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5神智学協会インドへ!~ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

スリランカ仏教の恩人──その意外な素顔

印度天竺は東南の海に、マンゴーのごとく浮かんでいる島国、スリランカ民主社会主義共和国。その実質的な首都コロンボの鉄道ターミナル駅にあたるのがフォート・ステーション。ランカー各地から長距離バスやら鉄道で流れ込む、褐色の雑踏行き交う駅舎の正面には、豊かな顎髭をたたえた格幅のよい初老のアメリカ人紳士の銅像がすっくと立っている。駅前を走るメイン・ストリートもまた、オルコット・マワタ(オルコット通り)と彼の名を冠している。

オルコット大佐の銅像

建前では民族主義的な風潮が強く、腹いせ交じりに植民地時代にちなむ地名を改変する運動も盛んな南アジアで、旧支配人種である白人に与えられたこの厚遇ぶりはいかにも奇異ではなかろうか。銅像の肩にたすき掛けにかけられた色あせた花輪を見れば、彼はいまだ忘れ去られるには至っていないようである。

さて、この銅像の御仁こそ、前章でろくな説明なしに登場願ったヘンリー・スティール・オルコット大佐(Henry Steel Olcott 一八三二〜一九〇七)。仏教復興の恩人として、スリランカ近代史に不朽の功績を残す人物なのである。

繰り返しになるがオルコットは、『神智学協会(The Theosophical Society)』*10と呼ばれるオカルト組織の指導者だった。南アジアの仏教復興運動とオカルティストという取り合わせに、これまた奇異なものを感じる人も多かろう(仏教に不思議なし、という格言があります)。しかしスリランカの近代史を語ろうとするとき、オルコット大佐の名を逸することは絶対に不可能なのだ。

ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐

『神智学協会』は一八七五年九月、アメリカ合衆国ニューヨークに結成されたオカルト・心霊研究家のグループで、その中心にいたのはオルコット大佐ともう一人、ロシア出身のヘレナ・ペトゥロヴァ・ブラヴァツキー夫人(Helene Petrova Blavatsky 一八三一〜一八九一)である。

ブラヴァツキーはオカルト崇拝者の間ではHPBというケッタイな称号でも知られている。旧姓はハーン。ウクライナで貴族軍人の娘として生まれた彼女は、幼い頃から霊感能力にとりつかれていたそうで。十六歳の時、二十四歳も年上のブラヴァツキー将軍と結婚したが、夫婦生活はうまくいかず、すぐに夫を捨てて世界放浪の旅に出てしまった。彼女は東欧・インド・エジプト等を単身で放浪しながら各地に残る「太古の叡知」についての知識を得たと称している。本人の弁によればチベットにも渡り、当地に伝わる秘教の秘儀の伝授イニシエーションを受けたそうだ。真贋いずれにせよ履歴に謎の多い人物で、エジプトやヨーロッパ界隈の神秘主義サークルに出入りし、現世と霊界との通信を取り持つ霊媒を生業としていた。

もう一人の創設者オルコット大佐(HPBと対にしてHSOとマレに呼ばれる)はブラヴァツキーより一年遅れて、アメリカ合衆国ニュージャージー州オレンジ郡の厳格なピューリタン(長老派)家系、一六三〇年代にイギリスから新大陸に植民した(アメリカにしては)由緒ある一族に生を受けた。経済上の困難から学業は途中で放棄したが、オハイオで農業にいそしむうちに、若くして農学者・農業ジャーナリストとして名声を得た。一八六一年に南北戦争が勃発するや志願して陸軍省に勤務し、契約業者の汚職捜査の仕事まで任され、その功績で大佐(Colonel)の称号を授与された。やがて独学で法律を修め、ニューヨークで弁護士を開業し、主に関税や保険業に関する事案を取り扱い、保険会社の取締役も務めた。また多忙をぬってフリー・ジャーナリストとしても活躍する仕事人間、ニューヨークのちょっとした名士といったところの人物だった。

ブラヴァツキー(ブラヴァツカヤ)夫人とオルコット大佐

スピリチュアリズムの時代

折しも十九世紀の後半、欧米ではラップ現象やポルターガイストといった心霊現象の信憑性と、その意味をめぐる議論が世間を騒がせている最中だった。発端は一八四八年にニューヨーク州郊外ハイズヴィルで起きた怪異事件。ある家で毎夜毎夜、家具のきしむ音や奇妙な叩音が続いたという「お化け屋敷騒動」である。古今東西よくある話といやそれまでで、同じ頃(嘉永元年)の日本だったら物好き奉行が日記に記す程度で済んだろうが、ここは文明開化の先輩アメリカ合衆国。ナゾの叩音はお化け屋敷の住人によって、あらんことか「異界からのモールス信号」に見立てられてしまった。ちなみにサミュエル・モースがワシントン〜ボルティモア間四十マイルに電信回線を敷設したのはそのたった四年前のこと。幽霊もずいぶん勉強熱心である。

トンツートンツー幽霊屋敷での粘り強い対話が続けられた結果、「音の主は実はこの家で数年前に殺された行商人の霊だった!」という驚くべきオチがついた。この「ハイズヴィル事件」をきっかけとして、アメリカでは家庭交霊会などと称されたサークルが各地で結成され、同じく霊との通信を演出する霊媒チャネラーが雨後の筍のごとく出現した。欧米社会を席巻したスピリチュアリズム運動の始まりである。ハイズヴィル事件の数年後、アメリカ合衆国の心霊主義者スピリチュアリスト人口は二百万人を数えたという。

「万国のプロレタリアートよ団結せよ!」

ブリュッセルに亡命中のカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが『共産党宣言』の獅子吼を放ったのも同じく一八四八年のこと。一八四五年アイルランド大飢饉に端を発する経済危機はこの頃全ヨーロッパに波及し、パリでは二月革命の嵐が吹き荒れた。少しく鳥瞰するならば、『霊魂不滅』というキリスト教の根幹に関わるドグマが、自然科学の発達、唯物論を掲げる革命思想の擡頭によって厳しい挑戦を受け始めた時代であった。

西欧の辺境・アメリカ合衆国で始まった心霊主義の奔流は、大西洋を乗り越え大英帝国にまで押し寄せ、ヴィクトリア朝の世相に強い刻印を残した。ジャネット・オッペンハイム女史は、この心霊主義が容易に人心をかち得た背景について曰く、

「……心霊主義を代用宗教の格に上らせる際に英国の心霊主義者たちが回復のためならどんな薬でも呑み下そうとする絶望に満ちた人々だったと考えるのは誤りである。人間の地位を保証人とし唯物論を否定する信念でありさえすれば、どんなものでも忠誠を誓おうとしていたのではなかった。彼らが支持したのは、科学的に受け入れられるような言葉と手続きで宗教上の問題を解決してくれて、その時代の特殊な要求に応えてくれると信じた一つの信念体系だったのだ。」(『英国心霊主義の抬頭』 和田芳彦訳 1992.1 工作舎)

近代科学は圧倒的な説得力を持った唯物的世界観を提示する裏腹で、何の悪気もなしに、神と永世を信ずる善男善女の魂を掘り崩していった。時代の背後を覆った不安と社会規範の崩壊は、退屈な牧師のお説教ではなく、あくまでそれなりに合理的な筋道を装った「物理的心霊現象」の再提示によって克服されねばならなかった。そう、断じて「科学的にも、霊魂は実在する!」のでなければならぬ……。近代文明を放棄することなど叶わぬ西欧社会の人々にとって、それはあまりにも切実な要請であった。

運命の出会い

オルコットとブラヴァツキーの神智学は、数年後には心霊主義に代替する、より精緻でもっともらしい、あるいはキリスト教に取って代わる野心をも秘めた信念体系として欧州でも広く受け入れられるのである。しかし、オルコット大佐のオカルティストとしてのキャリアもまた、最初はスピリチュアリズムとの出会いによって培われたのだ。

ヘンリーと心霊学の出会いは一八五〇年代、彼がまだ二十歳の青年だった時分にさかのぼる。オハイオ州に遊学中、心霊サークルに参加してラップ現象やチャネラーによる死者との交信を「体験」し、自ら催眠術や精神療法をマスターしたオルコット。ニューヨークに戻った後もスピリチュアリスト・サークルの主要メンバーとして活躍していた。とはいえ心霊主義ブームの冷却化とオルコット自身の世俗的成功とは彼をしぜん心霊世界から引き離していたのだが……。一八七四年、オルコットは思うところあり『ニューヨーク・デイリー・グラフィック』の記者としてヴァーモンド州チッテンデンの霊媒師一座、エディ兄弟を調査した。そしてこの取材を契機に、ヘンリーは若かりしころ魅了されたスピリチュアリズムの世界に再びのめり込んでしまったのだ。

エディ兄弟への取材とそのレポートを通じ、(ジャーナリスト仲間の罵詈雑言を浴びつつも)すっかり「心霊ジャーナリスト」の立場を鮮明にしてしまったヘンリー。関連は不明だが、その頃に長年連れ添った妻との離婚を経験している。そして同年の十月頃、取材先のチッテンデンにて、オルコットは彼の新聞記事の読者だという不思議な中年女性と巡り合った。その人こそ、エジプトからフランスを経て、ニューヨークに渡来していたブラヴァツキー夫人であった。

ラマ僧院の理想主義者

ヘヴィー・スモーカーのブラヴァツキーは煙草を取り出した。オルコットはすかさず〝Permettez-moi, Madame?〟(よろしいですかな? マダム)まだ英語のおぼつかぬブラヴァツキー夫人にフランス語で語りかけ、マッチの火を差し出す。紫煙たなびく部屋の中で、二人はたちまち意気投合した。それからの長いパートナーシップの始まりである。気難しいカリスマ的な霊媒と、彼女を崇拝する実務家肌のヤンキー紳士。彼らはカップルというより、まったく資質の違う「双子」のように見えた。翌一八七五年十一月十七日、この奇妙な双子によって新しいオカルト組織が旗揚げされる。『神智学協会』の誕生である。その基本理念は三つのスローガンにまとめられた。

一、人種・信条・性・カースト(身分)の差別なき、世界的友愛精神(Universal Brotherhood)の核を形成すること。

二、宗教・哲学・科学の比較研究を奨励すること。

三、自然の未知の法則と、人間の内面に隠された能力を研究すること。

元来潔癖なピューリタン気質のオルコットには、スピリチュアリズムにつきまとうインチキや、交霊会にかこつけた猥雑で退廃的な雰囲気が我慢ならなかった。そんなとき、ブラヴァツキーは、西欧やアジアに連綿と存在してきた秘教の伝統とやらを携えてオルコットの前に現れた。「双子」の出逢いによって、幽霊とのモールス通信から始まったスピリチュアリズムのバカ騒ぎは、よりましな精神のステージへと導かれようとしていた。神秘の扉の向こうでは、人類の歴史の裡で連綿と受け継がれてきた「太古の叡知」が二人を祝福しているはずだ。とにかくブラヴァツキーは、神智学が単に「珍奇な新宗教」として扱われることを毛嫌いした。曰く、

「昔は『智慧の宗教』はどれも同じでした。かつて秘儀はどこにもありましたが、その秘儀でイニシエートに教えられた教えがどこでも同じだったことは、太古の宗教哲学がすべて同じだったことを立証しています。古い宗教はすべて、それよりも前にただ一つの神智学のあったことを示しています。」(『神智学の鍵』原著一八八九年、田中恵美子訳、神智学協会ニッポンロッジ、一九八七年)

とはいえ、霊媒師を売り物にしていたブラヴァツキーが、のちのような洗練された自己言及に辿り着き、かつその説明を素直に受け入れる信奉者を得るには、しばらくの時間が必要であった。ブラヴァツキー夫人は非常な勉強家で、世界中の神秘思想をがむしゃらに取り込んで神智学の体系(パッチワーク)を拡げてゆく技量は名人芸と謂っても過言ではなかった。しかしフリーメイソン・薔薇十字・カバラ・エジプト秘教・道教……雑多な神秘思想の坩堝と化した神智学協会は、同業者の中傷や外部からの訝しげな視線の焦点ともなってゆく。実際、ブラヴァツキーとオルコットがその頃同居していたニューヨークのアパートは、周囲から「ラマ僧院(The Lamasery)」と冷笑こめてアダ名された。

オルコットは協会の宣伝も兼ね、死亡した会員の某男爵を火葬し、自ら発案した妙ちきりんな儀式で弔った。これは西欧人による火葬葬儀の先駆けであったが、世間は嘲笑で迎えるのみだった。一八七五年にオルコットが自らの心霊現象探求をまとめた著書『他界からの人々(People From the Other World)』はまったく売れなかった。

スローガンこそ洗練されていたが、神智学協会の実際の活動はといえば、ブラヴァツキーのもとにせっせと届けられる「マスター(神智学の霊的指導者)」の指令、つまり霊界から届けられる奇妙な置き手紙(大本教の出口なおのようなお筆先ではなく、あくまで置き手紙というのが興味深い)や、物質的な「しるし」によっていちいち振り回されていた。オルコット自身、一八七五年五月のある晩、ベッドルームにどこからともなく出現したラージプート風ファッションの黒髪の男(マスターの幻身だとか……)より「しるし」のターバンを授かって、「我が人生でもっとも重要な体験」と感涙にむせんでいた次第。

『ヴェールを脱いだイシス』

一八七七年九月、オルコットに英語の添削を受けて、ブラヴァツキーは初期の代表的著作『ヴェールを脱いだイシス(Isis Unveiled)』をニューヨークで出版した。本書は二部構成で、第一部ではダーウィン進化論を筆頭にヴィクトリア朝時代を席巻した唯物的科学思想への烈しい批判を浴びせている。第二部は比較宗教論にあてられており、「科学と宗教が融合した知恵の教義」として仏教に高い評価を与えていた。筆者は残念ながら通読したことはないが、コリン・ウィルソンによれば「……「カバラ」やコルネリウス・アグリッパ、ピタゴラスや、仏教や、ヒンドゥー教や、道教の経典からとったさまざまな教義をないまぜにした信じられぬほど博識な書『ヴェールを剥がれたイシス』は今なお、たとえその構想の大胆さのためとはいえ、楽しく読むことのできる著作……」だと評価されている。

Isis Unveiled

同書については、なんと本邦の南方熊楠センセイも書評を残している。曰く、

「……オッカルチズムのことは小生も少々読みしが、名ありて実なきようのことにあらずや。たとえば霊験とか妙功とかいうほどのことで、一向その方法等は聞き申さず。ブラヴァツキのこのことの傑作前後二編四冊のうち二冊、ずいぶん大冊なるが、前年読みしも、ただかかる奇体なことあり、かかる妙な行法ある、というまでにて、いわば『古今著聞集』、『今昔物語』等に安倍清明、加茂保憲等のしき神を使いしこと多くのせたるようなことで、面白いばかり、一向核なきことなりし。」

南方熊楠から土宜法龍へ宛てた書簡に見える一文で、明治二十六(一八九三)年十二月中のものと推測される。「ブラヴァツキのこのことの傑作」とはもちろん、『ヴェールを脱いだイシス』のことだ*11。

神智学協会インドへ!

次いで神智学協会の二人は同年暮れ、インド・ボンベイを拠点としたヒンドゥー教改革運動の一つ、『アーリア・サマージ(Arya samaj)』の指導者スワミ・ダヤーナンダ・サラスヴァティー(Dayananda sarasvati 一八二四〜一八八三)との間に歴史的な通信をしたため始める。現うつつならぬぞあはれなるマスターのお歴々に続き、オルコットたちの前に本物の「インドの聖者」が名乗りを挙げたのだ。

アーリア・サマージは、奇しくも神智学教会の設立と時を同じくして、西インドはボンベイ(現ムンバイ)に誕生した。指導者のサラスヴァティーはインド北西部カーティヤーワールの一寒村のバラモン家系に生まれ、二十二歳の頃に家を出て遊行者サニヤーシとなった。幾多の師を経めぐる精神遍歴の末、自らの宗教思想を確立したサラスヴァティーは、一八七五年『アーリア・サマージ』を設立。有名な「ヴェーダに帰れ」という言葉をスローガンに、ヒンドゥー教思想の純化と近代化を図る運動を展開したのである。彼は低劣な偶像崇拝を排し、カースト差別・幼児婚・寡婦の再婚禁止などのインドの理不尽な因習を糾弾した。聖典のヒンディー語訳の事業を始め、それまではバラモン・クシャトリアなど上位カーストの男子にのみ許されていた聖典ヴェーダの学習をすべての階層の男女に開放するとともに、インドの民族精神の偉大さを鼓舞し、貧民救済・孤児院の建設などの社会事業にも精力的に取り組んでいた。

太古の叡知を求め、世界中の神秘思想を吸収していた神智学徒は、サラスヴァティーとの通信を介して次第にインド宗教への憧れを強めていった。インドにはびこる迷信・因習を排し、純粋な太古の叡知を復興させんと奮闘していたサラスヴァティー。その志は、有象無象のペテン師や心霊ゴロが横行したスピリチュアリズムを、崇高な「オカルト・サイエンス」にまで止揚せんとした神智学の理念と共振するように映ったのだろうか。「ヴェーダに登場する神々は名称が異なるだけで、神はただひとつである」というサラスヴァティーの信条もまた、神秘主義にありがちな諸宗教融合主義シンクレティズムと響き合うものだった。

二つの団体はほどなく提携し、「現地でサンスクリット学者の指導を受けながら、ヴェーダ文獻の古代語、写本、ヨーガ行法の「驚異」などを研究するため」*12の使節団派遣が決定された。インドに惚れ込んだのはヤンキー紳士とロシア女のほうで、神智学協会をいっとき『アーリア・サマージの神智学協会』と改名し、ニューヨークで集めた会費と寄付金をすべてアーリア・サマージに送ってしまったほどだ。ブラヴァツキー夫人はインドで自由に活動するためにアメリカ市民権も取得している。もっとも宗教的な情熱だけが彼らを突き動かしたのではない。設立当初アメリカ心霊主義者の不満分子を糾合しそこそこ注目された神智学協会だったが、その後はジリ貧状態が続いていた。後述するが、神智学の双子がアメリカで孤立していた頃、折しも大西洋を隔てた南アジアの地ではちょっとした神智学協会ブームが沸き起こりつつあった。

翌一八七八年十二月、ブラヴァツキー夫人とオルコット大佐を中心とした神智学協会の使節団一行は、しがらみとスキャンダルと無理解のうずまくニューヨークを振り切り、インドはボンベイへ向けて旅立ったのである。


註釈

*10 『南方熊楠 土宜法竜 往復書簡』一九九〇年、八坂書房、二十一頁参照

*11 神智学協会の履歴については〝The White Buddhist -The Asian Odyssey of Henry Steel Olcott-〟Stephan Prothero, Sri Satguru Publications, India, 1997〝YANKEE BEACON OF BUDDHIST LIGHT Life of Col. Henry S. Olcott〟Howard Murphet, The Theosophical Publishing House, 1988、前出『英国心霊主義の抬頭』などを参照した。最近邦訳の出た『神秘主義への扉 現代オカルティズムはどこから来たか』ピーター・ワシントン(白幡節子・門田俊夫訳、中央公論新社、一九九〇年)は、神智学協会の変遷を中心に据え、十九世紀中頃から始まる西欧オカルト史の流れを手際よくまとめている。

*12 『インド幻想紀行 上』H・P・ブラヴァツキー、加藤大典訳、ちくま学芸文庫、二〇〇三年、五十二頁

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