多様性と共生の最終的な再考 4/4 「正欲」
多様性の再定義を試みる
もはや誰もが知ることとなったダイバーシティ&インクルージョン、DE&Iという言葉ですが、その多様性や公平性、包括性の概念は、現代社会においてしばしば言及されるものの、その深層には複雑な哲学的・倫理的問題が存在します。今日までご紹介をしてきた朝井リョウさんが描く『正欲』は、社会の許容範囲を超えていると思われる多様性に焦点を当て、この問題を鋭く描き出しています。この小説が提起するテーマは、単なる社会的多様性の尊重を超え、私たちが理解しがたい他者をどのように受け入れるかという、より根源的な問いを私たちに突きつけています。
<<<<<<<<< ここからは一部ネタバレを含むのでご注意ください >>>>>>>>>>
倫理における顔と社会的な正義
エマニュエル・レヴィナスは、『全体性と無限』(1961)において、他者の「顔」を通じて倫理が成立すると論じています。彼は、他者は常に自分を超越し、理解を超えた存在であり、その存在に対して無条件に応答し、責任を持つことが倫理の出発点であると主張しました。『正欲』における水性愛者たちのような存在は、多くの人々にとって理解不可能な他者性を体現しています。レヴィナスの視点からすれば、この他者性を受け入れることが倫理的に求められるのです。
さらに、アマルティア・センの「ケイパビリティ・アプローチ」は、社会的な正義を達成するために、個々人が持つ「ケイパビリティ(潜在能力)」を最大限に発揮できる環境を整えるべきであると説きます。センは、『Development as Freedom』(1999)の中で下記のように述べています。
『正欲』において、主人公たちは社会の規範から逸脱した存在として描かれますが、彼らのアイデンティティや欲望を理解し、そのケイパビリティを尊重することが真のインクルージョンへの第一歩となるのです。
また、エリザベス・アンスコムが『モダン・モラル・フィロソフィー』(1958)で提唱した「意図」と「行為」の関係を考慮すると、『正欲』の登場人物たちの行動は、単なる社会的逸脱ではなく、彼らの内的な意図や価値観に基づくものであると理解できます。アンスコムの理論に基づけば、彼らの行動を倫理的に評価する際には、その意図や動機に焦点を当てるべきであり、単に社会的規範に従わないからといって即座に否定すべきではないことが示唆されます。
犯罪心理学と逸脱行動の理解
『正欲』に描かれる性的嗜好は、一般的な社会規範から逸脱しており、それゆえに登場人物たちは表層的、深層的に社会から排除されていきます。このような逸脱行動を犯罪心理学の視点から検討すると、彼らの行動や心理に対する理解が深まります。スタンレー・ミルグラムの有名な「服従実験(ミルグラム実験)」(1961)は、人々が権威に従う状況において、通常の倫理的判断をどのように放棄するかを示しています。彼の研究は、社会的圧力や権威が個人の行動に及ぼす影響を明らかにし、逸脱行動が必ずしも個人の内的な性質によるものではなく、外部からの影響に起因することを示しています。
『正欲』の登場人物たちもまた、社会からの強い圧力や排除を受ける中で、自己のアイデンティティを守るために、自らの性的嗜好を隠すか、あるいはそれを強化する方向に進むことを選びます。この選択は、フィリップ・ジンバルドーの「ルシファー効果」(2007)で論じられるように、環境や状況が個人の行動を大きく左右することを示唆しています。
この視点からすれば、『正欲』における逸脱行動も、彼らが置かれた社会的状況によって生み出されたものであり、その行動の背景には、深い心理的葛藤と社会的圧力が存在しているのです。
さらに有名な例で言うと、フーコーの『監獄の誕生』(1975)は、社会がどのようにして「正常」と「異常」を定義し、その定義に基づいて逸脱者を監視・矯正するメカニズムを描き出しました。フーコーは、近代社会における権力が、身体や行動を規律することで個人を統制しようとする構造を明らかにしました。『正欲』の登場人物たちが社会から排除される過程は、まさにこの権力メカニズムの一環であり、彼らの性的嗜好が「異常」として分類されることで、社会からの監視と矯正の対象となっているのです。この分析は、現代社会における逸脱行動の理解を深め、単なる個人の問題として片付けることの危険性を示唆しています。
デジタル時代における共生の可能性と課題
デジタル技術の進展は、人々に新たな共生の可能性を提供していますが、それと同時に新たな課題も浮き彫りにしています。『正欲』の登場人物たちは、インターネットを通じて自己表現を行い、新たなコミュニティを形成することで、現実世界で感じている孤立感を和らげようとしています。しかし、このデジタル空間でのつながりは、しばしば表面的で一時的なものであり、深い人間関係を築くことが難しい現実をもたらします。
シグムント・バウマンは『流動化する愛』(2003)で、現代社会における人間関係の流動性を分析し、その不安定さと脆弱さを指摘しています。
『正欲』におけるデジタル時代のつながりも、こうした流動性の一環であり、リアルな世界での人間関係とは異なる性質を持つものです。登場人物たちは、デジタル空間で一時的なつながりを見つけることで自らを慰めようとしますが、それは彼らの孤独感を完全に癒すものではありません。
一方で、デジタル技術は、新たなインクルージョンの形態をもたらす可能性も秘めています。デジタルプラットフォームは、従来の社会構造では排除されがちだった個人やコミュニティに声を与え、彼らが自己表現を行い、共感を得るための新しい場を提供します。これにより、多様な声がより広く聞かれるようになり、インクルージョンの範囲が拡大する可能性があります。アマルティア・センのケイパビリティ・アプローチの観点から見れば、デジタル技術は、個々人が自己のケイパビリティを最大限に発揮できる環境を提供する新たな手段であるとも言えます。
しかし、この新しいインクルージョンの形態には、情報の信頼性やプライバシーの問題といった課題も伴います。『正欲』の登場人物たちが、オンライン上での自己表現を通じて自己を再構築する過程は、デジタル時代における自己同一性の流動性を示しており、それは同時に、自己の一貫性やリアルな人間関係における摩擦を引き起こす可能性もあります。これにより、デジタル時代における共生の可能性は広がりますが、それと同時に、その共生が持つ不確実性とリスクも存在するのです。
『正欲』から読み解く現代社会の課題と未来への示唆
『正欲』は、多様性とインクルージョンの課題、犯罪心理学的な逸脱行動、そしてデジタル時代における共生の可能性と課題を鋭く描き出しています。この分析を通じて、社会がどのように「正常」と「異常」を定義し、その定義がどのように個人のアイデンティティや行動に影響を与えるかが明らかになりました。また、デジタル技術の進展がもたらす新たな共生の形と、それに伴う倫理的な課題についても考察しました。
現代社会においては、多様性を尊重しつつ、他者との共生のあり方を再定義することが求められています。『正欲』が示唆するように、理解しがたい他者性を尊重し、それと共に生きるための倫理的な姿勢が必要です。それは単に違いを受け入れるだけでなく、他者との共生に向けた積極的な努力を意味します。このような視点から、『正欲』は現代社会に対する深い倫理的・哲学的問いかけとして、私たちに未来の可能性を探求するよう促しています。
最終的に、『正欲』は、私たちが直面する多様性の限界や共生の課題に対する洞察を提供し、現代社会が直面する根本的な問いに対する深い考察を促す作品として位置づけることができます。この小説を通じて、私たちは自己を見つめ直し、より包括的で人間的な社会を築くためのヒントを得ることができるのです。
映画化もされていますが、是非一度、文章という自分自身の脳内だけでイメージ化ができる手法でこの小説を読んでみると面白いかもしれません。
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