マガジンのカバー画像

日本史関係♪

17
日本史に関するマガジンです♪
運営しているクリエイター

記事一覧

真田丸第30話・キリシタン禁制

真田丸第30話・キリシタン禁制

最近突っ込む所が少なくなってきて、更新サボり気味の真田丸感想です😅。観てるのは観ております😉

今回はバテレン追放令及びキリシタン禁制についてです。真田丸第30話で、いきなりバテレン追放とキリシタン弾圧が登場しましたが、本当は1587年7月24日にバテレン追放令が出され、1597年2月5日に秀吉の命令によって長崎でカトリック信者が磔の刑に処されました(日本二十六聖人殉教事件)。

ドラマではス

もっとみる

ポケモンGOをきっかけに身近な史跡から歴史に興味を持って頂ければ良いな、と思います😉🎵
#ポケモンGO #日本史 #史跡探索

真田丸第23話について

真田丸第23話について

真田丸第23話です。秀吉は遂に北条征伐を決意、全国から総勢21万の兵が集められ、石田三成が兵站と作戦を取り仕切り(石田三成は今回やや冷静さを欠き、過敏性腸管症候群を呈しておりました😅)、総大将は豊臣秀次で北条征伐を行うこととなりました。

豊臣軍20万人以上、北条軍5万人以上、合計30万人になんなんとする小田原城の攻防戦を、なんと、株式会社コーエーテクモゲームスのCG図だけでまとめてしまっており

もっとみる

江戸城天守閣は明暦の大火で焼失後当時の老中保科正之の考えで再建しないことになりました(立派な天守再建は要らぬコストで、馬上の政治ではなく民の目線での政治を目指せ、と)。その考えから敢えて再建しないのが賢明かと心得ます。江戸城天守閣再建 http://urx.mobi/ujs6

少彦名神社

少彦名神社

少彦名(スクナビコナ)の命は、日本神話における神様で、「古事記」では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子で、「日本書紀」では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされ、「古事記」によれば、少彦名命は大国主命の国造りに際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、大己貴(オホナムチ)大神の命によって国造りに参加した、と言われています。「日本書紀」にもこれと同様の記述があります。

少彦名命は、国造りの協力神

もっとみる
本能寺の変について

本能寺の変について

今日は旧暦ですが「本能寺の変」があった日です(天正10年6月2日)。

最近では本能寺の変は怨恨説ではなく四国説が有力?本能寺の変は日本史最大の謎で、よくドラマでも取り上げられ、厳しい仕打ちをする信長への怨恨説で描かれますが、最近は四国説が有力です。信長は光秀に四国の長宗我部氏の懐柔を命じ、光秀は部下の斎藤利三の妹を長宗我部元親に嫁がせて婚姻関係を結ぶところまで行きましたが、天正8年に織田信長は秀

もっとみる
オバマ大統領広島スピーチ全文

オバマ大統領広島スピーチ全文

71年前の明るく晴れ渡った朝、空から死神が舞い降り、世界は一変しました。閃光と火の玉がこの街を破壊し、人類が自らを破滅に導く手段を手にしたことがはっきりと示されたのです。

なぜ私たちはここ、広島に来たのでしょうか?

私たちは、それほど遠くないある過去に恐ろしい力が解き放たれたことに思いをはせるため、ここにやって来ました。

私たちは、10万人を超える日本の男性、女性、そして子供、数多くの朝鮮の

もっとみる

今日は5月27日、日本海海戦があった日です。

「最早八〇〇〇!」
「どちら側で戦をなさるんですか!」(伊地知艦長)

この時、世界の海軍戦術の常識を打ち破ったところの異様な陣形が指示された。

丁字戦法の始まりである。

坂の上の雲、学生時代に読みましたが、良いですよね〜😊✨

石川数正の徳川家出奔の謎

石川数正の徳川家出奔の謎

徳川家康の第一の重臣、石川数正の出奔の理由は、歴史上の謎とされています。秀吉の調略と考えるのが一番妥当ですが、筆頭家老の重臣の扱いを受けていた石川数正が、例え羽柴秀吉から調略を受けていたとして、安々と応じるかなぁというところです。一般的に三河武士は忠義や信義に厚く、主君に生涯忠誠を誓うとされていますが...。

ドラマであったような真田信尹が裏で糸を引いていた、ということは実際あったのでしょうか❓

もっとみる
清酒の歴史について

清酒の歴史について

透明な清酒の歴史を少し😊🎵。

有名な戦国武将であった山中鹿之助(※)の長男の山中幸元(新六幸元)は、父同様武運はなく、摂津国に逃げ延びるはめになりますが、自分は武将に向いていないと思ったのか、武士を捨て、商人となり、名前も、鴻池新右衛門直又(鴻池直文)と改めました。伊丹の地で慶長の始めに酒造業を始め、慶長4年(1599年)には江戸送りを開始、馬による輸送で、江戸送りの元祖とも言われていま

もっとみる
いろは歌に込められたメッセージ

いろは歌に込められたメッセージ

有名な、「いろはにほへと…」の「いろは順」ですが、平安時代に成立したものと言われていますが、作者は分かっていいません。

三重県明和町の斎宮跡で最古のいろは歌が書かれた土器が発見された平成22年(2010年)に三重県明和町の斎宮跡で、平仮名でいろは歌が書かれた4片の土器が発見されました。これは平安時代の11世紀末から12世紀前半の皿型の土師器であり、出土物でひらがなで記されたいろは歌としては国内最

もっとみる

1897年(明治30年)1月15日に正岡子規の友人である海南新聞社員柳原極堂が松山で創刊した「ホトトギス」の東京での会合にて。夏目漱石「それはそうと、今月の吾輩は猫である、遅れてすいませんね😅」「おー♪」「お待ちかね😊✨」これって、明治の頃のnoteではないですかね😊✨🎵

「敵艦見ユ、地点二〇三」(信濃丸)。日本海海戦で対馬海峡に近付きつつある、ロジェストベンスキー提督率いる、ロシア・バルチック艦隊⚓️です。第二次大戦の頃は戦艦は無用の長物扱いでしたが、この頃は最も戦艦が輝いていた✨、そんな時代でした…。「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」(秋山真之)