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理事長

私の記事に、兄も最近何回か登場してきて、ちょっとおおらかでないようなイメージがあるかも知れない。確かに勉学も優秀で、几帳面で潔癖では、ある。そういう意味で母には料理について時々真剣な提案をしたりしていたが、実は兄は、よく笑う、優しい、しかも、お茶目な兄である。

この夏、移動を自粛してほしいと知事が声高に発声していた時期ではあったが、どうしても片付けなければならない所用があったのでやむなく家内と2人、車で1泊だけの帰省をした。所用が終わり、帰路につく前に、集まった兄と私の長男と家内とで近くの墓に参った。そして帰りの車内で、兄の近況を聞いた。

聞くところによると、兄は公共の分譲マンションに住んでいるのだが、まんまと、そこの理事長に就任してしまったというのである。

兄によると理事長とは名ばかりで、体の良い便利屋なんだという。そもそも理事長選びの時に、理事会に集まった面々は、男性がそもそもおらず、奥様方ばかりが集まったそうだ。そして、理事会の終盤、順番的に理事、理事長になるべき人が残り、次の役員の選出の段になった。すると口々に、

やはり、男性の方にやっていただくのがいいのではないかと。

と奥様方は、曰ったらしい。

兄が、

いやいや。たまたま今回集まった人の中では、私一人が男性なのですが、それでは不公平では。

と反論すると、

いえいえ。いつもはっきり発言されるし、とても頼り甲斐のある方だとお見受けします。私たちは、後ろから大人しくついて参りますので。

と、軽く返され、結局多数決、というかほぼ満場一致で兄の理事長が決まったのだという。

昔から兄は、はっきりとものを言う方だが、頼られるとなぜか一肌脱いでしまう。そこに、見事にハマったようだ。


そして、その理事長の仕事というのが、住民のクレーム聞き係だという。ある時は、隣の家の雑音がうるさいのだが注意してくれないかとお願いされる。ある時は、共同場所の使い方のマナーがなっていないので徹底して欲しいと依頼される。ある時は、何度も排水管が詰まるのだが、修理をきちんとしてほしいというクレームに対応する。など。

長男は、仕事上は不動産業界に身を置いているのだが、最後のクレームについての対応は、住民の仕事ではなくて、管理側の責任範囲だから、その公共の分譲主がやるべき仕事ではないかと助言した。

すると兄が言うに、分譲側に任せていたら、通り一遍の見積り対応のみをしてきて、金額が異常に高価だったらしい。仔細に中身を確認すると、不明瞭な工数や管理費を上乗せしていて、とても信用に足るものではなかったのだそうだ。

そこで結局は、兄が業者と直接値引き交渉をして見積りを出し直させ、きちんと立ち合い、見届けて修理をさせるという事態に陥ったのだと。

兄の住んでいるマンションは、築年数がかなり経っている。そして何度か大規模修繕を乗り越えて維持している物件なので、そもそも管理側もあまり手をかけられないし、かけたくもないのだろう。

そこまで聞いて、私が言った。

ちょっと、逃げ腰になってみたら?

兄が言う。

いやいや。自分の携帯電話が、住民から理事長への直接の連絡先として既に配布されてしまっている.....。

私は、じゃ、逃げられないじゃない。と、兄が少々気の毒になって心の中で小声で呟いた。そして、無理やりのように話を変えた。

ところで、ペットについてのクレームは無いの?いなくなったから探して欲しい、とか。

兄が言った。

うちのマンションは、ペット禁止だよ。


ん?ん-?んん??

私は、ちょっと待てよと思った。兄の家には、猫が三匹いる。とても臆病で大人しい猫たちだが、彼らを飼うのは禁止ではないのか?そう思い、問い詰めると、

いや。あれは、室内飼いだし。他にも、ちらほら、猫や室内犬をこそっと飼っている人は、いる。

とのことだった。

私は、釈然とせず、心の中で大きな声を出した。おいおいおい。あなたは、そういうのを注意すべき、理事長というお役目なのではないのでしょうか!


そういう会話をしつつ、最寄駅で兄を降ろし、別れを告げた。車の中は、長男と、家内と私の3人だ。

長男が、徐に言葉を発した。

伯父さん、潔癖だから、そういう人だとは思わなかった……。小動物は許可されているマンションだと思った……。ちょっと、伯父さんを見る目が変わってしまった……。

確かに、そうだろう。私も、少し、兄を見る目が変わった。兄は、きちんとしていて、あらゆる不正を許さない高潔なタイプなのだ。普段の行動も。そして今までの生き方も。

私も、家内も、我が家の子供たちも、そういう兄を心から慕っている。そういう印象に、かわいい猫3匹のおかげで、脆くも大きなヒビが入った。

まぁ、兄も、たかが人間なのであろう。

その日の夕日は、なぜか、とっても赤かった。


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