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【ネタバレ注意】シン・エヴァンゲリオン劇場版 考察 二人のアスカ 「オリジナル」のアスカは誰だったのか 浜辺のアスカはどんな意味だったのか 一つの答え

始めに


 こうしてnoteを投稿した理由は、自分の導き出した答えが、誰かの助けになればと願ったからである。
 3月8日から3日連続で3回「シン・エヴァンゲリオン」を見たが、自分にとって一度目の衝撃は大きかった。やはり特に式波シリーズ、アスカの心変わり、大人への変貌はとても傷の残る経験だった。
 同時に、エヴァンゲリオンはすごく難解な物語だった。故に、共に映画を見に行った友人とは半日以上そのことについて討論しあい、互いの解釈をすり合わせた。
 見た人なら絶対にわかると思う。この物語は様々な解釈が可能だ。大きな例としては「大人になった」といったアスカのセリフを肉体的にとるのか。精神的にとるのかというものだ。
 この物語にきっと明確な答えはない。
 故に自分たちでこの物語の受け取り方にしっかりと答えを出すために、何度も劇場に通い注目するシーンをピックアップし、注視しながら模索した。
ここにはそれによって得られた一つの解釈。考察。答えを提示したいと思う。
 もしもこの映画を見て心傷つき、偶然にもこのつたない文を見て、もしかしたら愛しなおせるかもしれないと思った人が一人でもいたら、私はこの文を書いて心の底からよかったと思う。
 故にこの文は、エヴァンゲリオンを愛しているからこそ自分の解釈に傷つき、もしかしたらとオアシスを探して彷徨って、そうしてここまでたどり着いてくれたあなたを救うために書くものである。


結論

 ここでは本作13号機内でアスカを取り込もうとした「オリジナル」のアスカとは破に登場した式波・アスカ・ラングレーではないのかという仮説とそれに伴う論証と結論を提示する
 そして浜辺でシンジと逢瀬を過ごしたのは「オリジナル」に近い二人の融合体であり、またその後ケンスケの元に戻って行ったアスカは、「スペア」のアスカという推察を述べる。
 つまり、あの数分のシーン間でアスカの内面や外装は目まぐるしく変化しており、そのため破のアスカも、Q+シンのアスカも、形は違ったとしても救われているのではないかということを証明したい。


1 主題 「オリジナル」とは。+またそれに伴うこのノートでの各用語の定義

 本ノートでの最終的な目的は、13号機内部にて登場した「オリジナル」のアスカが一体何なのかを読み解くことだ。
 そして、それらに関してまず前提として定義しなければならない事柄がいくつかあるためこのノート上での定義をここではまず語る。

① 「オリジナル」という語句について
 新劇場版で同様の意味で用いられた「オリジナル」という言葉は、Qにてマリが黒い綾波(以降黒波)に対して使った言葉である。
これに対しては大きく解釈が分かれる点だろう。「遺伝子」としてのオリジナルを指すのであればユイを、「個体」としてのオリジナルを指すのならば綾波レイを指すからだ。本ノート上ではこれに関してユイではなく綾波レイを指す単語であると定義する。つまり本ストーリーにおけるクローンのオリジナルとは「最初の個体」であるとする。
故に、重要である「アスカ」のオリジナルは「惣流」などの遺伝子元ではなく、シン・エヴァンゲリオンに登場する「アスカ」の前に「アスカ」だったものを指すものとしたい。

② 終盤回想にて登場し、残る2枚の写真の二人
 二つ目の定義は結論や一つ目の定義、終盤に登場する残った二つの個体についてである。それらをここでは明確に二人とも「式波アスカ」として存在したものとし、破でのアスカを「オリジナル」、Q以降のアスカを「スペア」という語句として別の存在として扱う。以後その二つの単語はそれを指すものとする

③ 惣流(式波型クローンを製造するための遺伝子元)の存在の有無
 上で上げた二点に加えて、最重要の一端ともいえる本映画における惣流の立ち位置についてこの文内における立ち位置をここで提示しておきたい。
 ここでは遺伝子元としての惣流は「オリジナル」と呼称されたものと別の個体であるとだけしたい。つまり、上でも挙げた通り最終盤においてアスカの回想シーンに登場した二枚の写真の個体とは違うということである。
 故に、ここでは「本当に新劇場版の世界線において惣流・アスカ・ラングレーが存在したか否か」については言及しない。それは本文で述べることとそれが直接的に関係しないからという点と、旧劇場版でのアスカの解釈によってこの存在の解釈が変わること、「惣流」が存在したとした場合にどうしても起こる「惣流が本作の物語において完全に不干渉であった意味」を定義かできないという問題と共に生じる「惣流」が存在しなかったとする場合の「遺伝子情報の元はどこにあるのか」というどちらを認めようと生じてしまう互いの矛盾を解消できなかった故である。私自身は旧劇場版は旧として完結していてほしいために「惣流」は存在しなかったとする派だが、もしもここに関して何か考察や知識を持つ方は意見を頂けると幸いである。

④ この作品が一つのメタフィクション的視点で描かれていること
 メタフィクションとは高次的存在を許容した作品を指している。特にゲンドウやカヲルはそれを代表したキャラクターであるといえる。
 この作品をここから語っていくうえで重要な前提として最後のシンジの選択や、ミサトが槍を届けてくるまでは物語のすべてがゲンドウのシナリオで進んでおり、それまではゼーレのシナリオをなぞっている。
 そのため、ゲンドウやゼーレ視点がかかわる解釈を行う際には、演者としての立ち位置ではなく脚本家として同キャラクターを動かせばいいかという方向性に話を進めなければならない。
 故に、それらの解釈は非常に後出し、逆算方式になる。
 つまりそれらの登場人物の行動原理は、「誰かがこう動いたからこうした」という運命に対し受動的なものではなく「誰かをこう動かすためにこうする」という能動的な操作に酷似したものになる。

 以上4つを定義として頭に入れたうえでこの先を読んでもらえると嬉しい。

2 2人のアスカ


 本題に入る。
 本作において特に特徴的だったのは、式波・アスカ・ラングレーというキャラクターが式波シリーズと呼ばれるクローン個体だったことだ。それにより立場が綾波レイとより近く対比関係になると同時に、「オリジナル」や「別個体」という同一人物に見えるキャラクターが本当に同じなのかという信憑性を疑わせる、いわゆる「どこからどこまでがその個体であったのか」という推察を要求することとなった。
 物語最終盤、シンジはゲンドウと和解したのち、世界を再構成する前にそれぞれのキャラクターと向き合うこととなる。そのトップバッターとなるのが、アスカである。
 多くの大きな筒状の水槽に浮かべられたアスカは綾波レイと酷似した状態であることが推察できた。エヴァンゲリオン操縦技術と学ぶと同時に大量のクローンが選別されていたことを示唆するかのように張り付けられたアスカの写真は回想が進むとともに減っていく。
 その際、最後の場面では画面中央部に一枚、その写真の左下にもう一枚、計二枚の写真が残されていた。
 まさしくその点に焦点を当てるかのように、物語中盤、アスカが自身の目玉から小型化されたアンチLシステムを取り除き肉体を使徒化させたのちに13号機に干渉された際、13号機内部からアスカ自身が式波シリーズのオリジナルと呼称する個体がアスカを取り込もうとする。実際それによって2号機はエントリープラグを取り除かれ、その後13号機内部に2号機のエントリープラグを捕食されるという形でアスカの肉体魂ともにコア内部に吸収される結果となる。
 とりあえず、ここまでの情報より引き出せる重要な項目は以下の2点である。
Ⅰ式波型は最終的に2体残った
Ⅱうち、オリジナルは13号機のコア内部に存在している


3 破とQ+シンのアスカの違い


 これはシンが始まる前にも多くの議論を呼んだ話題である。
 多くの人がすでに知っていると思うが、眼帯の有無や人格、着用しているスーツやシンジに対する好感度など様々な点が異なっている。
 ここでは、特に今回の映画で破と同じ構図を取りながら全く違うセリフ表現にすることによって描かれた二つの個体の違いについて焦点化する。
 破の冒頭から18分ほどたったアスカの部屋でのシーン。シンジに裸を見られた後、アスカが自分の部屋で寝転んでいる場面。天井からの視点で描かれる左手に人形を持ち、その後のカットでアスカの右頬が左側に人形が右上部に描かれている場面である。
 これと全く同じ構図が、シンエヴァ内にも存在する。アスカ回想シーンにて、水槽内で自分の両親がいないことを述べた後に全く同じ構図のシーンが描かれるのである。
 そして、その際のセリフが実は大きく違うのだ。
 破のセリフは「一人でやるしかないのよ」。
 シンのセリフは「誰もいらないのよ」。である。
 この違いを私はとても大きなものであると感じる。破におけるこのセリフは、一人で生きることを「義務」としてとらえている節がある。そのため、破ではアスカはこのすぐ後の使徒戦においてシンジとレイとの共闘を強制され、結果的に仲間がいたがゆえに勝利することができる。またそれによって一人で戦わなかったという事実を得、シンジがそれで父に褒められたことを嬉しがっていたことによって自分のような思いを抱く人が近くにいる事実を知り、シンジのそばで寝転がることで他者のそばにいるぬくもりを僅かながらに知ったのである。実際にこの後のアスカは3号機に乗る前に「でも最近、他人といるのもいいなって思うこともあったんだ」といっている。そして「誰かと話すって心地いいのね。知らなかった」とつぶやいている。
 それとは全く逆のことを、シンエヴァのアスカは同様の構図にて回想している。「誰もいらないのよ」とは他者の「拒絶」である。前述した「義務」としてのニュアンスよりも強く、自分の立場に対する納得を感じさせるものである。
 仮に、この発言が14年後のシーンとして描かれているのならば成長という言葉を使って納得することができる。実際にアスカはケンスケのセーフハウスにて「当たり前なのよ」という形で自身が孤独である現状に対して「諦観」している。これは非常にアスカの精神年齢が高くなった証拠であろう。
 だが、回想のシーンは明らかに「破のセットで描かれた」アスカなのである。
 このスタンス、「義務」と「拒絶」という孤独に対する思い方の違いを、実は破のアスカとQ以降のアスカの発言に見ることができる。
 破のアスカの人柄が見えやすいシーンとして挙げられるのは、シンジの隣で寝ながらエヴァになぜ乗るのかを問うシーンと、レイにシンジのことをどう思っているかを問うときである。
 これらには、共通していることがある。それが問いの順序である。
 これは非常に単純なことで、破のアスカは①自分の立場や意思を明確に伝え②相手の立場や意思を聞くのだ。
 シンジの問いにたいして「自分のためよ」と短く語ったのちに、「あんたはどうなのよ」と聞き返し、答えられないシンジに対して責任逃れといい、褒められてうれしかったと話すシンジに対して少しだけ微笑んで「あんたってホントにバカね」とつぶやく。
 レイに対してもそうである。自分のエヴァに乗る正当性をここぞとばかりに告げ、レイに「人形」だと強く言い放つくせして、明らかに人形としての回答が期待できないのにもかかわらずシンジをどう思っているのかを問い、結果的にちゃんとレイがシンジをどんな形であれ好きということを理解している。
 共通しているのは、他者を理解しようとしていることなのだ。決めつけたように先に話す癖に、最終的な問いはそれを自ら否定するようなものであり、それによって得た回答に対しても許容的なのだ。
 破のアスカは、どこまでも孤独であることを自覚しているうえで、それでも他者を理解しようと努力し、近づけたことを喜んでいるのだ。結果的に3号機の中でアスカは「笑えるんだ」と言っている。
 そんな人間が果たしてそのころの回想を「誰もいらないのよ」などというだろうか。
 さて、では対照的になるQ+シンのアスカはどうであろうか。
 特にシンエヴァでの冒頭部、シンジに対する当たり方や問いの傾向を考えていきたい。
 アスカは最初から、明確にシンジの立場と今の思いを全く問うことはなく決めつけている。「どうせやることなすこと裏目に出て、何もしたくないってだけでしょう?」やほかのセリフからもシンジは『どうせ』こう思っているのだろうという決めつけからシンエヴァのアスカは絶対に脱さない。
 顕著なのがレーションを強制的に食べさせながら話すシーン。「なんであの時、私があんたを殴りたかったのか。考えてみろ」というセリフである。
 この問いの答えが「責任を取りたくなかった」というシンジの心に対する憤りであることが物語中盤でわかる。
 つまり、アスカはシンジが3号機を破壊できず、結果的にダミーシステムに破壊された理由を、「責任を取りたくなかったから」と決めつけたうえで、その問いを投げているのだ。
 だが果たしてあの時のシンジの思いをそれだけと断定できる人が果たしてどれだけいるだろうか。実際にあの後シンジは認めてほしかった父と敵対することをいとわずにアスカの生死を危うくしたことに対して憤っており、確かに責任を取りたくなかっただろうと思うことはできるが、それだけではないだろうと一視聴者ですら思っている。あのシーンのシンジのいわば悟りに、納得のいかない人も中にはいるのではないだろうか。
 これは、実は破のアスカにはない傾向なのだ。問いの順序が逆転している。①先に相手の思いや立場を決めつけたうえで②自分が望んだ回答を得ようとしているのだ。②を言い換えるのならば、「自分の意見を理解してほしい」という形にも思えるだろう。
 二人とも孤独を理解したうえで、「孤独は義務であるがゆえに、誰かを理解したい」とする者と「他者を自分の意志で拒絶したことで孤独であるがゆえに、誰かの意志で自分を見つけてほしい」という者という違いがあると解釈することもできるのではないだろうか。
 もちろんここで述べたことが式波・アスカ・ラングレーを語るすべてではない。しかしもし破のアスカとQのアスカとの間に言語化できない不明瞭な違和感を抱いた人の手助けには成るのではないかと思う。
ここで述べた、同一シーンにおけるセリフの違いが、破とQ+シンのアスカを分ける一つの大きな根拠である。



幕間 「惣流」が存在した場合としなかった場合の疑問点


 前提として飛ばしてはいるものの、個人的に疑問として残っていて、この文を書くうえで解釈時に断定しきれなかった要素としてこの話題を幕間として書き連ねたいと思う。
 遺伝子元としての存在を仮称「惣流」としたとき、その存在をするとした場合としないとした場合では大きく物語の解釈が変わる。
 そして、この存在を認めるか否かに関して大きな要素として挙げられるのは「ループ」と「パラレルワールド」の解釈である。
 シンエヴァでシンジはカヲルと二人で浜にいるシーンで「何度もここに来たことがある」と明言している。また輪廻などのセリフや電車から降りるという行為などからも少なくとも世界のやり直しが起こっているのは確定している。つまり、「前回」を知っている、あるいは記憶している媒体が存在するのだろう。
 こういった時間回帰系シナリオでよく議論されるのが、世界線の数である。要するに、「ループ」しているがゆえに分岐はしていない「上書き型」や「延長戦型」と、「パラレルワールド」つまり平行世界を移動しているという「別世界型」に認識が分かれてしまうからだ。
 この解釈は非常に重要で、特に「上書き型」や「延長戦型」は歩んだ世界がなかったことになってしまうという弊害があるのに対して、「別世界型」では過去を変えることはできないという弊害が存在している。また「別世界型」では違う世界の人間を違う世界からでは救えないという問題も同時に存在している。
 少し話題がそれてしまうが、この件に関して個人的な解釈を述べるのなら、おそらくシンエヴァで語られたエヴァンゲリオンという作品全体の構造については、おそらく「別世界型」ではないかと思う。
 根拠としては3点ある。
① すでに漫画版の世界が「上書き型」である点
② シンジが乗っているのが電車であり、ゲンドウが下車をしたという点
③ 最後にアスカがケンスケのセーフハウスに帰り、乗員があの世界に帰った点
 1点目は漫画版のエンディングがそうであるからだ。メタ的な視点になってはしまうのだが、果たしてわざわざストーリーを分けたうえで、最終的な結論や構成が同じであるとは思えない。それでは漫画版のエンディングに価値がなくなってしまうし、同様に今回のシンジたちのはあの世界を壊したもしくはその延長線上に存在しているとなれば、それはそれで価値が落ちてしまうだろう。
 2点目は電車の特性とゲンドウの下車に意味を見出す解釈の話となる。駅をそれぞれの世界線と考えると、ゲンドウとカヲルが電車で世界線を移動してきたことに納得できるし、シンジはその後エヴァンゲリオンのない「終点」を作ったと考えると綺麗に収まる気がする。
 3点目は個人的な好みもあるのだが、乗員とアスカがわざわざエヴァによる爪痕の残った世界に戻ったのにもかかわらず、その世界がシンジの手によってエヴァのない世界に書き換えられていたと考えると、それまでの努力や苦難、道のりが幸せな世界に上書きされてしまう。
 しかし、レイとシンジの二人の回想にてはシンジは「作り変えるだけだ」という形で言っている。これではまるで「上書き型」のようにも思えるため、一概には言えないように思える。あくまで、これらは私の仮説だ。

 話を戻す。「惣流」がこの世界に存在したとする。ここでの「惣流」とはアニメ版などの「惣流」と考えて間違いない。
 存在したとした場合に少なくとも起きる疑問が点ある
① そもそもなぜクローンを製造しなければならなかったのか。本人ではいけなかったのか
② 本人の所在は。生死は
③ 仮に「オリジナル」が「惣流」を指すとして、なぜ13号機内に取り残されているのか

 一点目に関して。後にも語ることにするが、新劇場版世界線においてはコアと搭乗者の関係がおそらく原作と異なるのだろう。シンエヴァでアスカが、パイロットがエヴァに乗る際に使徒にならないように肉体と精神両面ともに調整されていると言及している。Qでもシンジが冬月からユイについての話を聞いている際にその時の記憶を失っていることを示唆しており、それについても「調整」という単語を使用している。また自爆した二号機が普通に再度作られて登場するなどアニメ版では考えられない現象も起きている。アニメ版では言及された「碇ユイ」「アスカの母親」などのいわゆるエヴァとパイロットの中継器的な役割をする魂についての言及は、ユイは描写としてはあるがアスカの場合存在しない。それ故にそもそも「惣流」本人では動かせない。または動かすためには身体を調整されたクローンでなければいけない可能性がある。そうであるのならばクローンが製造されたことに関しては納得ができる。本人ではいけなかったのだ。
 二点目の所在について、本文の過程通りに「オリジナル」が「惣流」でないとしたら、完全に不明である。もしもそれについての手がかりや描写があったら教えてほしい。
 三点目について。では本文の仮定が最初から間違っており、「オリジナル」が「惣流」を、つまりあの水槽内にいたもう一人の写真のアスカが「惣流」だったとする場合のことを考えた場合どうなるだろうか。まず、この条件だと1点目の話題が矛盾する。惣流でエヴァが操作可能なら、なぜ2号機を惣流に操作させないのかわからなくなる。クローンを製造した意味が分からなくなるのだ。「惣流」が「式波」に大きく劣ると推察されてクローンを製造したのならば、選別の中なぜ最後まで残っているのかがわからなくなる。バックアップとして「惣流」でないアスカが必要だとするならば、なぜバックアップの方が優先されて破で登場したのかが不明だ。
 であれば、贄としてただ13号機に取り込まれるために育てられたなら、あそこの場面でわざわざ自我を持って「式波」を取り込もうとした動機が分からない。新劇場版において何一つストーリーに関与していない「惣流」があの場面で「式波」を取り込む理由とは何だろうか。
 では「惣流」が旧劇場版の記憶を仮に保持していたとしたらどうだろう。動機としては成り立つのだろうか。個人的にはそれにも疑問が残るが、それ以上にそれを満たすためには、そもそもカヲルの立ち位置に「惣流・アスカ・ラングレー」がいなければならない。果たして、旧劇場版のあの世界に取り残されたもう一人のシンジは少なくとも二号機対13号機のタイミングでその記憶を保持していないのに、「惣流」は新劇場版の世界にてそれよりも前にその記憶を保持することがシナリオ上許されるのだろうか。私は、それに関しては大きく疑問が残る。それでは、各世界線の記憶を保持するというカヲルの立場が固有のものではなくなってしまい、価値がなくなってしまうからだ。
 そもそも従来の原作(アニメ版や漫画版)をなぞる形で物語を進めることをゼーレのシナリオの原案、参考文献ならば、式波ではなく惣流のほうが問題ないのではないだろうか。惣流はシンジを絶対に好きになるわけではないといえなくもないが、あの点に関してはおそらくメタ的な意味が大きく含んでいるので本義とずれるだろう(意味とは視聴者がアスカとレイはシンジを形はどうあれ必要とする前提を含んだ構造を生かした設定のこと。ゆえに新劇場版の「惣流」もどんな形であれシンジに他と類似する感情を抱かなければ成り立たない)。
 逆にもし提供者として「惣流」が存在していたとして、あの張り付けられた写真の二人は別に存在すると。つまりアスカが3人いたとするならば、「オリジナル」が「惣流」だとすると、残りの一人があぶれてしまう。
 ゆえに、「オリジナル」が「惣流」とするならば、これらの疑問を完全に消化する根拠が必要になってしまう。故に私はこの可能性を排除した。しかし、これは私の読み込みが足らない可能性も否めない。
 また逆にこの「惣流」は別で提供者として存在しているとするのならば(エヴァにかかわらずに遺伝子を提供してただ生きているとするならば)少なくとも「オリジナル」と呼ばれたのは「惣流」ではなくなる。
 私が前提でどちらにせよ関係ないとした理由はこれである。

 では「惣流」が存在しなかった場合の問題点はなんだろうか。
① どこから遺伝子元を入手したのか
② 入手できたとして「惣流・アスカ・ラングレー」がキーパーソンであるとどう知ったか

 主にこの2点に集約されるだろう。
 正規の手段であれば達成できないであろうこの問題に関しては、実は割とたやすく達成することはできる。
 それは、「前回」を経験しているものが存在しているという前提があるからである。つまり、「前回のシナリオ」上で重要であった人間の遺伝子情報を新劇場版の世界線に持ち込むことができるのならば、これは意外と簡単に達成できる。ここも後で大きく触れるが、実際にゲンドウはゼーレのシナリオと自身のシナリオという複雑怪奇で普通なら達成できない超高難易度な状況を作り出すことに成功している。
 アスカのクローンを制作した理由も「そもそもこの世界にはなぜかいなかったから」という非常にわかりやすい理由で片づけられてしまう。
だが、これは問題としていわゆる「何でもありじゃないか」という感想を抱いてしまう。
「アスカはこのストーリーには必要だけど、なんかこの世界にはいなかったから作んなきゃいけなかったんだよね」というのは、問題を解決にはなるものの、世界観そのものの崩壊を招いてしまうからだ。

 というように、どちらの解釈も素直に頷くには難しいものだったりする。
 一方はシナリオの構成と意義による矛盾を、一方はシナリオの土台の崩壊を招くため断言は困難であると思う。
 しかし、個人的な結論としてはどちらにせよ「オリジナル」と呼ばれた個体は「惣流」ではないという解釈をしている。故に、私は本文において「本当に新劇場版の世界線において惣流・アスカ・ラングレーが存在したか否か」については言及しないという上記の定義をはじめに行った。
 もちろん、これが唯一の答えではないということを強く言っておきたい。



4 これまでの仮定から逆算する13号機内にオリジナルがいなければならない意味


 では、仮に上で述べた仮定が正しかったうえで、それが作中における意図をここでは考えていきたい。
 つまり、オリジナルの魂がなぜ13号機内になければいけないのかという本題である。
 これを語るうえで、重要になってくるのが新劇場版の世界においてすべてのシナリオを描いていたのであろうゲンドウの思考である。
 シンエヴァ内で冬月が述べていたように、今までの経過はすべてゼーレのシナリオ通りだったらしい。そして、13号機起動時周辺からゼーレのシナリオを脱してその延長線上にゲンドウは自身のシナリオを描いた。
 さて、それではそのことについて冷静になってみよう。ここまでがすべてシナリオ通りだったとする。
① シンジが第三新東京市に来る
② 使徒をいっぱい倒す
③ 「こんなときどんな顔したらいいかわからないの」「笑えばいいと思うよ」
④ アスカ襲来 同居開始
⑤ アスカシンジレイ共闘 使徒撃破
⑥ 第一次アスカ+レイデレ期突入

 何となく、この辺までは予測が可能であるように思える。

⑦ アスカが浸食された三号機に搭乗
⑧ シンジは撃破することなくダミーシステムはアスカのプラグを捕食
⑨ 第10使徒襲来 レイ捕食される
⑩ シンジ初号機に搭乗 覚醒しニアサード発生
⑪ その際にレイを第10使徒から取り戻すもレイはシンジの「もう二度とエヴァに乗りたくない」という願いをかなえるために初号機コア内部に残り続ける。

 さて、この辺で何となく意味が分からなくなってくる。冬月曰くアスカが三号機に搭乗して使徒に浸食されることも、ダミーシステムがアスカのプラグを捕食しだすことも、初号機の左手が生えてくることも、さらにシンジが二度とエヴァ乗らないようにするという願いをしっかり読み取ってレイが初号機内に残ることも予見されていたシナリオである。すさまじく繊細なシナリオではないだろうか。
 その癖、第10使徒が来た際にダミーシステムが動かなかったときには、ゲンドウはなぜか「なぜ私を拒絶する。ユイ」と言っている。すべてがシナリオ通りであったのならばシンジが第10使徒を使徒化しながら撃墜することを予見していたはずなので、あの時のゲンドウはユイがダミープラグを受け入れないのをわかってたのにわざわざ入れたのだろう。演技だろうか。やはりゲンドウは演技派である。
 でもまだまだこんなもんじゃ終わらない。ゼーレのシナリオはさらに大胆かつ繊細になっていく。

⑫ 14年後にヴンダー内部にてシンジ目を覚ます。その際に搭乗員を中心に特にミサトさんに拒絶され反抗
⑬ Mark.9の手でシンジヴンダーを脱出 その際にミサトはチョーカーを起爆しない
⑭ チョーカーをカヲルがシンジから受け取る
⑮ なんやかんやでシンジはカヲルと13号機に搭乗
⑯ 槍を抜く直前にタイミングよく2号機と8号機が敵対
⑰ 槍を抜きフォースインパクトが発生
⑱ カヲルが自らに槍を指すと同時にチョーカーが作動し爆死
⑲ フォースインパクト停止

 さて、ここまでくるといよいよ雲行きが怪しくなる。つまりゲンドウたちは、ヴンダー脱出時にミサトがチョーカーを作動してシンジがあの時点で爆死しないと確信している。さらにカヲルがシンジからチョーカーを受け取ることを予期していて、槍を抜く直前のタイミングでヴンダー、2号機、8号機が到着することを知っており、さらにループを重ね記憶を蓄積しているカヲルがあのタイミングまでゲンドウたちの意図に気づかなくて、さらに意図をなんとなく悟ったうえでカヲルがシンジの説得に失敗し、さらにそれをシンジが無視して槍を抜き、その結果カヲルが自死という形でフォースを止めることまでシナリオ通りなのだという。
 なんなら彼らはミサト側の動きをすべて認知しているということなのだ。惨めなことにヴィレが成功した攻撃はすべてわざわざ成功させた、ある種の自演行為らしい。かわいそうに。確かに冬月に試されていたようだ。
 Qシンジが二次創作で語られるような「ちょっと冷静になって考えてみよう」という選択をしたらどうするつもりだったのだろうか。そう思ってしまうほどにゼーレのシナリオは繊細過ぎる。
 そして、いよいよシンエヴァである。

⑳ アスカがシンジ+黒波を見捨てることなく第三村へ
21 黒波農業体験。何となく心を得る
22 シンジ友人と会うも心折れたまま家出
23 黒波によってシンジ立ち直る
24 黒波爆死 シンジ決意を新たにする
25 ヴンダー黒き月+13号機を追いに南極へ
26 艦隊戦にぎりぎり勝利
27 13号機の元に2号機と8号機を送り届ける
28 ATフィールドがないはずの13号機に2号機ビビり杭を打ち込めない
29 アスカ瞳から柱を抜き覚醒 使徒化
30 使徒化したアスカを13号機内にいたアスカが取り込む
31 2号機敗北 13号機2号機のエントリープラグを捕食
32 マイナス宇宙へ
33 シンジ「僕が乗ります」
34 ミサト「行きなさいシンジ君」
35 8号機でシンジをマイナス宇宙へ。シンジ、レイをアンカーに初号機に搭乗
36 息子VS父実現

 もう意味が分からない。シンジがドム化したゲンドウの前に現れ、その後マイナス宇宙で初号機に搭乗しゲンドウと戦闘することすらシナリオ上らしいのだ。つまり、シンジが黒波の言葉で立ち直ることも、黒波が死亡したことでもう一度ヴンダーに搭乗する決意をしたことも、ミサトがそれを許すことも、マリではなくアスカが13号機の元に行くということも、アスカが最後の手段として使徒化する選択をすることも、シンジがもう一度エヴァに乗る決意をすることも、ミサトがそれを許すことも、サクラがそれを止めようとして拳銃を打つことも、それをミサトがかばうこともすべて計算通りなのだ。素晴らしきかなゼーレ。素晴らしきかなゲンドウ。

 ここまでで言ってきたことは、何も何でもありかよと愚痴を言いたいわけではない。それだけはわかってほしい。
 ここまで強調した表現をしたのは、ここまで個人の心理状況などが左右するであろう偶発的な現象すら書かれた超繊細なシナリオを再現することができたという事実を認識してほしかったからである。
 そして同時に、新劇場版で起きた状況はすべてゲンドウにとって必要だったために起こされた必然性を保有しているということだ。最終的なエンディングにおいてのミサトやヴンダークルー、シンジの言動を除き、すべてはゲンドウたちの意図にそって必然的に発生している。
 大前提として、これらの脚本をゲンドウはすべて認識しているのだ。であれば、ゲンドウは序や破の地点で、Qやシンにおいて起きてほしい状況の前準備をすることが可能であるのではないか。
 つまり、上記での31を満たすために、①~⑪内で行動を行うことができるのではないだろうか。



5 オリジナルが13号機内部に存在しなければいけないという必然性

 さて、4ではゲンドウたちが行ってきた偉業と、それに伴うストーリーの必然性について語ってきた。
 つまり、13号機内部にオリジナルの魂が残留されていたのは必要だったからであり、その際にスペアが使徒化している状態であったことも必要だったからである。
 この件に関していくつか疑問点がある。
① なぜ使徒化したスペアが必要だったのか
② なぜアスカでなければいけなかったのか
③ なぜオリジナルの魂だけでは不十分だったのか
④ 重複するオリジナルとスペアの魂はどうなるのか。スペアの魂だけではいけなかったのか

 一つ目に関して、これは割と簡単に解釈ができる。シンエヴァでアスカが13号機に対してATフィールドはないはずという言及をしている。またQでは黒波ではなくシンジが乗らなければいけないことに対して「リリンの模造品では無理だ。魂の場所が違うからね」とカヲルが言及している。具体的な魂の場所やこの言葉の本義については、私は知見がないのだが、言葉の表面と実際の状況証拠のみを頼りに推察するのなら、リリンではない生命でないと無理だと解釈するか、模造品でなければ可能だとする解釈の二通りに分かれる。アニメ版的からも考えるのなら後者はすでにシンジが初号機内部で使徒化、少なくともリリンもどきといわれる程度には人間ではなくなっているために不可能となる。
 であれば、この件に関しては「使徒」ないしは「リリンでないもの」が二人搭乗する必要があったと考えるのがいいのではないか。
 二つ目に関して、一つ目で述べた前提に合わせて、4や前提で述べた物語の逆算から考えてみる。
 シンエヴァ中盤にて、13号機内部には二人の搭乗者が存在していなければならない。片方はオリジナルが正面に立った際に股の間に立っており、またマイナス宇宙にも登場したカヲルだろう。
 ここで重要なのが、シンジがその後敵対する形で初号機に搭乗していなければいけないということだ。マイナス宇宙においてシンジとゲンドウが対話という形で対峙することをゲンドウは必要な工程と述べている。また同時にシンジはユイのマテリアルとして存在している必要があったかもしれないため、あの瞬間13号機に搭乗することが不可能である。(ここに関して、ゲンドウが最後まで迷っていたという言及があるため、ユイの再生とシンジの存在が直接的に結びつくか否かに関しては議論の余地がある。少なくとも対峙すること自体は必要な工程であった模様)
 同様の理由で綾波レイも不可能だ。綾波レイが初号機に残っていない場合シンジが初号機に搭乗することができてしまう恐れがありQが成り立たなくなる。またマイナス宇宙内で初号機内にシンジを導く役目を負うべき存在がいなくなってしまう。そのため、レイも13号機に乗せることができない。
 ここまでのことから、シンジ、レイ、カヲル以外でもう一人、体と魂ともに使徒化したエヴァンゲリオンパイロットが最終盤にてもう一人必要となるのだ。故に、第9使徒を意図的に寄生させたアスカを使用したと考えられる。
 三つ目に関して、操縦はいったん置いておいても、覚醒が使徒化したアスカを取り込んだ瞬間に起きたこと、Qにてカヲルが死亡していてもシンジが乗っている状態ではガフの扉が閉まらないことから、二つの槍を使用し扉を開けること自体のトリガーが「二つの使徒化した魂と一つの肉体を用意する」ことであろうことが推察される。カヲルの肉体はすでに失われているため、別の使徒化した肉体が必要であることは想像に難くない。
 さて、4つめ。個人的には最上位の疑問として、なぜそもそもオリジナルの魂だけを13号機内に残していたのだろうか。
 先ほどまでの条件と共に、次の項でさらに詳しく掘り下げていきたい。


6 青い目をした「オリジナル」のアスカ

 前回の項にて、13号機には使徒化した魂と肉体を持つものが搭乗しなければならないのではないかという解釈を述べた。 
 まず、オリジナルが仮に破のアスカであり、魂と肉体ともに使徒に汚染されていたとしよう。その場合、13号機内部にそれを入れた時点で、シンジとカヲルがともに13号機に乗らなければいけない理由、状況が存在しなくなってしまう。
 少なくとも「二つの魂と一つの肉体が必要」だとして、そのうち一つの魂以外を満たした時点で、操縦席が一つ埋まってしまうのだ。それではカヲルをあの内部で死なせ、シンジにトラウマを押し付けたうえでフォースを途中で終えるという条件を達成することができなくなる。
 故に、アスカを13号機内部に入れなければならないとしてもQのあの時点で両方共を入れてしまうことはできない。

 では次に、シンエヴァでの13号機と弐号機の戦闘時の描写について考える。
 スペアのアスカは青く光る左目から小型化されたアンチLシステムの杭を引きずり出し自分をさらに使徒へと近づけていく。その際にもう片方の瞳は緑色に光っていく。
 そして覚醒したアスカは自ら手にした武器を13号機へと向け、目覚めた13号機に撃破される。首を絞められながらもがく中でエントリープラグ内に青い光と共に自らと同じ姿をした「オリジナル」がアスカに接近する。
 そしてそこでオリジナルは「13号機は神と同じ姿。あなたも愛と共に私を受け入れるだけ」と微笑み、それを拒絶するアスカに対して「無駄よ。お馬鹿さん」とつぶやいたのちに引き寄せていく。
 これがそのシーンの描写であるが、ここで考えたいことがある。
 それが、青い光、青い姿、青い瞳である。
 これらはすべて、破においてもシンにおいてもアスカが対面する使徒を象徴するカラーリングなのだ。
 実際にアスカの使徒化した瞳は青く光っており、逆に使徒化していない瞳は緑色に光っている。
 そして、「オリジナル」は全身が青で構成されており、スペアの人間である瞳が緑に光る中で、青い瞳のままスペアに対して話しかけている。
 状況的には、「オリジナル」のアスカは使徒化していると考えられるのではないだろうか。

 だが、ここで勘のいい人は察したのではないだろうか。もしもオリジナルの魂が使徒化していた場合、シンジとカヲルが二人で乗れたのはおかしいのではないかと。
 仮に最大値を取ったとする。シンジもカヲルも肉体精神共に使徒化していたとするならば、Qのあのタイミングでは使徒化した体が2つに魂が3つの計算になる。これではあまりに過剰が過ぎる。また、上で上げた私自身の解釈である「二つの魂と一つの肉体」という仮定に対しても、もしもオリジナルの魂が使徒化した状態ですでに保存されていた場合、カヲル一人でも槍を抜くことが可能になってしまう。
 では、実際にはどうだったのだろうか。
 カヲルの設定をアニメ版と類似させるのならば、肉体が人間で魂がアダムのものであることになる。
 これに関しては個人的に答えを出せていない。アニメ版準拠ならば確かに人間の身体といえるのだが、それだとQの発言が引っかかる。「リリンの模造品では無理だ」を発言した本人がリリンの体であると確信を持つことができないからだ。
 では、シンジはどうだろう。そもそもシンジの魂は使徒化しているのかという点だ。
 それを語るうえで重要なのが、シンエヴァ最終盤でゲンドウが告げた「人を捨てた自分がなぜATフィールドを持つのか」という疑問を吐いたことである。その発言と、さらにアスカの発言から13号機の背景として今回の映画で描かれた、ATフィールドが存在しないはずであるということ。それら二つからも、使徒化した人間の魂からはATフィールドが発生しないのではないかという一つの仮定が成り立つ。
 だが、Qにてシンジは13号機に乗りながらアスカの攻撃に対してATフィールドを用いて防御している。またマイナス宇宙内での戦闘においてもシンジは同様にATフィールドを使用しているのだ。
 では、もしかしたらシンジは「肉体は使徒化していて、魂はまだ人間」なのではないだろうか。
 ここまでの条件、オリジナルの魂は使徒化しており、シンジは肉体のみが使徒化している。カヲルの肉体は不明とすると、「魂は二つ、肉体は一つが最低限必要」という条件がQの状況と比較して成り立つのではないだろうか。
 であればカヲルが爆死しても扉が閉まらないこと。マリがシンジのことを「保険」と呼んだことにも納得がいく。
 
 このような事象から、13号機内に使徒化した魂を持つオリジナルが必要だったのではないだろうか。

 しかし、それではもう一つ疑問が生じる。
 はたしていつ。どこで。オリジナルの精神は使徒に汚染され、コア内部に取り込まれたのだろうか。
 


7 エヴァによる捕食の表現と旧版と違うコアの扱い


 ここまで、実際のアスカの表現方法の差異や状況的にオリジナルのアスカがスペアとは別に13号機内に必要であったことを語ってきた。ここからはもしもその仮定が正しかったとする場合の、実際にそれを行った時点はどこであるかを考える。
 先に結論を述べると、私はオリジナルがコア内部に取り込まれたのは、第9使徒との初号機の戦闘時であると考えている。

 新劇場版の世界において、コア内部、もしくはエヴァ自身に何かを取り込む際に共通しているのは、捕食行為ということである。これに例外はない。類似するシーンを一つ一つ上げると、まずは第9使徒を倒したダミーシステム。レイを零号機ごと捕食した第10使徒。Mark.6の残滓?をコア化し捕食した13号機。そしてシンエヴァにて使徒化したアスカをエントリープラグごと捕食する13号機である。一応、ゲンドウが13号機内部に侵入する際に使ったのも口内だ。
 話がそれてしまうが梶がマイナス宇宙内にいた理由の一つにサードインパクト発生時にMark.6に取り込まれ、それを13号機が捕食したからだと考える説がある。
 これを仮に正しいとしたとして、第9使徒、アスカの件だけが例外だと言い切れるだろうか。
 そもそもダミーシステムがエントリープラグを破壊ではなく捕食をわざわざ選んだという理由が、私はここにあると思う。
 つまり、破のあの時点でダミーシステムはアスカの乗る三号機のエントリープラグを捕食する目的で使用されたのではないだろうか。もっと言うのならば、あの時アスカの魂を捕食するためにではないだろうか。

 ではもし仮にそうだとして、ではその魂は初号機内部に残るのであって13号機内部ではないのではないのかという疑問がある。
 この疑問を解消したい。しかし、ここからは非常に離れ業に近い仮説を立てることになる。今まではできるだけ根拠を述べてなるべくあり得るだろうと考えられるように仮説を立ててきたが、この仮説の信憑性は正直、各自の判断に任せるといわざるを得ない。
 その仮説とは、スペアのコアが存在するというものである。
 そもそも、新劇場版の世界においてアニメ版と致命的に違う点はコアの固有性である。
 むろん初号機のコアはユイや後天的に綾波レイが取り込まれているし、それはとても特別な意味を持っている。
 しかしそれに相反するようにして使い捨てられた機体がある。弐号機である。
 Q終盤にて制御を失ったmark.9を倒すためにアスカは自身のエヴァを自爆させる。
かなり驚いた人もいるだろう。コアは操縦者とのかなり親密な関係性を持っており、アニメ版における重要なテーマの一つでもあったからだ(母体回帰的意味合いとしても)。
 しかし破ではリツコがアスカに対して「エヴァは実践兵器よ。すべてにバックアップを用意してるわ。操縦者も含めて」という発言をしている。
 同様にシンエヴァ冒頭でもユーロ支部を解凍した後、回収する物資の最優先の一つとして「弐号機の心臓部」が挙げられている。これがコアを示すかどうかは定かではないものの、可能性としては十分にあると考えられるのではないか。
 またこれに付随して、新劇場版では多くのタイミングで、マリを除くすべての搭乗者に対して「調整」を行ったという言及がある。故に新劇場版の世界ではコアは重要ではなく、エヴァを操縦することは操縦者の能力に一任されているという可能性があるとも思う。

 ここからは、これまでの条件を生かし作り上げた、ある意味創作に近い仮説である。
 この仮説における条件は4つ。
① 初号機に使用できる、ユイが入っていない予備のコアが存在する
② そのコアを秘密裏に入れ替えることが可能である
③ ダミーシステムを意図的に使用可能である
④ 兄弟機である13号機に初号機のコアが転用可能である
 この条件が満たせるのならば、アスカの魂が13号機コア内部にあの時点で取り残された説明が可能になる。
 特に②が難しい。つまり描写されていない部分で第9使徒と第10使徒の間にコアの取り換えが行われていないといけない。個人的には技術的には可能であるが、秘匿性を考慮した場合、不可能なように思える。
しかし、ここではそれがわれらがゲンドウの手によって可能だった世界とする。
 であればまず成り立つのは、そもそもダミーシステムが起動したことだ。実際に疑問を抱いた人も多いと思う。なぜユイは第9使徒の際はダミーシステムを受け入れたのにもかかわらず、第10使徒になって突然反旗を翻したのかと。
 もしもこの仮定が正しいなら、第9使徒との戦闘時だけユイの入っていないコアを使用することでダミーシステムを起動できる。
 なぜユイが入っていないコアの初号機をシンジがそもそも動かせるかについては、そもそも新劇場版でのコアの扱いに類似して考える。コアがスペアでも動かせなければ、それはそもそもスペアではなくなってしまうだろう。
 また、第10使徒以降に初号機のコアを入れ替える必然性があったのもうなずける。覚醒する際にはおそらくユイの干渉が必要であり、ユイとレイを含んだ初号機を最終局面でシンジに乗せたかったと考えるのならば、覚醒やその後の初号機の処理にも納得がいける。
 そこまでの条件下において、第9使徒に汚染されたアスカをダミーシステムに捕食させることで予備のコアにアスカの魂を取り込ませたうえで保存する。
 その後第10使徒との敵対時前にそれを取り換えて保護、空白の14年の間にそれを核として13号機を製造したと考えるのならば、ひどく離れ業ではあるものの、13号機内にアスカの魂、つまり「オリジナル」の魂を入れておくことが可能になる。
 実際に破ではリツコがアスカの状態に対して「細胞組織の浸食あとは消えたものの、使徒による精神汚染の可能性も否定できない」と言及している。肉体は無事だが精神(魂としたい)の是非については言及していない。
これまでの仮説が正しかったとすると、あの時破のアスカ、「オリジナル」の魂は初号機の、後の13号機のコア内部に囚われることで失われ、空っぽになった肉体だけが残る。
 そう、まるでアニメ版のアスカの母親のように
 そして、もしもこの仮説が正しかったとすると、奇妙な対比構造が、綾波レイと式波アスカ・ラングレーの間に生じるのだ。

 綾波レイはシンジに救われたことにより魂は救われたが肉体を失った。
 式波アスカ・ラングレーはシンジに救われなかったことで肉体は助かったが魂を失った。

 そう考えると、明らかに酷似させられた生まれの二人の運命が、皮肉にもここで真っ二つになるのだ。


8 空っぽになった「オリジナル」の体に入れられた「スペア」の魂


 先に述べておくと、8章以降は証明や根拠の説明というよりは、今まで述べてきた仮説を飲み込んだうえで作品を咀嚼するとどう受け取ることができるのか、という点に主に焦点が当たっていくことになる。
 そのため、ここからは今まで作り上げてきた仮説を補完するための章となる。かなり創作に近い解釈になることは注意していただきたいと思う。なのでここから先の解釈がより主観的で、やや感情的な「良さ」を語る場面が出てくる。それらに関して留意していただきたい。

 さて魂のみが抜け落ちた場合の姿をアニメ版のアスカの母親を参考にすると、破時点でのオリジナルは少なくとも人間として生きられる状態でないことが明らかである。
 しかし、ゲンドウ視点並びにストーリー構成上アスカが廃人化していることは非常に問題であり、その事態は解決しなければならない。
 確かにシンエヴァ並びにQでシンジの行動指針を大きく左右したのは黒波やミサトであるが、しかしアスカが存在しているというだけでシンジには様々な精神的負荷が生じていただろう。また、アスカの存在がシンジが悟ることのできた要因の一つとも考えられる。
 また、メタ的な話としてエヴァンゲリオンを構成するうえで「アスカ」というキャラクターの存在は不可欠なのだ。
 エヴァンゲリオン世界には、「形而上学生物学」という学問が存在する。冬月が教授であり、マリやユイ、ゲンドウが所属していた学部だ。
 それらは、魂の概念に焦点を当てた学問である。
 作中内でも魂の概念はよく出現するし、同時に魂の移植が存在しているのも事実である。
 例えば、アニメ版を中心とした表現の綾波レイは、リリスの魂をユイの肉体に移植されたキャラクターである。そのため何度かレイ自身の体を失い、そのたびに別の体に魂が移動されたりする。
 シナリオ上破の地点で例え廃人化していたとしても、肉体は最終的に弐号機に搭乗し、13号機との戦闘時に使徒化しなければいけない。
 ここで考えられるのが、ほかの魂での補完である。
 「式波・アスカ・ラングレー」という個体は増産が可能であり、同時にほぼ同じ人間としての魂を保有していると仮定するのなら、エヴァンゲリオンの世界観としてその魂を代理として入れること自体は困難ではないように感じる。
 ここまでで何が言いたいのか。
つまり、「オリジナル」と同様の形で育てられしかし選ばれなかった個体の「スペア」の魂をそのまま入れてできたのがQ以降のアスカなのではないだろうかということである。
 では、そう仮定すると生じる疑問が存在する。
 Q、シンエヴァにてアスカが破の記憶を保持しているのはどう説明するのかという点である。
 この件に関しては、普段我々が使用する『記憶』という言葉をさらに細分化し、「記憶」と「記録」という形に分けてみたいと思う。
 ここでの「記憶」とは、熱を帯びた感情的な実感のことだ。言葉にできない安心感や幸福感。事実から発生する言語化できない感情の揺れ動きのことを指すとしたい。
 対して「記録」とは、何が起きたか、である。いつどこで誰が何を経験し、その際に感情を得たという痕跡を記録とする。
 例を挙げるなら、『あなたを好きになったという事実』は「記録」だが、『あなたが好きだったという実感』は「記憶」としたい。
 ここで重要なのがアニメ版での綾波レイだ。綾波レイの肉体は作中で二回死ぬ。計3人の同一の魂をもつ綾波レイの個体が存在するのだが、魂が一致しているのにも関わらずアニメ版の綾波レイは「記録」を保有していない。実際に自爆することでシンジをかばったレイはその後普通にシンジの前に姿を現すも、特に何かその件に触れることもない。
 魂が同一であったとしても、少なくとも「記録」は引き継がれないのだ。
 ここで、こういったスピリチュアルなシナリオにおけるある種の定型を上げたい。
 それは、魂と脳の対比構造に関してだ。
 誰しも一度は考えたことがあるのではないだろうか。人の感情、自我、自分という者は自己の身体のどこに存在しているのかということを。
 多くの人はその際、「頭」か「胸」のどちらかに手を当てるのではないだろうか。もっと言うのならば、「脳」か「魂」を指すのではないだろうか。
 思考を司る脳に自分が宿るとするいわば「物質派」の人も、自分を動かす炉心たる心臓に自分がいるとする「精神派」の人もいるだろうし、その両方が正しいと私は思う。
 さて、ではこの「記録」と「記憶」の対比関係においては、それらはどういった関係性にあるだろうか。
 「記録」は事実に宿る。故に、それが宿るの物質的な「脳」だ。直接的に肉体に宿っている。
 「記憶」は事実より実る。故に、それが宿るのは精神的な「心臓」、いわば自分という存在を動かすための魂、「炉心」に宿る。
 もしもこう考えたとすると、レイが「記録」を失っていることにも納得がいく。
 そして同時に、アスカが「記録」を保持するという事実と共に、「記憶」を失っているかもしれないという可能性に気づくことになる。

 ではもしも、Q+シンエヴァのアスカがそのような立場に追い込まれていた存在だとしたら、果たしてそれはどんな実感を生んでいるのだろうか。
「記録」が肉体に宿るとするならば、それが置換された時点でもともとの「スペア」だったことの「記録」は残っていないかもしれない。もしかしたら「オリジナル」と「スペア」が同じ境遇にいたころの「記録」は同じだったかもしれないから、それらは融合して『記憶』になることができたかもしれない。
 それでも、破の「記憶」はない。シンジに淡い恋をし、誰かのそばにいること、話をすることの安心感や幸福感を得た「魂」はないのだ。
故にアスカに残されたのは「オリジナル」の「記録」だけだ。
 だが、自分は違う魂だという違和感に従って、その「記録」をいくら自身で反芻させ続けたとしても、それが実感を生むことはない。「記憶」、魂はすでに失われてしまっているがゆえに、あの時、こんな感情を得たはずだということは思い出せても、それがどんな感情だったかを思い出すことは絶対にできない。
 肉体は本物なのに、永遠に本物にはなれない哀れなコピーがそこには生まれることになる。誰にもその苦しみを、自分自身ですら理解することはできないのだ。
 自分を見ているはずの人々は、けれど絶対に自分を見つけてはくれない。
 少なくとも、私は一度目の映画視聴の時に、彼女がそこにコピーとして存在していたかもしれないという事実には気づいていなかった。彼女を見つけることはできなかった。
 だから、アスカは一人でいるしかないのだ。周りの人間も、われわれ視聴者と同じようにアスカを破の記憶、「オリジナルとしてのアスカ」、「式波・アスカ・ラングレー」として見続けるけれど、しかし彼女は「そのアスカ」になることは絶対にできない。
 「だった」というしかないのだ。「大人になる」しかなかったのだ。なぜなら、14歳までの自分は、スペアとしても、オリジナルとしても、もう失ってしまっているから。
 故にシンエヴァのアスカはそう告げたのではないだろうか。

 仮に、そう考えたとしよう。すると、シンエヴァにおいてもう一つの対立構造が浮かび上がってくる。

 黒波は、確かに偽物の体だった。本人の体ではなく、綾波レイの『記憶』の影を追い続けた。彼女ならどうすると問い続けた。
しかしそれでも、彼女は最後に本物になれた。本当の感情を手に入れて、好きな人によってもう一人の「アヤナミ」という本物になることができた。
 シンエヴァのアスカは、間違いなく本物の体だった。「記録」を間違いなく持っていたし、誰も彼女が本物のアスカであると疑わない。きっと本人ですらそれを疑っていない。
 けれど彼女はどこまでも偽物だった。実感のない「記録」は誰にも自分を見てはもらえないという違和感と孤独感を加速させていき、「あのアスカ」の延長としてしか見てもらず、結局、本当の自分の魂を見つけてくれる人はどこにもいない。
 そして、それはきっと、あの世界の登場人物だけではないのかもしれない。

 奇妙なほどに真反対ではないだろうか。間違いなく偽物だったけれど本物になった者と、間違いなく本物だったのに、最後まで偽物であり続けるしかなかった者。
 この二つは、果たして偶然できた構図なのだろうか。


9 偽物のアスカが告げた言葉の本義を一つ一つ辿る 「アスカはアスカだ」の重み

 Q最終盤。エントリープラグで膝を抱えるシンジに、アスカはこう言い放つ。
「ガキシンジ。助けてくれないんだ。アタシを」
 初めて聞いたとき、これは綾波との対比だと考えていた。綾波のために命がけで動いたシンジに対する発言だと思っていた。
 けれど、今までの仮説を飲み込んだうえで考えると、より苦しく重い意味にも取れてこないだろうか。
 シンジは確かにオリジナルを救っていたのではないだろうか。第9使徒からという意味ではなく、アスカを永遠の孤独から、他人を拒絶して生きなければいけないという運命から。
 アスカが他人により踏み込んだきっかけは、一人で戦わなかったこと、シンジが同じ悩みを抱えていたこと、黙ってそばにいたこと。
 シンジが、アスカを正面から認識していなければできないことだ。
 けれどQとシンのシンジはアスカと正面から向き合うことはない。
 それ以上に、シンジは破のオリジナルの延長でしか自分を見てはくれない。
 それでは絶対に孤独からは癒されない。むしろ、より深く今のアスカは偽物である自分を実感していくだろう。
 だからこの時アスカは言ったのではないだろうか。
助けてくれないんだと、言い換えるのなら「自分を見てはくれないのか」と。

 こう考えると、Qとシンエヴァのアスカが異様に自分を見てほしい。自分の感情を理解してほしいという行動原理で動くのにも納得できる。
 だってきっと、自分ですら自分のことがわからなくなっているのだから。
 それではQでシンジに対してガラスパンチをしたのもうなずける。
 シンジはアスカを見た瞬間に「よかった。やっぱり無事だったんだね。アスカ」という。
 無事ですらない。アスカですらない。仮定がすべてあっているのなら、この発言がどれだけ残酷なことか理解できる。もはやオーバーキルだ。

 シンエヴァでアスカがシンジに自分の全裸を見せつけて、赤面しないとこに憤るシーンがある。
 これもきっと、また別の意味を持ってくるだろう。
 昔見せたときは「恥ずかしかった」はずだ。
 昔見せたとき、シンジは照れていたはずだ。
 もしも自分が本物なら、もしかしたらシンジは同じように私を見てくれる。
 その願いも、精神的に負荷がかかっていたシンジにはもちろん届かない。その姿はアスカにとってどれだけ残酷に映っただろうか。
 同じ肉体なのに、自分には反応すら返してくれないシンジを、アスカはどう思っただろう。

 だが、そんなアスカを見てくれる存在がいたのだ。
 ケンスケは、破においてはただの同級生だ。きっとそのころから淡い恋心を抱いていたのかもしれないが、アスカにとってもケンスケにとっても、互いに互いはただの同級生に過ぎない。
 「オリジナル」にとって、ケンスケはその程度の存在でしかなく、同時にケンスケにとって「オリジナル」はその程度でしかない。
 でも、きっと偽物のアスカにとって、ケンスケは「オリジナル」の色眼鏡をかけて自分を見ない人間の一人だったのではないだろうか。
 自分を見てほしい。自分を見つけてほしい。でも、「式波・アスカ・ラングレー」として本物にはなれない自分を。
 そんなアスカに告げる「アスカはアスカだ」は、どれほど重く、それでいて救いになったのだろうか。
 自分ですら認めてはやれないそれを、偽物とか、本物とか、そういうことではない「ただアスカである」ことを認められただけで、どれほど救われるのだろうか。
 「オリジナル」ではなく、今のアスカを見てくれる唯一の存在に見つけてもらったアスカは、どれほど救われていたのだろうか。
 あのセリフ。ただそれだけの意味合いを私は測りきることができなかった。


10 オリジナル 浜辺のアスカ 姫 ケンスケの元に帰るアスカ

 さて、そう考えるとオリジナルが告げた言葉の意味合いも考えていかなければならない。
 「あなたも愛と共に私を受け入れるだけ」
 この愛。当初私は、アスカに対する愛情だと思っていた。アスカを満たしてくれる愛情を受け入れなさいと、そういった意味の言葉と思っていた。
 だがもしも、オリジナルの魂というのが、破の時のアスカの「記憶」だったとするのならば解釈は変わってくるのではないだろうか。
 愛と共に受け入れられる私とは、まさに「誰かに対する愛情」を僅かにでも得たアスカの「記憶」そのものなのではないだろうか。

 そう考えると、浜辺のアスカが赤面したことに関しても納得できるのではないだろうか。
 もしこの面目通りにアスカがその魂を受け入れたとした場合、あそこのアスカはオリジナルの体にオリジナルとスペアの魂が混ざり合っている状態だということになる。
 これと類似した状態にあった存在がいただろう。綾波レイだ。ツバメと書かれた人形を抱く姿は、黒波を想起させるものであっただろう。
 そう。だからアスカの体は28歳くらいの、大きなものになっていたのだ。もしもエヴァの呪縛が説かれた空間とするのならば、シンジや特にマリの年齢が合わなくなってしまう。
 だからきっと、あの時オリジナルとスペアが交わったことで、体が成長したのだ。オリジナルとして生きた14歳までの青春と、そこから空白の14年を死ぬ気で生きてきたスペアの魂が交わることで、ようやくあそこで「式波アスカラングレー」は28歳になれたのではないだろうか。
 だから、あそこでアスカは照れたのだ。Q+シンのアスカが照れることに違和感を抱いた人も多かっただろう。そう、「好きだったと思う」と告げたアスカに、今の実感が伴っていなかったのにも関わらず、あそこまで少女のような反応をしたのは解釈違いに思えた人も少なくないはずだ。
 でも、あの時のアスカは好きだったのだ。間違いなく、シンジに対する思いを『記憶』として取り戻していたのだ。だからこそ、照れたのだと思う。
 そう。あの瞬間、「オリジナル」は報われたのだ。自分が初めて得て、そして大切にしようと思った思いを、同じようにシンジは初めて得て、大切にしてくれたのだ。

 だが、それじゃあスペアが、もっと言うのならばQとシンエヴァを生き抜いてきたアスカは報われない。
 なぜなら、シンジが好きなのは、どこまで行っても破のアスカなのだ。あの時隣に寝てくれた少女なのだ。

 しかし、エヴァンゲリオンはここでは終わらない。

 視点を切り替えて、今度はマリの「姫」という人称について触れたい。
 マリは異常なまでにアスカを「アスカ」と呼ばない。ただのあだ名ととらえていたが、しかし今まで上げてきた仮定と合わせてアスカとマリの関係性と彼女のパーソナリティを考えると、もしかしたらもう一つの可能性があるのではないだろうか。
 マリは、オリジナルのアスカと面識を持たない(劇中に直接的な描写がない)人物であり、同時に形而上学生物学を履修している、つまりアスカの魂の入れ替わりに気づくことができたかもしれない人物なのだ。
 シンエヴァでマリが2回だけ「アスカ」と呼ぶシーンがある。
 一度目は、アスカがオリジナルによって13号機のコア内部に取り込まれたとき。そして二度目はマイナス宇宙内でシンジを送り出す時だ。
 奇妙なことに、それらのタイミングは両方とも二人が交わっている時なのだ。
 ではもしも、「姫」と呼ぶのが偽物のアスカを指し、「アスカ」が二人が融合した28歳のアスカを示しているのなら。
 「お達者で。姫」のセリフが、奇妙にも、そしてとても重要な意味を持つのだ。

 そう、オリジナルは報われたが、スペアは救われてはいないのだ。
 シンジはスペアを救うことはできない。なぜなら、シンジはそもそも彼女を知らないから。シンジはスペアと話す時も、結局その先にオリジナルとの思い出を見てしまうからだ。
 それは、黒波にしたことと真逆だ。だからこそ、シンジはきっとその選択を選ばない。
 ではスペアを、偽物のアスカを救えるのは誰だろうか。正面からそのアスカを見つけてくれるのは誰だろうか。
 そう、ケンスケしかいないのだ。
 今までその偽物のアスカを見続けて、そばに居続けて、救おうとしてきたのは、ほかでもない彼しかいないのだ。
 だからこそ、シンジは託す。シンジが好きになって救いたかったのは「オリジナル」のアスカなのと同じように、「スペア」のアスカをどんな形であれそばにいたいと願ったのは、ほかでもないケンスケなのだから。
 だから、「お達者で。姫」なのだ。オリジナルはもうすでにあの空間で救われており、だから今度はあなたの番だと、偽物であり続けしかし最後に「ただのアスカ」になれた「姫」に別れを告げたのだ。
 そして、アスカはエントリープラグ内で目を覚ます。
 その時のアスカは半裸にジャケットとパンツなのだ。どのプラグスーツでもなく、今まで過去に来ていたどの服装でもなく。初めてシンエヴァにて登場した、ある意味アスカらしくない、「ただのアスカ」が自分でいられる場所で来ていた服なのだ。
 オリジナルの体で、しかしスペアの魂を入れられたことで本物になれなかった少女は、けれど最後に「ただのアスカ」として認められ、そしてそれを自分で認めることができて、自分の居場所へと帰ることができたのだ。
 偽物ではない人生を歩み始めることができたのだ。

 まとめ

 ここまで、長ったらしくまさに「式波・アスカ・ラングレー」をどう理解するかのみを目的として話を続けてきた。
 動機の出発点はシンプルな違和感から。アスカなら本当にそうするだろうか。この場面でそういうだろうか。どうしてそこにいるのだろうか。そういった疑問をどうにか解消するためにこうして掘り下げを進めてきた。
 そしてもう一つの理由は、全員が報われてほしかったからというものだ。13号機に残され続けていたアスカはどうなったのか。ただ報われてほしいなと願いその未来を見出すためにはどうすればいいのかと可能性を見出し続けてきた。
 結果として、私の解釈は以下の通りになる。
 「オリジナル」のアスカとは破の時のアスカだった。その時魂が初号機コア内部に残り「オリジナル」の肉体にはスペアの魂が入れられる。そうして完成したのがQ+シンエヴァのアスカだ。
 本物なのにどこまでも偽物でしかあり続けられなかったアスカは、しかし最終盤にてもう一度「オリジナル」の魂と混ざり合い本物になる。
 そして、「オリジナル」はシンジの想いによって報われる。
 そして、偽物だったけれど「アスカはアスカ」だと認められ本物になれた彼女は、最後に自らの居場所へと帰っていく。
 それが誰もが本当の意味で報われるエンディングの一つの回答だと私は思う。
 無論、力業であった点がなかったとは思わない。本文中にもいくらか添えたが、明らかに無理に可能であるとした点や、仮定の域を超えない点も多々あったと思う。私自身神話や聖書の知識は深くなく、世界観を深読みするというよりもセリフや状況証拠から逆算するという形での考察が多かったと思う。
 故に、きっとこの解釈以外の答えもあると今でも思うし、しかし同時に自分はこのエンディングで「エヴァンゲリオン」という物語に決着をつけたいと思った。
 最後に、これが絶対的な正解ではないということを強調しておきたい。出された回答の一つであって正答ではないのだ。
 しかし、同時にもしもこの解釈を読んで少しでも受け入れてくれて、そしてもう一度あの物語を見る気になってくれた人が一人でもいたのならば。そして少しでもさらに「エヴァンゲリオン」という作品を好きになってくれた人がいるのならば、私はこの文を書いたことを誇りに思う。
 感想や意見があったら、聞かせてくれたらとてもうれしく思う。


 おまけ


 アスカの件に関してではないのでちょっとしたおまけ。
 シンエヴァの最後のシーン。現実世界のような場所にマリとシンジがともにいるシーン。
 これは一つのメタフィクション表現であることは間違いないだろう。大人になったシンジとマリが電車から離れていって外の世界へと走り去る様は、エヴァンゲリオンから卒業することを示唆しているようにも思えた。
 けれども、あそこがシンジが作った世界ならば、果たしてどういう経緯であの状況になったのか考えざるを得ない。
 まずあれはエヴァンゲリオンの存在した世界を上書きした世界なのだろうか。
 個人的にはそれは嫌だなあと思う。上書きだと、偽アスカやケンスケ、トウジの家庭なんかの苦労がなくなってしまうのはつらい。
 しかし、あの世界の延長線上だと思うと、死者が蘇ったり、エヴァの被害はどうなったのかとか復興はどうしたのかとか様々な疑問が出てきてしまう。
 なので、何となくではあるがエヴァ世界はそれはそれで続いて行って、シンジが作った世界(多分意味合い的には現実世界)は別で進んでいるのかなと思う。

 ではとりあえず、あのわずかな数分間の間だけで読み取れそうな事実を抜き出していこうと思う。
① シンジ、マリは年を重ねている(おそらく20代後半?)
② 電車を挟んだ向かい側に、レイ、カヲル、アスカがいる(年は不明。多分シンジとかよりは若いように見える?)
③ シンジがチョーカーを付けている

とりあえずはこのくらいかなと思う。
個人的に特に疑問だったのはアスカの存在に加えて、レイやカヲルがそこまで大人びていなかったことである。シンジとマリはかなり明らかに年を取っていたが、カヲルの顔は14歳には見えずとも、20歳くらいに見えるように思える。(完全な主観である)
 また、アスカの存在に加えて服装を考えると、30代近くで上下ジャージに白Tシャツというのはあまりにも干物というか、何とも言えない感情を得てしまう。もちろん、上下ジャージで出かけてはいけないわけではない。しかしまあ、何となく、学生の服装だという印象を受けた。
 シンジはスーツ、マリはオフィスカジュアルと、かなり働いているように思える服装をしていたのに対して考えると、もう少し年が若いように思える。
 チョーカーを外していたり、胸の大きいいい女と言ったりしているところから、間違いなくマリとシンジはエヴァを覚えているだろう。逆にアスカがレイやカヲルに全く反応していないあたり、その三人は記憶がなさそうだ。

 となると、なぜ年の差があるのかという点と共に、あの時分かれたはずのアスカまでついてきているのはなんでだろうということを考えてみる。
 年の差について。まず、シンジとマリがこの世界にどうやってきたのかを考えてみよう。
 もし転生だとすると、エヴァ知ってる上に、知識を蓄えたスーパーベビーが生まれてしまう。マリに関しては天才なので、本当の化け物になってしまうだろう。
 あとは世界を作る側が生まれてくるというのも何となく違和感がある。
 記憶のない人と記憶のある人にはもちろん書き換えた側と書き換えられた側という差はあると思うのだが、同時に、あの瞬間に肉体を保有しているか否かも関係してくるように思える。
 少なくともレイとカヲルは肉体が死滅している。
 ではアスカはどうだろう。そもそも、アスカはケンスケの元に戻ったのではなかったのか。
 もしかしたら、あそこにいたのは「オリジナル」の魂のアスカなのかなと思ったりする。
 もっというなら、「オリジナル」はシンジに救われてあの時点で報われていたから、居場所をシンジから得ていたのではないだろうか。そうして辛かった過去に別れをつげて新たな世界に再スタートしたのではないだろうか。
 そうなると、オリジナルも肉体が死滅しているから(厳密には分離してスペアの魂と共にケンスケの家に向かった)レイやカヲルと条件が一致する。
 そうなると魂が新しい世界に行ったとしても、肉体がないのでは動けない。故に、新しい命として転生したのではないだろうか。
 つまり、シンジとマリは新世界に転移して、ほかの三人は転生したのではないかということである。
 そうすると、あのシーンは転移したのちの十数年後かもしれない。
 それではシンジがなぜチョーカーをまだつけていたのか。きっと気に入っていたんだろう。
 さて、この解釈だとすると実はもう一人報われる人がいたりする。
 黒波である。
 黒波どうなったんだよと思う人も多かったと思う。私もその一人だ。
 実は、シンジに「もう一人の君は居場所を見つけた」と言われた後のレイは、破のころの制服のレイになっているのだ。
 同じような現象で、アスカがあの浜辺の後からエントリープラグにシーンが移った時に服が変わったりする。
 もしかしたら、あの時黒波と綾波レイは分離してたのではないだろうか。
 そしてもしそうだとしたら、黒波はシンジの作った新世界ではなく、自分の居場所に戻ったかもしれない。
 もしかしたら、ツバメちゃんのそばで新しい命として生まれたかもしれない。
 そう思ったら、少しだけ温かい気持ちになった。
 こう思うと、実は破とQの間にはいろいろなことが行われてたし、破の人たちとQ以降の人たちが選んだ未来や世界が完全に分かれてたように思える。
 とりあえず、黒波は本当にかわいかった。幸せになってほしいと切に願う。



おまけのおまけ

 いわゆる追記。Twitterに連絡してくれた方がいて、改めてやっぱり言及する必要があるかなと思った話題。
 俗にいう浜辺のアスカのプラグスーツ問題。個人的にはもっとも結論付けることが難しいと思う話題である。
「頬を赤らめたのは式波なのか惣流なのか」
 この問いに関しては、私は式波であると思うしその結論を覆す気はない。

 シンエヴァの浜辺のアスカのプラグスーツの首元は確かに旧アニメ、旧劇のモノのように思える。なのであのアスカを惣流だとする人がいるのも納得できる。
 実際、あの回想が行われている場所は数々の世界線を移動できるかもしれない電車内であるし、アスカの左隣に座るシンジを斜め下から覗くという構図も旧劇と酷似しているため明らかに意識されて作られたこと自体は明白だと思う。そもそも浜辺自体が旧作のものであるし。
 しかし、一方で「寝てた、私」と言及していることや体が28歳ほどまで成長していることを鑑みるに、明らかにあそこのシーンで話していたメインの人格は式波であることは疑いようがなく、こちらも明白である。
 つまり、一方を認めるともう一方と矛盾してしまうという極めて難しい状態にあるのだ。
 では、そもそもあのシーンがどういった意図で表現されていたかについて考えてみる。
 やはり大きな目的として、「シンジ」という存在が「アスカ」という存在に対して想いを告げるというシーンを描くことで、エヴァンゲリオンに残された一つの蟠り、問いに対して答えを出すというものがあると思う。これに関しては疑問視する人は少ないだろう。
 ではその方法としてあえてあそこのシーンだけ今まで式波を描いてきた新劇場版で惣流を描いたとする。すると、やはり矛盾してしまう点が多々あるのだ。
 睡眠に対する言及もそうだが、惣流とおそらくかかわりのないマリが「そのアスカ」を姫と呼ぶことは個人的にはあり得ないと思う。
 ではどう解釈すればいいのか。特に惣流に関して。
 惣流の根拠はやはりプラグスーツに帰結する。そしてプラグスーツの解釈は2通りほどあるだろう。
 一つ目が惣流(旧作浜辺)が中にいたとするもの、二つ目が旧作含めた「アスカ」という存在識別としてというもの。個人的には二つ目だと考えている。
 先ほども考えたが、メタ的にこのシーンを推察すると、エヴァンゲリオンという作品の終わりを描くために、シンジがアスカに想いを告げるというシーンは必要不可欠であったように思える。
 だが、それを式波とシンジのみの二人に収めてしまった場合、エヴァンゲリオンという物語全体は終わらない。
 故に、あそこで描かれるべきなのは「アスカ」というキャラクターの概念が「シンジ」というキャラクターの概念に想いを告げられるという構図である。

 では、その救われる表象の中に旧劇場版のアスカ(ここで指すのは、いわゆる「まごころ浜辺アスカ」のこと)はいるのだろうか。個人的にはいないのではないかと思う。
 そもそもこの議論のキーになるのはプラグスーツだ。根拠から証拠まですべてがそこから始まりそこに帰結する。
 であれば、少なくともあの浜辺に打ち捨てられた彼女は右腕に包帯を巻いていなければならないのではないだろうか。すべてのエヴァンゲリオンにおいて、右腕に包帯をぐるぐる巻きにした状態で出てくるアスカは旧アニメ版、旧劇場版、新劇場版、漫画版含めてもあそこにしかいない。
 プラグスーツの状態と魂を比例させる、そう考えると、そのアスカを表すためには少なくとも「旧プラグスーツ+包帯」がなければならないと思う。なぜなら包帯を巻いている彼女だけがシンジに対してあの結論を出しているし、一方で包帯を巻いていないアスカはあのエンディングを迎えていないからだ。
 故に、そう考えるとあの描写はひどく残酷で美しいように思える。
 つまり、あのシーンで描かれたアスカの意味合いとは、「すべてのアスカ(まごころ浜辺アスカを除く)」であるかもしれないからだ。
 
 それらを加味したうえで、個人的にはこのような解釈を取っている。

 あのシーンは、シンジという概念とアスカという概念の二人の存在が想いを告げ通じ合うという描写がしたい。そうしなければエヴァンゲリオンを終わらせられない。
 その中で選ばれた「旧作含めたすべての世界線のシンジ代表」と「旧作含めたすべての世界線のアスカ代表」が新劇場版における碇シンジと式波アスカラングレーの二人だったのだと思う。だからあくまでもあそこで想いを告げあったのは新劇場版の二人だった。故に頬を赤らめたのは式波であったと思う。
 だがそこに「まごころ浜辺アスカ」はいない。あのエンディングにたどり着いたのは、あのシンジと、包帯を巻いたアスカだから。そしてそのどちらもがシンエヴァのエンディングにては描写されていない。
 故に、「まごころを君に」の二人は報われたわけではなく、逆に言えば穢されたわけでもない。彼らはやっぱり原点として残っていて、それでいいのだと思う。

 そもそも旧劇のアスカが、別の歴史を辿って答えにたどり着いた別のシンジに告白されて頬を赤らめるのは解釈違いだ。あのアスカはあのシンジのすべてが欲しいのであって、その答えを別から得てしまったシンジをきっと好きにはなれない。彼女が欲しいシンジは弱いボロボロで自分を見てくれないし他人が欲しいといいながらアスカが欲しいとは言ってくれないバカシンジであって新劇場版のような英雄シンジではないと思う。思いたい。というかたとえ同じシンジであっても別の世界線のシンジにデレるわけない。それじゃあ極限まで似た他人を欲してしまっているし、それこそ旧劇のアスカが一番拒絶しそうなことだと思う。

 でも旧劇の二人が報われてほしいという気持ちもわかる。そう意図的に作られている節があるし、それはこの描写だけでなくシンエヴァ自体が無限に解釈可能になっていると思う。

 まあしかし私は、やっぱり原点である旧劇のエンディングは色んな意味で大切なのだ。やっぱり蛇足とか続きとか加えずに、あれはあのまま綺麗に残っててほしいと思ってしまうのだ。

 まあそんなわけで、個人的な好みをいうのであれば、やっぱり旧劇の二人はあのままがいいなと思う。結構好きなのだ。あの終わり方。





 ちなみにnoteは完全に初投稿である。文字しかないのかよ。絵とか書けよ。そう思った方。ここまで読んでくれていることを本当に心から感謝すると同時に本当に申し訳ない。約3万字である。本当に付き合ってくれてありがとうございます本当にありがとうございますいやまじで。とりあえず、やっぱりエヴァっていいですよね。

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