見出し画像

尊厳

尊厳という題からすると、たいそうな記事かと思われそうだが、全くそんなことはないので最初から期待しないでほしいと宣言をしておこう。

今年26歳になる長男がいる。既に独立し、一人暮らしをしているのだが、その長男がまだ小さい頃の話だ。

実は、我が家には決まりがある。水回りの掃除は、私がやる。家内には手を出させない。これは、結婚前からの約束事で、私から提案をしたのである。

理由とは言っても、たいした理由は無い。水回りは、特に綺麗にしておきたいので、私が取り仕切りたいという思いと同時に、家事も結構大変だ。家内と分担するとすれば、汚くなったところに手を突っ込まねばならないようなことは、私の仕事であろうと私自身が思ったからなのである。

家内は、自分でしないトイレの掃除について、結婚当初からいろいろと提案してきた。そのうちのひとつに、男子が立って用を足すと、不清潔な飛沫が周辺に広く飛び散るからよくないというものがあった。

ある晩、家族会議が開催され、その場で我が家の男子は、たとえ小なりと言えども座って用を足すことに決定したのである。その時、長男はまだ家内のお腹の中にいた。


私はその日から、我が家や友人などの家を含めて一般家庭ではきちんと便座に座ってすることを励行した。

やがて長男が生まれ、長男にもその家訓は受け継がれることになった。幼少の頃から彼は、外出した時に見かける男子専用便器を前にしない限りは座って用を足すことを習慣とすることになった。


一度、5年ほど前だろうか。リフォーム時にトイレを改装することになった。その時の選択肢に、泡が貯水を覆っていて跳ね飛びないタイプのトイレがあり、その時には私も長男も心踊ったのだが、見た目や機能などの面で他社に押され我が家への導入が実現されることはなかった。


時を少し遡り、長男が中学一年生の頃のことだったと思う。家族で出かけようとした時に、私は座らずに用を足してしまったことがあった。時間に追われ、それでも車に乗る前に、どうしても用を足したかった。タイミングの悪いことに、その時に長男と一緒だったのだ。

長男は、トイレに入って用を足そうとしている私に、何度も、

立っては、いけないよ!

を繰り返した。

絶対、それは、ダメだからね!

それでも私は、中腰ならば神様は許してくれると、訳のわからない理由を口にして立って用を足した。

そのとき、長男は号泣したのだ。

俺は、生まれてから今まで、一度も約束を破ったことがないのに...


時を経て、長男が独立してから後の帰宅したときだった。

お前、まさか、立って用を足していないよな。

こっそり聞いてみた。すると、彼はにっこり不敵な笑みを浮かべるだけだった。

翌日、今度は家内が、聞いてみた。すると、

座れなんていうならば、帰宅しない。

彼は、キッパリと言い切った。

おいおいおい。我が家のトイレ掃除をするのは、この私なのだ。しかもトイレは、最近リフォームしたしばかりだ。余計な汚れを持ち込むのではないぞ。私は心の中で大きめの声で叫んだ。

私の声が長男に聞こえていたわけは、ない。だが長男は、振り返って私に静かに言った。

俺は、男子の尊厳を取り戻したんだ。


長男は、一人暮らしをしている。当然、トイレ掃除も自分でする。まる二年以上が既に過ぎている。当然、掃除は自分でやることになる。その中で何かに気づいたのであろう。

先日帰宅し空港まで送ったときに長男は、

やっぱり座ってするのが、正解なのかも知れない

そう、言った。

自分で掃除をして、しかも時が経つにつれて気づきも増えてくるのだ。男子の尊厳、いや、人間の尊厳というのは、そんなちっぽけなものではない。一度約束を反故にした私はいずれ罰せられるべきだが、尊厳を語るには、我が家の、男子が座る法則はあまりに矮小すぎる。第一、自分の掃除が楽だろう。そうは思わないか。私は、長男の後ろ姿に向かって心の中で笑いながら呟いた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?