「批評」に対して持ちえる、形式的かつ原理的な優越性であり、同時にそこで「批評」が代償に差し出しているものが、批評の「賭け」だ、ということになるだろう。

太宰の「右大臣実朝」が、言ってみれば滅び(敗北)の美を描出していること、小林の「実朝」が孤独の無垢さ、あるいは無垢さの孤独を切り出していることに、戦時下の影を見ることは、僕にはそれほど重要なことには思えない。おなじ年に続けて、28歳で政治的な混乱の中で暗殺された実朝が主題化されたことに、戦争への不安が影響していないはずはないが、むしろ、そのような情勢から切り離されてもなお、僕をひきつけるようなある普遍性を太宰と小林はつかみ取っている。それこそが吉本の言う「生きる」=時代状況に偶然的にもうまく寄り添って影響力を持ちえたことよりも、「よみがえる」=時代状況の変化の中で表面的には忘れ去られたうえで、あらためてある生き直しが可能なものを書きえた、それがこの二人のなしたことであるはずだ。

そのようなつかみ取りが重要だったとして、しかしそれが小説であるか批評であるか、その道筋の差異は小さくはない。江藤は先の文章において、小林には二つの死があったことを描出する。一つは中学の一学年上にいた詩人・富永太郎の死であり、もうひとつは20歳で経験した父親の死である。富裕な環境下で「子」としてのびやかな文学的才能を見せながら死んだ富永の後で、小林は父の死と残された母の看病を引き受ける。いわば「子」であることを断念しながら内なる「父」と戦い続けなければならなかった、と江藤は言う。詩人(あるいは小説家)への契機を「子」であることのエゴイズムに、批評家への契機を、「子」の断念と「父」との戦いに見る、という江藤の推論が読み取れる。言うまでもなく、小説を含むすべての近代芸術は、先行する作品への批評的再制作なのであって、小説と批評の差は、思いのほか微妙である。太宰の小説が、漱石から芥川の再読解の上にあることは自明であるし、また小林の批評が、ある小説性を湛えていることもまた、明らかである。にもかかわらず、それぞれの形式がそれぞれに分かれた、そこにどういった岐路があったのか。

江藤は「小林秀雄」の中で、この岐路について十分には書ききっていない。小林の初期小説「一つの脳髄」における「自意識の敗北」を分析的に追ったあと、小林の前に現れた中原中也とその恋人、そしてランボオとの出会いが小林を(小説家ではなく)批評家にした、と予言的に言うのみだ。しかし、ここまでで、江藤のモチーフはおおよそ掴めるように思う。中原の恋人であった長谷川泰子との恋愛関係とその失敗が小林を批評家にした、というのならば、小林の中にある「父」や「母」の、そして詩人富永太郎の、そしてやはり詩人である中原中也とその愛人との関係の“喪失”が小林を批評家にした、という極めて江藤的なロジックが浮かび上がってくる。このような江藤の筆致が、「母」という要素の強調も含めて全体に我田引水、とまでは言わないまでも、やや個人的なバイアスのかかったものであることは間違いがないが、しかし、そもそも文章を読む、というのはそのような個人的なこだわりを捨てきってはできない行為ではある。

ここに、さらに青山二郎との関係を並べてみれば、話はより輻輳する。稀代の「美術批評家」、いわば目利きとして小林が決定的に劣等感を感じていた青山を置いてみると、小林は既存の、戦前的な「批評家」をも“喪失”していたのではないか。江藤は言っている。「小林秀雄以前に批評家がいなかったわけではない。しかし、彼以前に自覚的批評家はいなかった。ここで「自覚的」というのは、批評という行為が彼自身の存在の問題として意識されている、というほどの意味である。彼の出現に先立っていたのは、長い、健康な啓蒙期であった。」端的に言って、小林はそれまでの明治以後の「批評」を全面的に更新しているが、それは、けっして豊かな手持ちカードを組み合わせて行われた事業ではなく、「子」であることを、詩や小説への契機を、そしてさらに青山的な「健康な啓蒙期」としての「批評」を“喪失”してしまった、その条件から強いられた結果、既存の「批評」でも、また小説でもない「なんでもない」もの、どこにも座る場所の見つけられない、新しき批評、としかいいようのないものを作り上げるほかなかったのではないか。

小林の「批評」を厳しく批判する声は十全にある。花田清輝に言わせればそれはただのレトリック以上のものではない、ということになるだろう(花田清輝「聖アウガスチンの感傷──伝記作者・小林秀雄」、『群像 日本の作家14 小林秀雄』所収、1991年、小学館)。花田の言っていることは正しく、そしてそれだけでしかない。より根底的には、おそらくは江藤淳を意識していた柄谷行人が「心理を超えたものの影」(『畏怖する人間』所収、講談社文芸文庫、1990年、講談社)で、小林の「母」に、まったくランボー的な砂漠と対極にある「和らかな安らぎの世界」、「「自然」との親和性に根ざしたオプティミズム」を見ている。

「交通」の抑圧を小林に見る柄谷の「批判」は単純なものではなく、日本において徹底的にものを考えようとしたときに、強いられざるをえない条件を小林(そして吉本)を通してみているのだが、しかし、この柄谷の「批判」を通して見えてくるのは、「批評」が、けっして領域確定的に、つまり前提的にありうるものではない、という、あたりまえの(しかし忘れられやすい)事実ではないか。ことに日本語においてはそうである。人は配られたカードを組み合わせて「批評」を書くのではない。自分が何を失っているのか、喪失の場所からしか、「批評」と呼ばれるしかない文章を書くことはできないのではないか。それが小林と、彼に後続する「批評家」たちが見極めている風景ではないか。柄谷は、中上健次との対話(「小林秀雄を超えて」『ダイアローグ1』所収、1987年、第三文明社)のなかで、そもそも小林を最初から問題にしない論者たちをこそ批判している。小林とそこへの批判-批評をまず通過しなければ、僕はきっとこのさき皮相に上滑りする「批評」、その存在が前提的に了解された、閉域としての「批評」のタームの交換と消費という退廃に落ち込むほかはない。

花田清輝に、そして花田の影響下にあった日本の戦後美術批評家たちに決定的に自覚されなかったのは、このような認識である。相対的に優れた条件を偶然配られた論者たち、豊かさのみを誇示する者たちが、その組み合わせばかりを競っている、その限りにおいては、日本語の美術批評はいまだに小林の『近代絵画』を超えることができない。それどころか、白樺派すら超えているとも言い切れない。我々は、いまだにゼロから話をし始めるしかない自覚を必要としている。

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