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メクルメクアミューズメント

今年の7月中旬、僕は高知にいた。高知にめくるめく植物園があると聞いたからだ。めくるめくは「目眩く」と書く。広辞苑には「目がくらむ。めまいがする」とある。めくるめく好きとしては行かねばならない。めくるめかねばならない。

高知県立牧野植物園は日本の植物分類学の父と呼ばれる牧野富太郎博士の業績を顕彰する公営の植物園。珍しい花や巨大植物を見世物的に展示するのではなく、どこでも見られるような、日々の暮らしでは見過ごしてしまいそうな普通の植物がメインだ。植物の数はともかくそれに添えられるキャプション(説明板)のめくるめくっぷりが半端じゃない。「草の海に漕ぎ出で」多くの植物を見つけ命名した牧野富太郎の「雑草という名の植物は無い」という言葉がそのまま展示に生かされ、園内の一木一草にキャプションが付けられている。今ならVR(virtual reality)の技術で簡単にできるのかもしれない。でもこの植物園はそれを手作業でやっている。このめくるめくような手間が来園者を感動させ、また来ようという気にさせる。園内を歩いているだけで学芸員のめくるめく植物への愛、そして牧野富太郎の息遣いまでが感じられる。思わず松坂慶子のヒット曲「愛の水中花」のフレーズが口をつく。

これも愛、あれも愛、たぶん愛、きっと愛

いざ、草の海に漕ぎ出でん

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どうよ、このめくるめく感。あらゆる草木にキャプションがちりばめられ、すべての植物には名前があるという当たり前の事実を突きつけられる。

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なんか既視感があるなと思ったらあれだ。セカイカメラのエアタグ。植物園が植物の名前を掲示することはあたりまえだけどここは徹底している。中途半端だと心に残らない。もう雑草とは言わせない。

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咲いているのかわからないような小さな花には「咲いてます」というサインが添えられている。毎日園内を巡回しないとできない仕事。旬を逃さない心意気。

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ミミガタテンナンショウ、摩耶山でも見られます。マムシグサに似てるけどちょっと違う。キャプションがないとわからない。

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牧野富太郎の真骨頂である植物図も園内のそこここに。これがまたわかりやすい。ほんとうに時間が経つのを忘れてしまう。

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有馬(神戸)発見。インスタ映えくそくらえ感がうれしい。

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滋味あふれる高知出身の牧野富太郎ゆかりの植物エリア。これみよがしに見せるのではなくどこでもありそうな風情なのがステキ。

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もちろん虫もいます。キャプションないけど。

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サツマノギクに埋もれるキャプション。このあたりになると宝探しの境地に達して時間が経つのを忘れてました。絶対また来ようっと。

熱量=愛

また来たいという気持ちはその場に関わる人々の場所(対象)への熱量(愛といってもいいかもしれない)に比例するのではないだろうか。植物園というと水族館や動物園に比べると地味なイメージがあるが、牧野植物園は平日にも関わらず観光客とおぼしき来園者も多い。「四季折々の自然」「豊かな自然」などというざっくりとしたキャッチフレーズで植物の魅力を丸め込もうとせず、過剰かつ圧倒的な熱量でストーリーを語り、来園者を魅了する。教育施設にもかかわらず見事にアミューズメント施設に昇華していたのだ。

前回のエントリーで紹介した再整備計画のあるスマスイは約600種、約13000点という日本有数の飼育水族数を誇る。ここも熱量のある飼育員による多彩なプログラムが実施されてきた。巨大水槽に頼らず「生き様展示」というある意味愚直な方法が来館者を魅了した。見世物小屋的な水族館がもてはやされる中、あくまでも教育、研究機関としての芯を外さずにアミューズメントへと昇華することで人々の心を掴む。たしかにシャチや巨大水槽はわかりやすいかもしれない。しかしわかりやすさは飽きられやすい。植物園や水族館は流行りを追いかける商業施設ではなくどっしりとした文化施設であってほしい。

掬星台夜景

同じく再整備計画のある我が摩耶山も多種多様な自然が共存する。そして信仰の山、暮らしの山としての歴史や文化の積層が路傍の石から感じられる。掬星台からの夜景だってそうだ。一つ一つのあかりのめくるめくストーリーに想いを馳せると「きれいだね」だけでは片付けられないはずだ。1995年の震災後、山頂から見る神戸の街は真っ暗で大阪湾の向こうは煌々と明るかった。徐々に足下のあかりが戻って今の夜景になっていったことを我々は伝えないといけない。掬星台からの夜景は見世物ではなくそこに住む人々のめくるめく暮らしの証なのだから。

今回の結論

ということで摩耶山の登山口から山頂まで無数のキャプションをつけたい。できれば夜景も。誰か僕にお金と時間をください。



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