弱者の糧:レイワ


ライブを好む人には、弱虫が多い。
私にしても、心の弱っている時に、ふらとライブハウスに吸い込まれる。
心の猛たけっている時には、ライブなぞ見向きもしない。時間が惜しい。

何をしても不安でならぬ時には、ライブハウスへ飛び込むと、少しホッとする。真暗いので、どんなに助かるかわからない。誰も自分に注意しない。ライブハウスの一隅に座っている数刻だけは、全く世間と離れている。あんな、いいところは無い。
 
私は、たいていのライブに泣かされる。必ず泣く、といっても過言では無い。愚作だの、傑作だのと、そんな批判の余裕を持った事が無い。
観衆と共に、げらげら笑い、観衆と共に泣くのである。五年前、世田谷区下北沢の入り口に犬の置物のあるライブハウスでライブを見たが、ひどく泣いた。翌朝、目がさめて、そのライブを思い出したら、嗚咽が出た。
翌朝、思い出して、また泣いたというのは、流石に、このライブ一つだけである。どうせ、批評家に言わせると、大愚作なのだろうが、私は前後不覚に泣いたのである。あれは、よかった。なんというバンドの楽曲だか、一切わからないけれども、あの楽曲の作曲者には、今でもお礼を言いたい気持がある。

私は、ライブを、ばかにしているのかも知れない。芸術だとは思っていない。おしるこだと思っている。けれども人は、芸術よりも、おしるこに感謝したい時がある。そんな時は、ずいぶん多い。

やはり五年前、高円寺に住んでいた頃の事であるが、くるしまぎれに中野まで、何のあてもなく出かけていって、それから手元のApple Watchを売り、そのお金でライブを見た。この時も、私は大きな声を挙げて泣いた。たまらなくなって便所へ逃げて行った。あれも、よかった。
 
私は洋楽は、余り好まない。歌詞が、少しもわからず、さりとて、あの画面の隅にちょいちょい出没する翻訳を一々読みとる事も至難である。私には、文章をゆっくり調べて読む癖があるので、とても読み切れない。実に、疲れるのである。それに私は、難聴のくせに補聴器をかけていないので、よほど前の席に坐らないと、何も聴こえない。

私がライブハウスへ行く時は、よっぽど疲れている時である。心の弱っている時である。敗れてしまった時である。真っ暗いところに、こっそり座って、誰にも顔を見られない。少し、ホッとするのである。そんな時だから、どんなライブでも、骨身にしみる。


日本のライブは、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。野望を捨てよ。小さい、つつましい家庭にこそ幸せがありますよ。お金持ちには、お金持ちの暗い不幸があるのです。あきらめなさい。と教えている。世の敗者たるもの、この優しい慰めに接して、泣かじと欲するも得ざるなり。いい事だか、悪い事だか、私にもわからない。
 
観衆たるの資格。第一に無邪気でなければいけない。荒唐無稽を信じなければいけない。利巧ぶったら、損をする。
 

これからのライブは、必ずしも「敗者の糧」を目標にして作るような事は無いかも知れぬ。けれども観衆の大半は、ひょっとしたら、やっぱり侘わびしい人たちばかりなのではあるまいか。Zeppを、ぐるりと取り巻いている入場者の長蛇の列を見ると、私は、ひどく重い気持になるのである。「ライブでも見ようか。」この言葉には、やはり無気力な、敗者の溜息ためいきがひそんでいるように、私には思われてならない。

弱者への慰めのテーマが、まだ当分は、ライブの底に、くすぶるのではあるまいか。

This story is entirely fictional with the utmost respect to Osamu Dazai


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