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韓国ミュージカル観賞記②〜天は二物を与える

映画『マラソン』(2005)をご存知だろうか。
自閉症の青年がフルマラソンに挑む、実話を基にした韓国映画である。

チョ・スンウという俳優の凄さは、この映画を観ればわかる。

彼についてまったく知らなかったわたしは、本当に自閉症の役者を起用したのかと訝ったほど、「自然」で「チャーミング」な演技だった。
当時、『冬ソナ』ブームで注目され始めた韓国俳優たちのなかでも群を抜く、魅力的な俳優だと思った。映画館を出るなり、彼が出演するほかの映画(『春香伝』『ラブストーリー』)もチェックしたほどである。

しかしあの頃、続々と日本へ入ってきた韓国ドラマに彼の姿はなかった。
『マラソン』から7年後、チャングムで有名なイ・ビョンフン監督から熱烈なオファーを受けたという『馬医』(2012)が、初のドラマ主演作だというから驚く。

後で知ったことだが、チョ・スンウはもともとミュージカル志望の俳優で、映画『マラソン』の演技で国内の名だたる映画賞を総なめにした2005年は、25歳。ミュージカルの大舞台でも主役を任され、認められるようになった時期と重なっていた。ドラマの仕事はすべて断っていたらしい。本業に専念したかったのだろう。

そしてその大舞台こそが、『ジキル&ハイド』(初演は2004年)だった。
以来、このミュージカルは、チョ・スンウの「当たり役」として名を馳せ、現在も、何か月にも及ぶロングラン公演を続けている。
そのうえ、彼が主役を演じる回(トリプルキャストのため)はすぐに完売。
韓国でもっともチケットが取れない公演だといわれるほど、人気を博している。

知人の田代親世さんに誘われ、突然思い立って申し込んだ2泊3日のミュージカルツアー。じつはキャンセル待ちだったけれど、無事に参加することができた。

しかも、わたしが手にした『ジキル&ハイド』2月8日夜(チョ・スンウ)のチケットは、幸運にも、1階真ん中のとてもいい席。

期待が高まるなか、ソウルのシャルロッテ劇場へ。
それでもわたしには、この舞台を楽しめるか不安があった。

もちろん舞台のセリフも歌も、韓国語である。
ハングルはまったく読めないしわからないので、あらすじや抑えておいたほうがいい曲など、できるだけ予習をしていた。
ツアーでは劇場へ行く直前、参加者で食事をした後、田代さんによる解説を聴く機会がある。さすがに講師としても、各所で講座を持っていらっしゃるだけあって、とてもわかりやすく、自分で予習したつもりでも断片的だった『ジキル&ハイド』の物語の概要がつながり、登場人物のキャラクターも把握できた。
さらにはどの場面が見どころで、どういう演技(&芝居の仕草)に注意して観たらいいか、細かく教えて頂いたので、言葉の壁はあっても内容理解への不安はなく臨めたと言っていい。

まだ半信半疑だったのは、わたしのミュージカルへの苦手意識なのか、「すごくいいよ」と力説されるほど「本当かなあ」と疑いたくなる性分からなのか。
いずれにせよ、熱いファンでひしめく満員の劇場で、どこか冷めた自分がいるのを感じていた。

そして幕はあがり―――休憩を挟んで、3時間近い舞台が終わった。
総立ちのカーテンコールでは、思わず「ブラボー!」と声をあげているわたしがいた。ほかの観客たちと同じように大きな拍手を送りながら、なんて素晴らしい舞台だと、その場を共有できた幸せを噛みしめていた。

何が素晴らしかったのか。
チョ・スンウの「歌の上手さ」と「演技の巧さ」。
その見事な融合に他ならない。
とくに、ジキルとハイド、二つの人格が交錯し、もうひとりの自分と戦う苦悩を表現する場面(“Confrontation”「対決」)は圧巻だった。
単に演じ分けているだけでない、狂気を感じた。役者がその役に憑依することで生まれる「狂気」。チョ・スンウはごく「自然」にその狂気を操り、しかも卓越した歌声で、善と悪を表現していた。そしてその姿が、じつに「チャーミング」で「セクシー」だったのだ。

チョ・スンウとは、いったい何者なのか。
これほど、ミュージカルで本領を発揮する役者を、わたしは知らない。
日本にも歌の上手い俳優はたくさんいると思う。
演技の巧い俳優ももちろんだ。
だが、歌と演技の両方で、彼ほど秀でている人はいるだろうか。

ほかの主要キャストも、総じてレベルが高いように思う。
ひとりの演者が飛びぬけて良いからといって、公演は成功しない。
単に上手い下手の問題だけではなく、韓国ミュージカルを支える俳優たちの、層の厚さがあるのだろう。
韓国では、日本よりもミュージカルの需要があり、大小さまざまな公演が各地で行われているという。演じる場が多くあることが、相乗効果をもたらしているのかもしれない。
何より、150000ウォン(約14700円)もするVIPチケット(日本でいうS席)が飛ぶように売れているというのだから。

劇場を後にし、ホテルへと向かうバスのなかでもずっと、わたしはこの高揚感の意味を知りたくて、あれこれと理由を探していた。
そして、腰に貼りつけたまま、熱くなり過ぎていたカイロを剥がした瞬間、ふと、ああ理屈じゃないな、とも。

ミュージカルの醍醐味を、初めて知った。
それでいいじゃないか、と。

そして、窓外を流れるソウルの冷たい夜景を眺めた。
旅はまだ始まったばかり。
明日は『エリザベート』。ジュンスが演じる死神に会う。

※その③へつづく

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