「傷ついただれかを癒やしたい」と願う、わたしとあなたへ。
「患者の治癒を一心に思うこころ」は「癒やし」や、「スピリチュアル的なにか」をもたらすかもしれない、と書いた。
しかし、相手を一心に思うこころ、だけで癒やされるなら、病気なんて生まれてないだろう。
だれかを癒やすって、そうそう簡単なことじゃないとおもう。
多分、もっともっとふかい、意識にはのぼってこない、スピリチュアルな問い(?)が必要だ。
そこに答えは存在しない。
「スピリチュアルな問い」へのふかい理解は、「治らない病気」をかかえたひとへの援助でかかせない。
いや、援助しようとするじぶんを理解することでもある。
今回は、著名人の言葉や、心理学を参考に、「スピリチュアル」について考えてみた。コレをきっかけに、自分の人生観がちょっとだけレベルアップした気がする。
※この記事は「スピリチュアル」についての議論が目的ではありません。
※心理学用語がでますが、浅学なので解釈に間違いあるかもしれません。
「葛藤」する患者と、医療者
ユング心理学では、「癒やすひとも、癒やされるひとも、もともと人間は一つであり、こころの深層でつながっている。」と考える。集合的無意識とよぶらしい。
「治療者と患者」、「セラピストとクライアント」、「癒すものと癒されるもの」にわけてしまうと内部で分裂がおこってしまう。
ん、どういうことだろう?
つまり、治療者はどっかで「いいひとでいなきゃ!」とか「治さなければ!」など、理想の自分を演じてしまい、「自信がないじぶん」や「能力の至らないじぶん」を抑圧する傾向がある。
(思い当たり過ぎて怖い。)
治療者にじぶんの考えを話したら「そんなことはありえない。」と否定された。
「なんでもっとはやくこなかったんだ」と責められた。
これは投影といって、「力になれない」という後ろめたい気持ちを、患者のせいにして非難しているのだ。
(だって、弱みをみせるのって怖いもん。)
一方、患者は「この先生がわたしを救ってくれる。」「わたしは助けが必要なんだ。」と、治療者に期待しすぎてしまい、本来もっている自己治癒力を発揮できなくなるばあいがある。
治療者に特別な感情を抱いて、プライベートに迫ろうとする。
逆に、治療者に対して攻撃的になったり、うらんだりする。
これは転移といって、過去の人間関係からくるコンプレックスを、目のまえの医療者に重ねあわせているのだ。
(ちょっと距離が近すぎるひと、いるよね?)
ふたりに共通するのは「内なる葛藤」があること。
Aという理想のじぶん、Bという目をそむけたいじぶん。
そのはざまで、モヤモヤと葛藤しているじぶんがいる。どちらが本当なんだろう?
「傷ついたヒーラー」という、あらたなじぶん
わたしが敬愛している家庭医の藤沼康樹先生は、「ヒーラーの要素」について、こう述べている。
「患者-治療者の役割がフュージョンする瞬間がある。」
「自身が傷ついた経験を乗り越えたひとは、患者と癒やしの瞬間を共有できる。」
癒やすひとの内面には「傷ついたヒーラー」がいるという。
つまり「傷ついたじぶん」からは目をそむけ、それを相手に投影して、「傷ついただれかを癒やしたい」と願っているのかもしれない。
ほんとうに癒されるべきは、じぶんなのでは?と少し怖くなる。
そこには、目をそむけたい「傷ついたじぶん」から逃げずに、のりこえるプロセスが必要だろう。多少の痛みをともなうかもしれない。いや、相当な苦労があるだろう。
失敗を恐れるじぶん、能力の及ばないじぶんを認めたくない気持ち。誰にでもあると思う、わたしはめちゃくちゃある。
もし、「傷ついただれかを癒したい」と願うのなら、じぶんの弱さ、劣等感、欲求、希望、etc・・・「内なる葛藤」と向きあってみようとおもう。
そうすれば、「患者ー医療者」という分裂した関係でなく、悩みを持ちながらも、ともに歩みを進めるものどうし、「癒やしの瞬間」を共有できるかもしれない。
「Aというじぶん」と、「Bというじぶん」のどちらとも折り合いをつけて、「Cというあらたなじぶん」を探したい。
参考文献
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