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自分の評価は自分で決める

昨日、ある本を読んだ。

「チーズはどこへ消えた?」
という本だ。

アマゾンでもベストセラーになっており、
皆様の中にもすでに読んだ方もいるのではなかろうか。

この本はシンプルながらも
真理をついているように思えた。

ちなみに続編も出ているため、
興味のある方は二冊とも読むことをお勧めする。

短いながらも
人生の指南書になるような考えさせられる本だ。


この本の事は明日にでも書くが、
今日はこの本を読んだときに
私はある行動をしてしまったことについて書きたい。


ある行動とは、
ネットでこの本の評価を調べたことだ。


本の評価を調べることは悪いことではない。

他の人の感想は
別の視点からの意見を聞けるなど
メリットがきちんと存在しているからだ。

行動が悪いというよりも
なぜその行動をしたかが重要なのだ。

私が評価を調べた動機は
安心したかったためだ。


人間は安心を求めている。

特に日本人は顕著だ。

服から行動、言動まで似たり寄ったり。

自分が何をしたいかよりも
周りが何をしているのかを気にしている。

そして同じ行動をして
コミュニティ(群れともいえる)から
離れないようにしている。


これは皆と一緒という安心感を求めている証拠であり、そこに自分の意思決定の裁量がどれだけ影響しているかは言わずもがなである。


私はnoteで度々、
なぜしたいかを考え行動する
ということを述べてきた。

しかしながら、私は本の評価を調べてしまった。

皆が同じ意見であるように願いながら。

安心は私にとって
合理的な行動の要因にはなりえない。

少なくとも評価に関しては。


本来、個人の評価は他に影響されないはずだ。

だが、最近はこういった言動が目に付く。

「ネットでは~って言ってた。」

「○○はそういってたよ。」


正直これらの言葉に意味はない。

別に引用するのは構わないが、
当の本人はどう感じているのか、
何を考えたかが重要であるのに。



ネットの意見や頭のいい人の意見が
全て正しいとは限らない。

ましてはそういった善悪で測れないもの、
例えば創作物の評価は自分で決めるしかない。

誰がどういった評価をつけようと、
あなたの評価を変える必要はないのだ。

他人の意見は
せいぜい参考程度にとどめておくべきなのだ。


実際評価を調べた後、
私は反省をした。

noteで書いていた内容なのに
何故実行できなかったのかと。

私の評価は私の評価であり、
他人と同じ方向を向いていなくてもよかったのに。


しばらくして、私は切り替えた。

なぜなら、こういったことに気づけたからだ。

最も愚かなのは、
気づかず考えもしないことだからだ。

少なくとも私は気づき、考えた。

まだ完璧に実践はできなくても
反省することはできている。

これは前進していることの証明でもあった。


徐々にではあるが、
理想としているところにいつかは届く。

それは理想というゴールがあり、
そこにつくために何をし、
何を考えればいいかを模索し、
行動すればいいのだ。

そうすれば進むべき方に
少しずつでも近づける。


ひょっとしたら本の内容より、
評価を調べたという行動から
ここまで考えられることの方が
収穫だったかもしれない。


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