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13 野口復堂 ついにインド上陸|第Ⅰ部 噺家 野口復堂のインド旅行|大アジア思想活劇

南の島の天長節

そんな調子で密度が濃いんだかなんだかわからない日々を過ごしていた野口復堂。ほかにもセイロン人の結婚式に立ち合った際の印象記やコロンボの街頭で救世軍の一団を目撃し、その物真似をネタとしてマスターした逸話など、おかしな話題は枚挙にいとまないが割愛しておく。

ちょうど来島一カ月に足らんとした頃に、復堂は南アジアの小島で十一月三日の天長節(天皇誕生日)を迎えた。

「公使館か領事館があれば早朝御真影拝賀に出かけるのだが、それが無いのみか、陛下の御写真は新聞に出たのさへもない。そこで復堂は明治十年京都間の町竹屋町の竹間小学校で、学業天覧の際、陛下に咫し尺せきし奉って頭に刻み置きし、陛下二十五歳の御尊影を、クレヨンで画き出し、赤インキで沢山日章旗を作り、心ばかりの天長節祝賀会を開いて、土人に陛下の御威徳談を聞かせた処、いづれも心の底から日本の臣民たる事の光栄と幸福を羨んだ。」

スリランカの人々が復堂のクレヨン画でもって明治天皇の顔を知ったと思うと、なんだか微笑ましい。そして十一月二十日、ついに意中の人オルコット大佐が、ロンドンからマドラス(現チェンナイ)に帰還したとの急報が入った。

ダルマパーラとともにインドへ発つ

アディヤール神智学協会本部より連絡を受けた野口復堂は、急ぎダルマパーラとともにコロンボを離れた。船旅に飽き飽きしていた復堂はマドラスまで汽車の旅を所望とのことで。まずはインド南端のトゥティコリン(Tuticorin、現トゥーットゥックディ Thoothukudi)に向かった。一等船客には白人ばかり、黒いダルマパーラと黄色い復堂は毛唐の冷たい視線を受け流しての短い船旅。

復堂がインド上陸の第一歩を印したトゥティコリンはいまも南インドの主要港として賑わっている街だが、観光名所は何もない。筆者がインドのツーリストボードで「トゥティコリンに行きたい」と尋ねたらずいぶん訝しげな顔をされた。あいにくバスの関係でトゥティコリンのバスターミナルあたりをうろうろすることしかできなかったが、郊外に広大な塩田の拡がる風景が印象的だった。明治二十一年、野口復堂渡印の当時、遠浅のトゥティコリン港に汽船は接岸できず、一行は沖からランチに乗り込み港に向かった。船首には白地に日の丸のいわずと知れた日章旗。そして六金色の仏教旗が翻っている。

タミルナードゥ州トゥーットゥックディ県の塩田

夢想兵衛が栄華の夢か──トゥティコリンの熱狂

「ランチは次第〳〵に浜辺へ近付いて来た。桟橋の上を見ると白鷺の群かと疑われたは、予を歓迎のチューチコリンの市民である。そこで復堂は考えさせられた。乗り込みには前景気が大事。錫蘭へは突然だから牛車一台。以後一箇月島内を掻き回して居るから、日々の事は新聞紙上で前景気が付けられし上、印度総督代理や当市の市長が出迎えに往く位だから、桟橋の満員は当然である。

いよ〳〵ランチは桟橋に着く。巡査は摺小木の様な棒を振って群衆を制して居る。歓呼の声は耳を聾せん許り。復堂は全く凱旋将軍である。その凱旋将軍の扮装はと見れば、廃物利用に則って当時流行外れの大五つ紋の絹の羽織に越後上布の着物。……其上の麻の十番を穿き込んだ。これなどは旧劇の衣装部屋より外になき品。茲に又驚くよりも寧ろお可笑しかりしは、こわれしとて船へ残し置きし復堂の籠枕を、いつ持出せしものか、恭しく復堂の前に捧げて行列の前を拂うのである。

さて桟橋を離るればマドラスより差回しの獅王冠の金紋付きのランドル馬車に乗せられ、陪乗は総督代理と市長で……馬の足掻きも静かにカツ〳〵コツ〳〵と進むと、左右堵(人垣)をなす市民の群はフーラア〳〵と予の馬車へ香気馥郁たる花を投げる。これお経に所謂曼珠沙華摩珂曼珠沙華である。こうなると復堂は王侯相将兼釈迦牟尼世尊である。夢想兵衛が栄華の夢を見て居る様な気持ちもすれば、又狐につまゝれて居るような気分もする。」

インドに足を踏み入れた途端に、野口は船中の小汚い劣等人種扱いから打って変わって、いきなり国賓級の待遇を受けたわけだ。 当時インドを公式に訪れた日本人といえば、仏僧の島地黙雷、北畠道龍、南條文雄など数名の個人的旅行者を除けばほぼ皆無であった(次章で日本人の渡印歴について細かく触れたい)。彼のインド訪問は「日出づる国」からの最初の「特別使節(Special Delegate)」として受け止められたのである。

一路アディヤールへ

さて、さんざんトゥティコリン市内を引き回された復堂はローヤルホテルへと帰った。ホテルの主人はトラの毛皮の靴とスリッパを、市長の手を通じて復堂へ献上。今夜のディナーには市の名誉職や篤志家が列席すると聞いて面食らった復堂、せめて頭に櫛の一ツも入れたい、旅中の汗埃も落としたいと沐浴を所望すれば、

「やゝ待たされて後案内されたは、絨氈じゅうたん敷きつめたる一室の真中に、大盥に水が満々と張ってある。這入れば絨氈の上へ水が溢れる。ボーイを呼んで之を詰るとボーイの曰くには、『こゝは浴室で、床はセメント、絨氈は今朝市役所から敷いたので、濡れても構いません』とあったから、それではと快く一浴して……」

晩餐に臨んだ復堂先生は列席のお偉方に簡単な謝辞を述べ、食後前後左右よりの諸種の質問応答に努めたが、なかには日本を支那(中国)の属国と思っている者もいた。

「それもその筈、当時彼らが読んだ世界万国史のみならず復堂自らも学んだ世界万国史には支那があってもまだ日本は無かったからである。」

時は明治二十一年末。日本と欧米各国の交流もようやく開け始めたとはいえ、日清戦争も経ない日本はまだまだ世界の三等国、どマイナーな極東の小国でしかなかった。なにせホンダもソニーもコミケもなかった時代。

さて、あまりの歓待ぶりに驚いた復堂は一息ついたところで同行のダルマパーラに「今回の(神智学協会)大会には世界の各国よりデレゲートが集ると聞いて居るが、いづれも皆予と同様今日の如き大歓迎を受るのか」と訊いた。するとダルマパーラは澄ました顔で「否々君を除くの外は悉く普通のデレゲートで、君だけはスペシアル、即ち特別の二字が頭にある、だから特別の歓迎振りである」と答えた。野口復堂、大いに鼻高からざるを得なかった。

「復堂に先んじて印度に入りし著名な人々には、北畠道龍、南條文雄、赤松連城の三師があるが、しかし印度人は一向記憶しては居らぬ。それと云うも三師は何れも一個の観光者、個人としての単なる旅行であるからであって、復堂のとは場合が違うからである。」

翌日正午がマドラス行きの汽車出発の時間。復堂は例のランドル馬車に乗り、定刻前にホテルを出た。「群衆は昨日に倍し、投ぐる花は車上に山。」トゥティコリン市長らに見送られ、復堂とダルマパーラは一路マドラスはアディヤールを目指して旅を続けた*33。


註釈

*33 ここまでの引用はすべて「四十年前の印度旅行」野口復堂

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