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【映画感想文】田舎の母に根付く男尊女卑! 養子に出された娘が血のつながった家族と出会い、もうひとつの人生を考える - 『夏が来て、冬が往く』監督: 彭偉

 最近、新宿武蔵野館によく行く。話題の作品を見るところから気になる予告編の数珠つなぎで興味をからみとられている。ついにはポスターだけで心を惹かれて、『夏が来て、冬が往く』という前情報ゼロの中国映画を見るに至った。

 上映直後は「あれ?」と思った。というのも、映像の質感が自主制作映画らしい雰囲気だったから。よく言えば、素朴。悪く言えば、安っぽい。ただ描こうとしている世界観は現代の中国を反映しているっぽくて面白そう。期待して見ていくことにした。

 結論から言うと日本らしいホームドラマで、最後にはどんでん返しのような展開もあり、なかなかよかった。似ている作品で言うと是枝裕和監督の『歩いても 歩いても』みたいな感じ。

 要するに、田舎のおばあちゃんが亭主関白なおじいちゃんの乱暴な言動を耐え忍んでいるように見えて、実はしっかり自分の芯を持ち、ふとした拍子に男尊女卑の価値観を内面化させていることがわかり怖くなるといったもの。「家」という制度の持つ恐ろしさが見事に示されている。

 たぶん、これは偶然ではなく、『夏が来て、冬が往く』の公式ホームページを見ると是枝監督のメッセージが掲載されていて、そこにリスペクトがあるようだ。

 また、監督の彭偉さんは日大芸術学部に留学し、映画作りを学んだというから邦画的な撮り方をしているのも納得。上映後にはその恩師で、本作の製作に関わったという宮澤誠一先生と一緒に監督が登壇。日本語で作品に込めた思いなどを話していた。

 物語の主人公は若い女性で、恋人の男性にプロポーズされるも、イエスと言わずに悩んでいる。彼女曰く、結婚するなら家が必要である、と。中国には結婚前にマイホームを購入するという伝統があるらしい。

 ただ、恋人は困惑する。たしかにむかしはそうだったけど、いまの住宅バブルを考えたら僕たちには不可能だよ。地方に引っ越すなら可能かもしれないけど、仕事の関係でそれも難しいし……。まずは賃貸でも一緒に暮らすところから始めよう!

 彼女は首を縦に振らない。どうしても自分の家というものにこだわっているようで、恋人のことは好きだけど、そこだけは頑な。

 なにがあるのか?

 その秘密はすぐにわかる。興信所のようなところから電話がかかってきて、ずっと探していた実の母が見つかりましたと連絡がある。

 一人っ子政策が実施されていた時期に生まれた彼女は里親制度で養子に出されていた。養父はそのことを隠していたけれど、大人たちの会話から思春期の頃から自分はこの家の娘じゃないんだと静かに悩んできた。自分の家に帰りたい。彼女はずっとそれを望んでいた。

 だから、長いこと、彼女は人探しのサービスを使ってきた。でも、なかなか反応はなし。ところが、急に、生みの母親も養子に出した娘に会いたいと同じサービスを利用したらしく、マッチングが成立。ついに、二十数年ぶりに血のつながった家族と再会することになる。

 なんでも血のつながった父が亡くなったという。その葬儀に参列してほしいとか。彼女は緊張した面持ちで海沿いの寂しい町へと向かう。

 そこで彼女は自分に血のつながった2人の姉と1人の弟がいたことを知る。長女と弟は実家に残され、次女と自分は養子に出された。

 弟はひたすら感じが悪く、スマホゲームで遊びながら「ここは俺の家だ」とひたすらに当たりが強い。でも、お姉ちゃんたちは優しくて、もし、自分もここで育っていたらと考えてしまう。同時に、自分を捨てた母親に対する怒りのような疑問も湧いてくる。

 しかし、徐々に物事はそう単純じゃないとわかってくる。

 養子として育てられた次女はビジネスを始め、外国に工場を作るほどバリバリ成功。自分もちゃんとした教育を受け、いまは貿易会社で働いている。一方、長女は中学まで成績が優秀だったのに、両親から「女に勉強は必要ない」と言われ、高校に進学させてもらえなかったと知る。

 そのまま田舎に暮らし続けた長女は結婚するも、女の子を産んだという理由で周りに責められ苦しんでいる。そんな夫は愛人を妊娠させてしまって、近々、その子を連れて帰ってくるという噂も。離婚しちゃえと思うけど、子どもには罪はないし、その子は男の子らしいし、受け入れる空気が流れている。

 自分の身に起こり得た、もうひとつの人生を眺めつつ、主人公の中で「家」についての価値観が徐々に変化していく。それは単にあたたかい場所ではなく、冷たく女性をしばりつける場所でもあるのだ、と。

 それでも血のつながりは特別で、だからこそ、生みの母親も養子に出した娘たちに会いたいと思ってくれたんだと納得していたところに衝撃の事実が。本当の目的は別にあったのか……と打ちのめされてしまう。

 このラストは強烈なので、実際に見て確認して頂きたいが、ざっくり言うと唯一の男の子である弟に関するもの。なんだかんだで田舎に男尊女卑は根付いたままで、跡取り息子となる長男を中心にすべての生活が組み立てられている。そこまでして守りたい「家」ってなんなのだろう? とわからなくなる。

 ただ、そうは言っても、はじめて会った血のつながった家族たちと過ごした時間に意味がなかったわけでもない。加えて、養子として育ててくれた家族に対する感謝の念も湧いてきた。だんだん「家」に対するこだわりもなくなってくる。

 田舎から都会に戻るバスがトンネルを泣けるシーンは川端康成の『雪国』のようだった。

 異世界から現実に戻ってくるようで、そこには恋人が待っている。彼女は彼と結婚したいと言う。家は必要。でも、それは自分の持ち家じゃなくてもかまわない。必要なのはHOUSEではなくHOMEなんだと考え方が柔軟になる。この瞬間、彼女は自分の過去をすべて肯定し、未来も肯定することができたわけで、見事なハッピーエンドだった。

 一人っ子政策を代表に中国の子どもをめぐる事情は日本と大きく異なっている。最近も国際養子縁組を停止が発表され、まだ続いていたんだと驚いたものだ。

 もともと中国は第二次世界大戦後、毛沢東の指導によって子どもを産むことが推奨されていた。人口が多ければ経済規模が大きくなるというシンプルな理屈で、国民にも受け入れられた。また、共産主義は家父長制を否定するものなので、伝統的なしきたりを法律で規制し、自由な結婚がブームとなった。

 ところが50年代末になると自然災害で飢饉が発生。その対策として実施された大躍進が失敗するなど食糧危機に襲われる。あまりに大量の死者が発生し、人口ピラミッドにくびれが生じてしまうほどだった。

 その反動で60年代半ばになると亡くなった子どもを取り戻すが如く出生率は急上昇。さらにベトナム戦争が行き詰まり、ソ連との対立が深まったことで米中が急接近。徐々に社会も経済も安定し始める。

 1976年には毛沢東が死去。鄧小平が改革開放路線を打ち出すと米中国交正常化が進み、プロレタリア文化大革命は失敗だったと宣言するに至る。

 そうなると今度は共産主義の思想が絶対ではなくなるので、むしろ、増え過ぎた人口は不都合であるという考えが広がり始める。

 これはなにも中国に限った話ではなく、アメリカでも日本でも人類は増え過ぎて滅びるという話が真面目に議論され、SF小説のテーマとしてもたびたび登場していた。いわゆる民主主義国家で出産という個人の権利を制限することはできなかったが、その点、中国は共産党による独裁的な政治体制が敷かれていたので、人口抑制政策を強行することが可能だった。一部地域では不妊化手術も行われていたという。しかし、さすがに刑罰を課すのはやり過ぎということで最終的な落とし所が「一人っ子政策」だった。

 具体的には子どもを一人産んだ夫婦が二人目を産まないと届け出ることで様々な優遇を受けられるというもの。奨励金や学費補助、医療費を支給され、住宅や農地も優先的に配分された。逆に、宣言をしなかった場合、賃金は減らされ、養育費を徴収され、昇給も昇進も止まるというから絶望だった。建前としては本人の自由ということになっていたが、実際は選択肢なんて存在しなかった。

 このとき問題になったのが、男の子を産めるかどうかだった。田舎だと労働力の面でも、跡継ぎの面でも、男の子がいないと困ってしまう。だが、子どもの性別を産み分ける方法などないわけで、女の子が生まれるとすぐに養子へ出すか、孤児院に預けるという動きが暗黙のうちに常態化した。

 じゃあ、その子どもたちを誰が引きとったかと言えば、都市部の子どもが産めなかった夫婦を筆頭に、障害のある子どもの養育を断念した夫婦だったり、花嫁として人身売買されるケースも少なくはなかったという。

 少しシチュエーションは違うけれど、ケン・リュウの代表作『紙の動物園』に出てくる母親はまさにこの時代、花嫁として人身売買された人物で、英語がしゃべれないのにアメリカで妻をさせられ、母親をさせられる苦しみと、それでも子どもを愛する気持ちが力強く描かれていた。

 それから30年以上が経ち、2016年には二人目の出産が認められ、2021年には三人目を産むことも許されるようになった。一人っ子政策は実質終わりを迎え、いまや少子高齢化に悩み始めている。

 もし、あのとき、政治が間違った判断していなければ、生まれなかった不幸がたくさん生まれた。一人っ子政策はそのカジュアルな名称に反して、残酷な結果をもたらした。

 だから、一人っ子政策については中国共産党としても苦い記憶なわけで、直接そのことを扱っていなくても、映画のテーマとして使われるのは嫌なはず。舞台挨拶で宮澤誠一先生はチェックが大変だったと明かしていた。大幅な修正を強いられたんだとか。中国で映画を作るのはしんどいと本音をこぼしていた。

 表現の自由。日本で暮らしているとそれは当たり前に存在しているものと思ってしまうけど、すぐ隣の国の状況を聞くにいかに尊いか気づかされる。

 よく「作品に罪はない」と言われることがあるけれど、本当は違うんだと思う。「どんな作品にも罪がある」じゃなかなかろうか、と。だからこそ、検閲をしようと思えば、どんな作品でも弾くことは可能なのだ。ぶっちゃけ、難癖をつけようと思えば、いくらでもつけられる。「〇〇を連想させる」とか、「〇〇を容認するのか?」とか文句を言えば、その作品自体に問題がなくても簡単につぶせる。

 わたしがキャンセルカルチャーに反対なのはそのためだ。この前のNHK紅白歌合戦でも星野源さんが『地獄でなぜ悪い』を歌うと発表したところ、それは園子温監督の映画作品の主題歌であり、ふさわしくないという声が一部から上がった。そこまでは当然起こり得ることだろう。だが、中には「これを歌うということはNHKも星野源も性加害を容認していることになる」と言い出す人もいて、レッテルの貼り方に恐ろしさを覚えた。

 倫理ではなく、論理の問題として、「性加害を容認しているのか?」と問われれば、当然、星野源さんは容認していないので楽曲変更せざるを得ないわけだけど、その問い方ってめちゃくちゃ暴力的だと思う。その歌を選ぶにあたって、どういう思いがあったとか、どういう考えがあったとか、星野源さんに意見を語らせないものだから。

 結果、星野源さんは曲を変更したわけだけど、そのことに対して、「星野源は性加害を容認している」と言っていた人たちはXでこんな風に反応していた。

過ちを改めざる是を過ちと謂う、の実践。

今回の一件で、「新しく生まれたこと」があるとしたら、それは星野源さんという方が、日本の業界で長らく無視され続けてきた性加害問題に真剣に向き合っていて、芸能界だけでなく日本社会全体における性被害問題の深刻さを理解していて、その被害者の方々の気持ちを汲んで正しい決断をすることができる、「より良い日本」を考えることができる、素晴らしいハートを持ったアーチストであるということを、日本中が改めて知ることができた、ということなのではないかと思います。

星野源「ばらばら」。よかった。むしろよかった。

 言いたいことはわかるけど、どうしてみんな、こうも偉そうなのだろう? まるで自分たちだけが正解を知っているといった態度で、人生をかけて作品を発表し、傷つく人を少しでも減らせるようにと頑張っている星野源さんの良し悪しを上から目線で評価できるのか? わたしには理解できない。

 というか、正解を決めることってめちゃくちゃ恐ろしいでしょ。だって、正解の反対には必ず間違いが生まれてしまうから。世の中って、そんな単純にできてないでしょ。

 基本的なにが正解かわからないから、わたしたちはいろいろなものを自由に表現していくわけで、お前の立場からしか見えない正解を他人に押し付けるのはやめてほしい。

 もちろん、そうやってキャンセルカルチャーを推し進めることも表現の自由のひとつと反論があるだろうけど、それは他人の表現の自由を侵害する以上、公共の福祉に反すると言えるだろう。

 現状、日本のキャンセルカルチャーは民間レベルで止まっているので、深刻な問題までは引き起こしていない。ただ、この民間の空気を政府が利用したら最後、表現の自由はあっという間に殺されてしまう。そうなったら、一人っ子政策のような理不尽がまかり通るようになるかもしれない。

 せっかく自由があるというのに、嫌いなものを排除するために自由を放棄するのはもったいない。他の国のクリエイターが日本で映画を作るためにやってきていることを考えたら、わたしたちはもっと自分たちの手にある自由を大切にしていかなくてはと思わされる。

 



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