知識と運とセンスを自責で、いい感じに

センスは知識で磨けるし、磨けるからこそセンスがない人を見るとその努力を怠ってきた怠慢な人なんだなあと感じる

センスを知識で磨く、というのはなにも美術館に行って『ロマン派がどうだ』とかコンサートに行って『モーツァルトがどうだ』とかそういう話ではない

ある程度の知識群から過去を多層的に学んで角度の高い未来予想をさっとやってのけるのがセンスだと思う

あ、これいい例だなあと言うのを本で読んだのでメモがてら

ときおり、「部屋から東京タワーが見えるからこのマンションを買ったのに、目の前に高いビルができて見えなくなっちゃった」と不満を言う人がいる

これは運が悪かった、と思うかもしれないけどたとえば事前に該当地の都市計画を見るとそこが『第二種中高層住居専用地域』だったりする

だとするとこのエリアに高層ビルは建たないから、とか不自然な空き地が複数あるから数年以内に大規模な区画整理が予定されていてタワマンがたちそうだ、とか

過去を知って知識を蓄えることと、未来を読んで予測することは、一見すると矛盾しているようにみえる
でも知識にもとづいて予測することが、センスだといえるのでは?という話

太古は風水も超能力も知識とセンスの塊だったらしい、『どうしたら人が病気にならず、戦で攻められたときに守りやすく、水の流れと風の流れに沿った美しい都ができるか』という問いに『風通しが悪くてカビが生える環境に都をつくったら、疫病が流行する。病人や死者が多い都は栄えない』と判断し、『東や北に龍を置け』となるわけです
それが時を経て『玄関に黄色のものを置け』と圧縮されるわけですね

こういう感じに経験とか知識を多層的に血液の通ったものにできる力がセンスだとおもう、なのでセンスのある人(あり続けるように無意識に努力できる人)がいいよね


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